俗に通ずる
─インターネットによる作品公開の試み
佐 野 良 二
三年前、ホームページで小説を公開し始めたとき、インターネットで読書をする人がいるかどうか、半信半疑だった。ただのお遊びのつもりだった。案に違わず反響はさっぱり。いくらお遊びにしろ反響がないと面白くない。無名の私が作ったホームページなんぞ、星の数ほどもあるサイト情報のなかで、誰に顧みられなくて当然かもしれなかったが。
そんなとき、インターネット図書館「青空文庫」の存在を知った。ここは著作権の切れた(つまり作者の死後五十年経った)作品をデジタル本にして、読書人に無料で公開しているサイトである。文字データの入力は全国の工作員がボランティアでやっている。また著作権の切れた作品のほかに、著作権者が公開を了解した作品も置いていた。私が目を止めたのはこっちのほうだった。
私には二冊の著書があるが、うち一冊はすでに絶版、もう一冊は版元には在庫しているのに、もはや書店で見かけることはない。大げさな言い方を許してもらえれば、作品は作者の魂のメツセージである。本は多くの人との出会いを得たい。それがこの頃は書店の流通が早くて、あっという間に店舗から消え、誰の目にも触れなくなってしまう。もし「青空文庫」に置いてもらえたら、絶版になろうが、店頭から消えようが、本好きの人ならきっとアクセスするに違いない。これだ、と思ってメールした……。
かくて私のデジタル本は「青空文庫」の蔵書になった。ここに登録したら急にアクセスカウンタが回り始め、ときおり読者から感想メールが舞い込むようになった。そのうち作品が書評サイトに取り上げられたり、ホームページで紹介してくれたりする人も現れた。本州の文学学校メーリングリストから読書会の課題作品に選んだので、作者も討論の中に入ってほしいとの誘いまできた。
また私は、広く読んでもらうために、純文学一辺倒でなく、俗に通ずるということも必要と考え、唯一の通俗なる春本コレクター小説も公開していたのだが、反響はどうも本命の作品よりこっちのほうの人気が先行しているようだった。人は低きに流れたがるものらしい。
正直言って私は、急激な技術革新に目が回りそうだ。ハードは次々に新製品が現れて使い捨て、ソフトは次々に新バージョンに上書きを余儀なくされ、かつて愛用したものが跡形もなく消えていく。しかし、そのことに抗ってみても如何ともしがたく、自分もまたその流れに身をゆだねるしかない社会構造ないしは因果関係。
私は古い人間だから、まだ紙の本に愛着がある。ちょうど手にぴったりくる感触、重さ、表紙、見返し、扉を経てページをめくる楽しみ、眠くなったら数冊重ねて枕にすることもできるし、腹が立ったら床に叩きつけることもできる。紙の本は自分の生活に密着していた。その点、デジタル本は実体がない。それはパソコンを通し初めてディスプレイ上で本になる。
本の検索ならともかく、ディスプレイで読書をする人なんているわけないと当初思っていたが、私のもとに寄せられる若者たちのメールから大きな変革期を迎えていることを知った。本のスタイルを自在に造るソフトが現れ、縦書きツールが普及し、若者はノートパソコンやパームで何の違和感もなく読んでいる。世の中の習慣は絶えず変化する。メディアが習慣を変えるのだ。いかにIT革命が進んでも、文字文化は生き残る、これだけは信じていいようだ。
ある日、「素晴らしいHPですね、ぜひ私とリンクしてください」とのメールが届いた。差出人は女性名である。名前に惹かれて相手のURLにアクセスしてみたら、なんと大量のお尻の写真が並んでいる、お尻フェチのサイトだった。ヒトの臀部にもいろいろな形ならびに表情があるものだ、と感心しつつも、しかし、なんで小説を公開している私が、こんなサイトとリンクしなければならないのか、毅然として無視することにした。すると数日後、またもや「素晴らしいHPですね、ぜひ私の……」とのメール。もしかしたら春本コレクター小説の公開が、つまり類は友を呼ぶってやつか、と気づいた。俗に通ずる、というのもゆるくない。
北海道新聞(夕刊)2001/5/16
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