カワセミの色
佐 野 良 二
書きあぐねていた小説をやっと書き上げたら、頭が空っぽになったので、気分転換にバードカービングに手を出してみた。以前、テレビで放映された趣味の講座番組をビデオに録っておいたのだが、それを見様見真似でやろうというわけだ。角材に墨付けをし、ノコギリで不要部分を切り落とし、彫刻刀で彫っていく。しだいに気持ちが集中してきて、面白くなってきた。彫るという作業の何と楽しいことか。子供のころ、ナイフ一本で竹とんぼや水鉄砲を作った気分がよみがえるのだろうか、とにかく嬉しくてしょうがなくなってきた。
削り屑が増えるにつれ、木片は鳥の姿に近づいていく。大きい嘴、ゆるやかに上って絶壁へ落ちる頭、着ぶくれした子供のような体形、そして繊細な羽根の一枚一枚。ちょうど掌に入る大きさのせいか、その木片がいとおしくなった。ときどき握り締めては「もっともっと可愛くしてやるからな」と声をかけたりした。
私の父は下駄職人だった。木工作業の一部始終を見ながら育った私の手先には職人の血が流れているのだ、器用でないはずがない。かくして白木のカワセミは、われながらまずまずの出来に彫り上がった。針金に糸を巻いた趾も作って腹部に嵌めこみ、あとはいよいよ色塗り。
全身に白い下地剤を塗り、それからアクリル絵の具で着色する。羽根はコバルトブルーを塗って、乾いたらその上に薄く緑をかけていく。見る角度によって青になったり緑になったりしなくてはならない。ビデオの指導者は、薄く塗って何度も重ねていくと深みが出ます、と苦もなくいうけれど、私はせっかちすぎるのか、一気に目的の色を出そうとする結果、塗りすぎ、濃すぎ、汚れすぎて、ついには変にケバケバしく、安っぽくなってしまった。たしかに私は職人の子であって画家の子ではなかった。絵筆の扱いは不器用というほかはない。
アクリル絵の具のいいところは、失敗したらまた白い下地剤を塗って最初からやり直せることだ。けっきょく青いカワセミは、再び無垢の白い色に変わった。
たまたま図書館の図鑑でカワセミを調べたら、載っている写真とビデオで見るバードカービングの作品と色が微妙に違う気がした。リアリストの私としては、限りなく本物に近づきたいと思っている。そんなとき博物館の学芸員から耳寄りな話を聞いた。カワセミの死骸を見つけた市民が博物館に寄贈してくれたので、いずれ剥製にすべく、いま冷蔵庫に保管してあるというのだ。さっそく見せてもらいに行った。
本物のカワセミは、ビデオの作品とはかなり違う色合いだった。私は指導者の作品を模倣するのでなく、自分の眼で確かめた本当の色を再現すべきだと思った。そこで死骸をためつすがめつ観察した。羽根は深い緑色、腹は赤土に似た橙色、背中は眼の覚めるような水色――この鮮やかな背の羽毛こそ、カワセミが生きた宝石≠ニ呼ばれるゆえんなのだろう、例えようもない美しさにしばし見とれた。
私はつい学芸員に、死骸を貸してくれないか、と頼んでみた。しかし仕事に忠実な学芸員は、これは貸し出すものではないし、それに腐敗しては困りますから、とにべもない。
帰宅すると、記憶の薄れぬうちにと再度、着色にとりかかった。だが、どう絵の具を調合して塗ってみても本物の色にはほど遠い。かくてまたまた白で塗りつぶす。
いつか「文章を書くほうがよっぽど易しいな」とぼやいていた。同時に、あのビニールの袋に入って固く眼をつぶっていたカワセミの死骸を思った。果して私の小説に、一羽のカワセミをすら生き返らせる力があるだろうか……。私は焦り出した。とにかく早いとこ仕上げて、小説に戻らなければならない。気分転換に始めたのだから、そんなに熱中することはないのだと思いながら、やはり納得できる色が出ないと収まりがつかないのだった。
木のカワセミは、色を塗るたびにテレビの上に置いて乾かす。私の迷妄の日々のように、白い色だったものが翌日は薄青色、翌々日は緑色、そして翌々々日は得体の知れない汚れた色になって、また白に逆戻り。そんなことを繰り返している。
いったい、いつになったら完成するのか。あまり色を塗り重ねるものだから、私のカワセミはこのごろ、ほんの少しだけれども太ってきたように見える。
『ふぞろいの書き手たち』Vol.3 1996.5.1
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