速記を学んでいた頃
佐 野 良 二
少年雑誌の広告で、日本神秘協会というところから忍術の秘伝書を買ったことがある。天井を歩く術とか歩行者の方向を左右する術などが解説されていたが、中学生の私には集中力や念力が足りないようで忍術使いにはなれなかった。同じ雑誌の広告で、芸術学院というところから漫画の通信教育を受けたこともある。のちに有名になる人に添削してもらったりしたが、四コマ漫画を数篇描いただけで漫画家にはなれなかった。
たわいのない好奇心を笑われるかもしれない。だが当時、伝播媒体はラジオだけ、テレビはまだ一般家庭に普及していなかった。少年雑誌の漫画や絵物語に胸をときめかしていた田舎の子供たちにとって、広告欄は、それら夢のような世界を実現する入口のように思えていた。
この世に速記術というものがあることを知ったのは、高校生のときだった。人の話す言葉をもらさず書き取ることができる……それって超能力と言っていい凄い技でないか。またもや雑誌の広告だったが、今度こそ自分のものに! 私は早稲田式速記の通信教育を受けることにした。昭和三十二年、十七歳の決意だった。
発声とともに消えてしまう言葉を記すために、速記符号はきわめて単純な形にできていた。縦、横、斜めの直線や曲線の大小、またそれに小円や楕円を付すことで書き分ける。知らない者にはまるでミミズが這った跡のようにしか見えないだろう。五十音はすぐ覚えられたが、それがとっさに出てこなければ意味がない。目や耳に入る言葉はなんでも書いてみた。数カ月すぎると、助詞や助動詞、頻度の高い単語の省略法も学んだ。
新聞・雑誌の記事から教科書まで身のまわりにある文章と名のつくものなら片っ端から書いて、その符号を判読し、国字に直す練習をした。書き取れるだけでなく、読み違えたり、漢字を知らずに書き違えては正しく表記できない。『新聞用字用語集』『国会会議録用字例』を備え、『漢字書き取り問題集』も合わせて学習した。
受講者向けの『早稲田速記新聞』に力試し≠ニいう企画があって、出題文を速記符号で書いて提出すると添削し返送してくれた。高点をとると名前が載るので励みになり、熱心に応募した。初等科から普通科・研究科に進むうちに要領を覚え、筆勢を活かした書き方にすると優秀者の欄に名前が出るようになった。しかし力試し≠ヘ速記符号が正しく合理的に書かれているかを競うもので、速さを競うものではない。無駄のないきれいな符号が速く書ける道理ではあるが、汚くても速く書け読み返しできるならば、そのほうが実用的だ。私は上位の常連になったが、人の話す速さについていけなかった。ただ歌謡曲なら曲に合わせて言葉を引き延ばすので、余裕をもって書き取ることができた。クラスメートに、ラジオから流れる春日八郎や三橋美智也の歌詞を三番まで書き取ってやったこともある。
こんな程度ではとても速記とは言えない、もっと効果的な練習法を採り入れなければ。嫁いでいた姉に資金カンパを頼み、高価なテープレコーダーを買った。文章をゆっくり読み込み、再生して速記する、それが完全に書き取れるようになったら、速度を少し上げて練習する。この段階的に上げていく方法の効果は大きく、目に見えて腕が上がってきた。しかし、それでもなおラジオの声にはなかなか追いつけない。
当時、速記技能検定は、十分間にA級三二〇〇字、B級二八〇〇字、C級二四〇〇字相当の朗読を書き取り、国字に反訳するものだった。アナウンサーが読みあげるニュースがA級レベル。人の話す言葉を書き取るにはC級でもB級でもだめ、A級に達しなければ速記とは言えないと思った。
伸び悩みを嘆く日々に、こんなことがあった。国語の教師がテストにまだ習っていない範囲まで出題したらしい。答案を返すとき、教科書と見比べたクラスメートが抗議した。教師は自分の勘違いを認めようとせず「そんなことはない、現に一〇〇点の者もいるのだ」と一蹴した。私は答案をクラスメートに見せられなかった、なんだか裏切り者になったような気がして。速記の練習に、国語の教科書も読み・書き・反訳を繰り返していたから、テストの出題範囲もこれから習う個所も私にはすでに学習済みだったのだ。
テープレコーダーを活用しても、私の速記力は二二〇〇〜二三〇〇字程度のところで低迷していた。二四〇〇字をこなせたらC級検定を受けてみたいと考えていたが、手が届きそうで届かない。A級以下は速記でないと断じる気持ちと裏腹に、目前の壁を破れない自分がもどかしかった。
耳に入る最初の文節は何とか聴き逃さないにしても、書き終えないうちに次の文節が始まって、書きもらしが出るともういけない、焦りが焦りを呼び片っ端から抜け落ち、文脈が崩れてしまう。言葉の残像が長くあれば、少し遅れても話し手が一息ついたりする間に追いつくことができるかもしれないが、頭に溜め置くことができない。私の聴覚、記憶脳は速記に向いていないのではないか、と疑ったりした。
ある日、映画館でニュース映画を見たとき、国会のシーンが出て、演壇のすぐ下で記録をとる二名の速記者が映った。あっと思って、わけもなく心臓がどきどきした。国会には専門の速記者がいることは知っていた。そのため衆議院も参議院も独自の速記法の養成所があり、彼らはA級以上、十分間三五〇〇字の能力を持つと聞いていた。とても足元にも及ばない特別な人たちなのだ。自分が無能な田舎の高校生に過ぎない現実を思い知らされたシーンだった。
そんなとき、自分の実力を試される機会が訪れた。高校新聞部の企画で座談会をやることになり、その記録を依頼されたのだ。授業中に速記符号をまじえてノートをとっていることが新聞部の者に知れたらしい。全言を書き取れる力はない、と断ろうとしたが、追いつかないときは聞き直せばいい、とのことで引き受けた。テーマはいま記憶に定かでないが、私たちは夜間定時制の生徒だったので学業と仕事の両立とか就職の問題とかいうような切実な内容だったと思う。
初めての本番に緊張したが、その日、私の耳は意外にも会話を聴きもらさず、手はスムーズに走り、発言者に問い直すことはなかった。国字への反訳も身近な話題のせいか、難なくまとめあげた。新聞が刷り上がって配られたとき、司会者と並んで私の名前が不相応に大きな活字で載っていた。速記者は黒子に徹すべきで、文末に小さく記載される程度のものと思っていたが、新聞部はわれわれ勤労学徒のナマの声を発表できたと喜び、過剰な扱いをしたものと知れた。みんなの褒め言葉に、面はゆいながらも快い達成感があった。
自信を得た私は、なんとか速記で身を立てることはできないものかと、思い切って市議会事務局を尋ねてみた。年輩の事務局長と若い担当職員が応接してくれたが、議事録の作成に専門の速記者は採用していないと言われた。記録は職員が録音テープを再生と停止を繰り返しながら文章化しているとのことだった。速記を見せてくれと言われ、テープを流した。必死に追いかけ書き取れた部分を読み返してみせると、日本語とは見えない符号に驚いたようで、二人とも速記を見るのは初めてらしかった。帰りぎわに若い職員は、ぜひ市役所職員の試験を受けて自分と替わってほしいと言った。長いテープ起こしの業務にうんざりしている口振りだった。
高卒後、ひょんなツテから『北海道新聞』の支局通信員になった。この仕事に速記は不要だった。取材はしっかり漢字仮名まじりでメモしておかないと誤りは許されないし、インタビューは聞き直すこともできた。どんな偉い人にも名刺一枚で会うことができ、毎日が活気に満ちて面白かった。だが、高卒では記者になれないことを知り、翌年、採用試験を受けて市役所職員になった。市議会事務局に配属されることはなく、新聞の経験を買われてか総務課広報係勤務だった。広報紙の編集が主な仕事で、市長の市政方針演説は原稿が渡されるし、町づくりのシンポジウムや農業振興の座談会のテープ起こしに応用することもあったが、いずれも要約の掲載で全言を速記する機会はなく、いつか検定試験に挑む意欲も消え失せていった。
後年、私は読書が嵩じて自ら小説やエッセイを発表するようになった。他人の話を書き取るより、自分の思いの丈を書き記すほうが面白いことに気づいたのでもあった。速記術はモノにならなかったが、あの頃の練習がリテラシーの基になったと思っている。
八○代に入った私は、年金生活者の日常生活にスマホは必要ないとして、持たないことにしていた。しかし、身に病が生じて入院することになったとき、妻にむりやり持たされてしまった。PCのキーボードはタッチタイピングに慣れているが、スマホは便利だけれど文字入力が面倒でかなわない。病状報告が遅れる言い訳をしていたら、音声入力すればと言われ、やってみて愕然とした。声がそのまま文字に変換される! 想像もしなかったことが目の前に起きていた。スマホでこの程度なら、ITとAIを駆使して特化すれば、もはや速記は……? 時代は大きく変わっていた。私はまるで玉手箱を開けてしまった浦島太郎のような心境だった。
今でも私に奇妙な癖があるのに気づくことがある。テレビを見たり人の話を聞いたりしているとき、指先が無意識に言葉を速記符号で追いかけているのだ。これは習性というべきか後遺症というべきか。
2024/3/23
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