戦場をくぐり抜けて来た写真
佐 野 良 二
ここにセピア色に変色した一枚の写真がある。写っているのは戦中の、銃後のわが家族……中央に当時四歳の私が立って敬礼している、両側に戦闘帽の父ともんぺ姿の母が椅子に掛け、後ろにセーラー服の姉たちが立っている。ハガキより少し大きいサイズだが、八つ折りに畳まれていて、折れ目が割れ、汚れや傷みもひどい。
これは戦地の兄へ慰問袋に入れて送ったものだ。兄は召集され台湾に出征した。台湾は激戦地ではなかったらしいが、機関銃兵だったから戦闘のさいは最前線だったろう。幸いにも命を失うことなく、無傷で復員した。そしてお守り袋から出したのが、この小さく折りたたみ、擦り切れた写真だった。「もうダメだと思ったとき、これを出してお前たちに別れを言った」と姉たちに話したという。
復員した日の、幼い私にも鮮明に覚えていることがある。兄はリュック(あるいは背嚢というものだったか)の底に固まっている白い粘土状のものを千切って、掌でビー玉くらいに丸めて俎板の上に並べた。何かと思っていたら「食べてみろ」というので、その一個を口に入れると、とろり甘みが広がった。私は笑顔になったに違いない。それは砂糖の塊だった。中には白いというより汚れて鼠色のようになっている玉もあったが、甘みなど味わったことのない物資不足の時代、とても貴重なものに思えた。台湾には砂糖工場も多くあったようなので、どさくさに紛れて戦地土産に失敬してきたのだったろう。
兄はその後、結婚したが不幸が続いた。体調を崩し、胃潰瘍(胃癌だったのかもしれない)が致命傷になって二十八歳で亡くなった。嫂も町の大火で赤ん坊を助けようと家に駆け込んだまま帰らぬ人となった。
この写真は、兄のお守り袋に入って戦場を駆けめぐった、わが家に残る唯一の戦争の遺産である。兄と末っ子の私は十六歳も年が離れている。今、曲がりなりにも平和な時代のなかで、兄より五十年も長生きしてしまった私は、毎年、八月がくるとこの写真を取り出して見てしまう。兄は写っていないのに、折り目の向こうに兄がいる気がする。
(2018/8/15)
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