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さのさ

佐 野 良 二

 私は人前で歌うのが好きでない。それは音痴だからではなく、ただ嫌だからである。小学生の頃は学芸会で、何百人もいる児童の中から私一人が独唱をさせられたこともあるくらいだ。父親はよく義太夫を唸った。そして父親も下手ではなかった。唸ると歌うとは違うが、私にも親譲りの正常な音感があると思っている。
 先年、遅ればせながら管理職というものになり、ある田舎町の出張所長として赴任した。この所長の座は、通称村長さん≠ニ、尊称とも蔑称ともつかぬ呼び方をされ、それこそ町のあらゆる会合に出席しなければならない。酒が飲めないの歌がうたえないのと我を通すわけにはいかない立場だった。そして町はたいへんカラオケが盛んだった。
 このカラオケというものが、私は大の苦手である。まずあの圧倒的な音量が嫌だ。本来主体たるべき自分の声が伴奏に左右されている。過剰な音の蔭に隠れてうまいと錯覚しているのでないか。そういうごまかしを続けていると、人間性そのものをごまかすことになりはしないか。歌うなら伴奏なしでやれ!  いや、何もそんな遊びの領域に眼くじらを立てることはないか。しかし、嫌なものは嫌なのである。そんな悪態をついてみたくなるのである。
 ところが、村長さん≠ヘカラオケ大会の審査員をやらなければならないことになっていた。歴代みな立派に果たしてきたという。否応なく出かけるしかなかった。町内会館はぎっしり満員、こんなに錯覚を楽しもうとしている人がいる。そんな錯覚に身をゆだねていると自分の人生まで錯覚してしまうぞ!  いや大人気ないことを吐かんでもよろしい、自分が嫌いだからと言って他人の楽しみを批判することはない……。
 
 大会が始まった。似たような節回しの歌を鼓膜が圧迫されるほどのボリュームで繰り返し聴かせられる。聴くだけだから問題はない、と心を鎮めて聴いていた。ところが大会半ば、驚いたことには第一部と第二部の合間に審査員が順に歌うのだという。私はうろたえた。必死で断ったが、そういう習慣だという。歴代みな立派に果たしてきたという。
 万事休す、窮地に追い込まれた私は若い頃、面白半分で覚えた「さのさ」を唸ることにした。この歌はけっこう難しい。しかし、きわどい文句だから、それで少しは聴き手を煙に巻けるかもしれないと思った。私はマイクを握った。

  俎(まないた)の上にのせられ、切らりょと儘(まま)よ
   どうせ任せた、この体
   お好きなように、ねえ、料理して
   びくともしませぬ、鯉(恋)じゃもの

 この歌、出だしがちょっとでも高すぎると途中で声が出なくなる。「どうせ」という個所は最も高いから注意を要する。さりとてこの部分を低く歌うようでは味が出ない。「どうせ」が自分の声の限界、ぎりぎりの高さで歌わなくては切なさが表現できない。
 私はジャズを聴くことは好きである。ジャズなしでは一日たりとも暮らせないと言ったほうがいい。この「さのさ」の歌い方も実はジャズに習うところが大きい。端唄とジャズボーカルとはまったく相容れないと思う方もあるかもしれないが、私の説はこうだ。ジャズボーカル、とくに女性歌手のそれは絶叫型とささやき型に分けられる。「さのさ」が参考にするのはもちろん後者、たとえばヘレン・メリルやペギー・リーの耳元でささやくような歌い方、甘く、やる瀬なく、なげやりで、頽廃的に歌うのでなければならない。
 粋な姐さんの爪弾き三味線が入っているつもり、声量も節回しも絶妙のつもり、という強引な自己暗示の結果いつになくうまくいった。案ずるより産むが易し、こんなに上手に歌えるとは思わなかった。マイクを離して一礼すると、私の耳に聞こえたのはやんやの拍手ではなく、「村長さんよ、そんな難しいのでなく、カラオケやってくれや」という声だった。

 住民はみんな花を愛する美しい町だった。家の周囲や沿道に色とりどりの花が植えられていた。「さのさ」の歌詞に花づくし≠ニいうのがある。

  花づくし
   山茶花(さざんか)、桜に水仙花
   寒に咲くのが梅の花
   牡丹、芍薬(しゃくやく)、ねえ、百合の花
   万年青(おもと)のことなら南天、菊の花

 この正調花づくしをもじって、自分で替え歌を作ったものがある。それも歌いたかったのだが、ウケなかったのでやめてしまった。いまここで披露しておきたい。

  鼻づくし
   獅子鼻、鷲(わし)鼻、胡座(あぐら)鼻
   シラノの鼻なら大き過ぎ
   クレオパトラは、ねえ、高過ぎて
   ちょうどいいのは、主の団子鼻

           『士別市民文芸』No.20 1996.3.1
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