笑いの文学を読む
──ゴーゴリから奥田英朗まで
佐 野 良 二
テレビにお笑い番組がけっこうあるが、最近、どうも笑えない。笑えないのは私が年をとって、社会の情報に疎くなったせいか、あるいは感覚が鈍ってきたせいか。いや、そればかりではなく、笑いの質が変ってしまったように思われる。間抜けな行為や年寄りを笑うのはいい、そこに共感できるものがあるなら……。ところが、強者が弱者を蔑み笑う類の何と多いことだろう。これが世相か。もっとも笑いは、他人の失敗や劣等に対して優越を感じるときに生じるものもあることは確か。しかし、少なくとも芸の道なら、そこに何か人間的親しみを感じたい気がする。
純文学≠ニいう言い方はもはや死語なのだそうだが、私も青年の頃はこの純文学を目指していた。人生とはなんぞや、人間いかに生きるべきか、と真面目に考えた。真摯に生きる人間の姿を描きたいから、そういう小説に出会う努力をしてきた。それがいつの頃からだろう──待てよ、世の中ってそう真っ直ぐじゃないぞ、と気づいた。裏道もあるし、狡い奴もいるし、顔を出さずに影で糸を引く奴も相当いるようだ。それに、少し高いところに視点を据えてみると、どうも己自身もけっこう狡くて、欲得の塊、自分本位に生きたがっているではないか。真善美を追っているだけでは世界は見えてこないのでは、と。
そのきっかけになったのはゴーゴリだった。ゴーゴリの作品を読んで、なんでも笑いに転換してしまう不思議な感覚に驚いた。近代文学の濫觴のようにいわれる「外套」「鼻」はもちろん傑作だが、私の極めつけは「イワン・イワーノヴィチとイワン・ニキフォロヴィチが喧嘩をした話」。ここには人間のいやらしさ、おぞましさの毒がたっぷり盛られていて、しかもまるで現代のように騒がしい。戯曲「検察官」に至っては、さながら政治腐敗の根源を突く諷刺の殺人剣である。クスクスあるいはアハハハと笑わせられた後に、なんだかヒトが嫌になってしまう。そういうアホな人類を愛しく思う気にはなれず、人間なんてどうとでもなりやがれ、と毒づきたくなってしまう。
梅崎春生の「桜島」を読んだとき、これは正統派の文学だと思った。ところが市井の人物を登場させた作品「ボロ家の春秋」「Sの背中」「山名の場合」等には、人間と人間を結び合うものは愛なんかではなく、お節介や出しゃばりの精神だと観る、奇妙なおかしさがあり、ゴーゴリと一脈通じるニヒリズムの危なさに惹かれ、むさぼり読んだ。
いつか私の読書は、メインストリームのほかに、笑いの文学も加わって二本立てになっていた。自分で書く作品も正統(のつもり)のものを書いて気持ちが辛くなってくると、ときおりユーモア小説を書いて、精神のバランスを保つようになっていた。
笑いの文学といっても、研究者ではないから、ただひたすら私の感覚に合う笑いを求める。傑作と評されていても、一読して感じないものは捨てるだけのこと。気に入ればこれを繰り返し熟読玩味し、その感覚に浸り、刺激を受け、触発される。笑っていて勉強になるのだから愉快だし、これはなかなか健康にもいい。
外国文学の笑いは体質的に合わないところもあって、ゴーゴリ以外ではモーパッサン「トワーヌ」、ヘミングウェイ「三日間の嵐」、シリトー「長距離走者の孤独」くらいしか見つけられなかったが、日本文学はやはり気質が合うようで笑える。森鴎外「寒山拾得」、夏目漱石「坊っちゃん」、横光利一「機械」、井伏鱒二「集金旅行」、尾崎一雄「虫のいろいろ」、木山捷平「尋三の春」、小島信夫「吃音学院」、小沼丹「汽船」、庄野潤三「蟹」、丸谷才一「たった一人の反乱」、開高健「日本三文オペラ」、宮原昭夫「男の日ごよみ」、井上ひさし「手鎖心中」、長部日出雄「津軽じょんから節」、清水義範「永遠のジャック&ベティ」、佐藤洋二郎「龍宮城」等、多様な笑いの形態や物語を楽しんだ。 北海道ゆかりの作家には、笑いの文学は少ない気がする。厳しい風土のせいで笑っている暇がなかったのだろうか。それでも、久生十蘭「犂氏の友情」、中沢茂「助命嘆願」、船山馨「居酒屋銅像譚」、八重樫実「ふいるむ先生」、橋崎政「伝記製造業」、高橋揆一郎「日蔭の椅子」、川辺為三「白釉無文」、佐藤正午「永遠の1|2」、長嶋有「サイドカーに犬」等に出会った。
その後、どうも笑える小説に出会わなくなった。弱肉強食の風潮に質が低下したかと思っていたら、いやいや見つけた、奥田英朗の「空中ブランコ」。伊良部という精神科医が登場するシリーズで、鬱屈して受診する患者にビタミン注射を打つだけの藪医者、医師自身が病んでいると思わせるほど稚気めいた行動をとり、そこで患者とともに症候を治していく。現代人の病を素材に、笑えてしかも癒しをもたらすところが味わい。文体はまるで軽い。エンターテインメントも悪くない、とその軽みに感心させられた。
集めた笑いの文学コレクションを独り占めしておくのはもったいない、世知辛い世に生きる者にとって精神安定剤になるから、多くの人に分かちたい気持ちも起きてきた。この私的リストを元に、笑いの文学を読む講座をやってみようか、と北海道文学館の担当者に話したら、ぜひやってくださいといわれた。しかし、考えてみると、笑えるのは小説作品そのものであって、笑い終わってからなぜおかしいか解説したところで、それは刺身のツマのようなもの、私の話で笑ってもらえることにはならないわけだ。そんなことで、どうも腰をあげる気にならないでいる。
『北海道文学館報』第64号 2006.1.25
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