愛の鞭
佐 野 良 二
体罰やシゴキ事件が相次いでいる。教え諭すべき者の叱りが度を越して怒りに変わってしまったのか、現代の若者が軟弱化して愛の鞭を暴力と受け止めてしまうのか、その加減や程度は当人同士でないとわからない。しかし、何か欠けているものがあることは確かだ。小説を書いていた頃、第二の郷里士別で道北のPTA研修会に講演を依頼されたことがある。そのとき、私はプロボクサーで元世界Jミドル級チャンピオン・輪島功一の息子を殴る話と、木彫家・阿部晃工の母の手紙のことを話した。
輪島さんは士別出身。生涯三八戦して三二勝一引分五敗、三二勝のうちKO勝ちが二五試合というハードパンチャー、そんなパンチを食らわされてはたまったものではない。可愛いわが子に手を出すはずがないと思っていたら、当時の新聞に奥さんのインタビュー記事が載り、その中で「お父さんはお子さんを叩きますか」という質問に「ええ、叩きます。それも泣きながら叩くんですよ」と言っていた。
もちろん手加減はしているだろうが、世界の強豪を倒してきた破壊力は並みでない。それを一番よく知っている男が泣きながら叩く……。殴られた息子さんの状態は書かれていなかったのでわからない。しかし、その強烈な痛みとお父さんの涙を見て、息子さんは言葉にならないものを感じただろう。
もう一人士別出身、昭和の初期に阿部晃工という彫刻家がいた。上京し美術大学を出て修業しているとき、仕事もなく窮乏生活に耐えきれず「きょう食べる米もない、とても暮らしていけない、彫刻家になることは諦めて士別へ戻りたい」とうちへ手紙を書いた。それに答えた母・トメさんの返事。
「だいぶ困っているようですね。まだお父さんには見せていません。帰ると言いますが、それはいけません。(中略)母はお前を天才児として育ててきました。母はそれが誇りだったのです。食べられなければ食べずに死になさい。何で死ぬのも同じことです」
読む者が息を飲む言葉だ。現在のような豊かな時代とは違い、誰もが貧しかった。家には弟や妹もいて苦しかっただろうが、晃工さんはこのとき二十二歳、骨身にこたえた言葉だったろう。母親の叱声はまだ続く。
「病気ででもあれば、どんなことでもしてやりますが、お前は母がいつまでも優しい母と思っているのは間違いです。そんな意気地なしは見るのもいやです。帰って来ても家には入れません。死んで死んで、骨になって帰って来なさい。(中略)一日も早くお前の死んで帰る日を母は待っております」
晃工さんは、この手紙に奮起し、歯を食いしばって修業を続け、そのあと貧困の極に達し、大相撲の出羽の海部屋に入門して飢えをしのぐも、稽古中に怪我をして彫刻家の命というべき右腕の自由を失ってしまう。絶望のあまり自殺も考えたというが、今度は彫刻刀を左手に持ち替えて修業し、帝展〜新文展に入選、さらに無鑑査となり、ついには昭和の左甚五郎≠ニ称される日本彫刻界の名匠に成長する。まるで講談のようなストーリーだが、実話である。
いまの親は、子供と友達のような関係になるのが多いそうで、この母のように子を叱れまい。もちろん時代が違うし、そんふうに叱ったら子供が自殺するかキレて何か事件を起こしかねない、なんて先を心配してしまいそうだ。晃工の母は、その言葉に息子が耐えうることを信じていたのだろう。心の深いところに親子の絆があっていえる言葉だ。
いっとき、絆という言葉がどこでもかしこでもいわれ、手垢染みたように感じたが、この心の絆がなければ、叱声は罵声と変わらず、愛の鞭は暴力にしかならない。
(2013/2/2)
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