ドッペルゲンガー
佐 野 良 二
着信したメールをチェックしていると、なかに差出人が私の名前になっているものがあった。件名は「初めまして」。私が私に間違って出したのか? いや、書いた覚えはない……。
本文を開くと、それは、同姓同名の人からのメールだった。インターネットで自分の名前を検索したら、私のホームページに入ったとある。私はペンネームでホームページを開いているが、そのころ、プロフィールに本名・忠勝も併記していた。それが引っかかったらしい。姓も名もあまり多いほうではないので、両方組み合わさっての一致は珍しいことに違いない。
静岡県富士宮市に住む人で、私より十五歳若い。ホームページのジャズ愛聴盤のリストを見たのだろう、「キース・ジャレットがお好きなようですね。私もジャズ・ドラムをやっていて」云々とあり、こっちも驚きに近い興味を覚えた。名前の由来については、命名は祖父で、徳川幕府の幕臣からとったらしいとのこと。「同姓同名のよしみで、今後ともよろしく」と結んでいた。
さっそく「同姓同名とは奇遇ですね。しかもドラマーとはすごい! 私は聴くばかりで演奏は何もできません」と返信した。当方の名前については「末っ子なので、父の名の下の字をとって付けたようです。まあ、当時の戦争へ向かう世相も感じられ、文筆には向かないと思ってペンネームを使っています」と。
佐野姓は全国にけっこう分布していると思うが、北海道ではそんなに耳にするほうではない。私の父は新潟県中条町の漢方医の次男で、北海道古平町の子のいない網元に養子に出されたあと、養家に実子が生まれて疎まれたため出奔、道内を転々として血縁に頼らない生き方をしてきた。生家について多くを語らなかったので、不明なことがほとんどだった。父が亡くなってから先祖調べをしたことがある。幸い曾祖父が寺子屋を開いた関係で、明治維新後は学校の創始者となり、小学校の校庭に顕彰碑が建ち、記念誌に載っていたことから、四代先までわかった。しかし、その先は調べようがなかった。
静岡県の同姓同名さんにルーツを尋ねたら、「武田信玄の家来に佐野姓がいたようで、何かその関係のようです。私の生まれた富士宮市では、一クラス(当時五〇人くらい)に男女あわせて八〜一〇名くらい佐野という者がいました。山梨県南部から、富士地域には一番多いかも知れません。だから、今は姓で呼ばれますが、高校生までは名前で呼ばれていました」と答えてくれた。「佐野」がそんなに大勢いるなんて想像してもみなかった。
古臭い話よりも、関心は彼のドラムのことだった。私のジャズへの興味はドラムに始まる。士別で労音の活動が盛んだった頃、市民会館での公演(バンド名は失念)で「キャラバン」を演奏中、ドラムソロになって、他のメンバーがみんな舞台から姿を消し、ドラマーが一人スポットライトを浴びて、延々と激しいリズムを叩き続けた。その姿が若い私にはとても恰好よく見えた。
以来ジャズの虜になり、食費を減らしてもレコードを買い漁り、ハードバップからメーンストリームを主に聴いてきたが、ビル・エヴァンスに出会ってから自分の求める領域が定まり、キース・ジャレットやチック・コリア、リッチー・バイラーク等、リリカルなアコースティックのピアノ・トリオが好みである。ピアノソロも悪くはないが、やはりドラムとベースが入ったノリのいいものを選んでしまう。
とくにドラムは何より刺激的で、魂を鼓舞されるようだ。マックス・ローチ、バディ・リッチに始まって、アート・ブレーキー、エルビン・ジョーンズ、トニー・ウィリアムスはライブも見にいって大いに興奮したが、現在はキース・ジャレット・トリオにいるジャック・ディジョネットの変幻自在なドラミングがお気に入りだ。
率直な思いをメールに託すと、ドラムのことを書いてくれたのが嬉しい、と長い返事がきた。
「先月、ニューヨークに行ってブルーノートでちょうどエルビン&ジャズマシーンを見てきたばかり。ちょっと年をとって、演奏はやばかったですが……。また、ジャック・ディジョネットは私のフェイバリット・ミュージシャンです。スタン・ゲッツで来たときからのファンで、その時彼が使っていたソナーという、当時日本に輸入されていないドラムにあこがれ、楽器メーカーに頼んで、アメリカの楽器展示会で買ってきてもらい、使っていました」
そのあとを要約すると──中学生の頃から我流でダンボール箱などを叩き始め、仲間に誘われてジャズバンドに入り、ある楽器メーカーのコンテストで一位になったとき、思いきって渡米、ロサンゼルスに住んでいた同級生の元に居候してドラムのテクニックを学んだ。だが、頭は進んだが体がついていかず間もなく帰国。その後は毎日八時間の練習をして技術に磨きをかけ、どうやら自在に叩ける境地に入った。ちょうどその頃、音楽教室のドラム教師の仕事が舞い込み、それから教えるほうも、演奏活動も順調に進み、稼げるようになった──とのことだった。
私は若い頃、なんでもやってみたい人間だった。いい絵を見ると絵を描きたくなる、いい小説を読むと小説を書きたくなる、心に響くジャズを聴いたとき、自分も演奏したくなった。楽器をやるならドラムだ、と思ったものだ。叩く、あるいは蹴る(踏む、が正しいか)という暴力的行為によって音楽を表現できるとは、なんて男らしい! しかし、家庭や環境を越えられず、何よりも貧しさとの闘いが先だった。けっきょく、ただの憧れで終わってしまった。だから、彼のドラム人生を他人事に思えず、まるで私の果たせなかった夢を実現しているもう一人の分身のように思えた。
彼の現在の本業はコンサートやイベントのプロデュースで、余暇に仲間たちとジャズ演奏をやっているらしい。自らのカルテットで発表したCDを贈られた。ジョン・コルトレーンの名曲も入っているが、ほとんどがオリジナル曲。そのうちの一曲はテナーサックスをフィーチャーしていて、北欧風な憂いと透明感のある演奏で気に入った。またタイトル曲は音響的にドラムの長さを出したとかで、ズシリとした床の底に拡がるような響きが心地よかった。
お返しに拙著小説集を贈った。好意的な感想のメールが返ってきたとき、考えた。私はドラムを叩くことはできない。しかし、講釈師見てきたような嘘を言い、という方法がある。夢を小説としてなら書けるのでないか。
こんなストーリーはどうか。──堅実な仕事をしてきた男が定年退職し(どうしても自分が投影されてしまう)、いままでやったことのない世界を体験したいと思って、ドラム教室に通う。そこで叩くという行為が老いた男の感覚を揺さぶる。体の底の内発的な衝動を表現すること、それはいままでの勤務のような、世間と折り合いをつけることのみに腐心していたのとはまったく違う、自己実現の世界。彼はその世界にのめり込み、ついに長年連れ添った妻に愛想尽かされて別れ、成長した子供たちからも疎まれ、隣近所からも騒音の苦情が起き、変人扱いされて孤立する。世俗的にはいろいろなトラブルが生じるものの、知り合った若者たちとバンドを結成、演奏を通じて、今この瞬間を生きることに目覚める……。
このジャズ仲間に、一風変わったキャラクターを設定すれば楽しい展開になるだろう。こういうのは私の得意な手法だ。どういうタイプがいてどんな癖にすべきか、周りにミュージシャンが一人もいないので参考にしようもないが、クラシックから転向したオールドミスのピアニストを登場させ、彼女といい仲になるなんてのも面白いかもしれない。
気持ちを打ち明けると、「ぜひ書いてください。質問があれば何でもどうぞ。私の体験や知識のありったけをアドバイスしますから」と支援を約してくれた。しかし、知らない世界はどこから手をつけていいかわからない。どんなところから学び始め、どの程度やればどのレベルまで上達できるのか、そのへんの細部が見えないのである。メールの質疑応答が続く。
「果たして六十過ぎの老人が、突如ドラムを習って、一〜二年でジャズバンドを結成できるものでしょうか? そこがまず肝心なことです。もちろん真似や独学のような回り道をせず、専門の講師に速成法を習うにせよ、年が年。貴兄が教えた生徒にそんなスゴ腕のご老体がおりましたか? そこのリアリティーが保てないと書き出せない。小説はもちろん、嘘──虚構の世界ですが、心の真実を書くための要素を嘘にはできませんので」
「年輩の方にも何人か教えたことがあります。なんと言ってもジャズという音楽は、アドリブが生命。ドラムだと8ビートとかのポピュラー系のリズムは、練習さえすれば、ある程度アンサンブルができるようにはなります。ところがジャズは、感性が必要とされる部分が多く、習ったからできるかというと、そうではないのです。その一番の原因は、スイングというリズムが、数学的に割り切れないもので、揺れる〜ノリといった感覚が大事なわけです。私が学んだもので、それがよくわかる本が1冊だけあります。バークリー音楽院のジャズドラムの本です。なかなかメールでは表現が難しいので、そのページをFAXします」
本場アメリカのジャズ秘伝書、その真髄というべき部分を数枚送ってくれた。それには楽譜まで入っていて、彼はドラミングの実際を説いてくれた。曰く「同じテンポをキープしながら微妙に変えてみたり、なおかつ右手でテンポを取りながら左手でインプロビゼーションをやるわけです。そして、それらはすべて他の奏者から発せられる音を聴きながら、それに融合したり自己主張したりして、臨機応変に音楽を表現していくのです」
なるほど、と私は頭では理解できるのだが、それが手足や音としてどう具体的に反応していくのか想像力が働かない。聴く耳は持っていても、音楽を生み出すものは別である。実際にやった者にしかわからない感覚こそが小説の大事な要素になるように思った。彼と同じ街に住み、同じ空気を吸い、しょっちゅう会ってプレイを見たり聴いたり、飲んだり食べたりおしゃべりしたりできたら、そこから何かが生まれる可能性はあるだろう。だが、本当のところは、私が実際にスティックを持ってスネアードラムやシンバルを叩き、バスドラのペダルを踏んでみなければ、インタープレイもその高揚感も描き出せないのかもしれない。……てなことで、まだ一行も書き出せないでいる。
キェシロフスキ監督の映画「ふたりのベロニカ」を見たことがある。ポーランドの美しい娘ベロニカは、もう一人の自分がどこかに存在するような、奇妙な感じを抱く。そしてそっくりの女の子ベロニクがフランスにいた。二人は同じ時間を生きているが、別々の世界にいて出会うことはない。この映画のドッペルゲンガーは、自分の悲しみを知っている人がどこかにいるという、癒しに繋がっているようだ。
私が体験した同姓同名の名乗りは、その奇遇を知り得て愉快であったが、老年と中年という美しくない同士(まだ彼の顔を見たことはないが)であり、インターネットによってできたこの関係は、時間と空間を素速く移動し、見通しがよすぎて、ベールに包まれた不思議さ、ミステリアスな雰囲気がちっともない。どうも古来伝承の分身譚とは対極にあるようだ。
『士別市民文芸』第22号 2007.3.1
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