青 い 夏
佐 野 良 二
スタートラインからいくらも走らないうちに、正夫は苦痛に顔を歪め、下腹部を押さえてうずくまった。耐えられない痛みだった。「何か、いかんものでも食ったんか」
駆け寄った体育の教師が聞いた。正夫は声が出ず、ただ顔を左右に振るだけだ。
食べ合わせが悪かったとか、体調をくずして消化不良を起こしたとかいうのと違う。それなら、母親のくれた胃腸薬を飲んだのだから、もう治ってもいいはずだった。歩くのは何とか我慢できるのに、走ると振動で右の脇腹に苦しいほどの鈍痛が響く。こんな妙な腹痛は初めてだった。折りしも運動会の練習が始まっていた。運動会というものは、ほとんど走ることばかりだった。
「しゃあない、休んどれ」
教師はそう言って、次にスタートする者たちのほうへ行った。
中学生になって初めての運動会だから、みんな張りきっていた。正夫は自分だけ落伍するのが情けなかった。グラウンドの草の生えた辺りに坐って、ぼんやり級友たちの練習を見ていると嫌な予感がした。
そのうち下腹部に異常が発生した。鈍痛がとてつもない激痛に変わった。正夫は唸り声をあげて、その辺の草をかきむしった。腹の奥で何かが爆発した。遠くで何やらどっと歓声が上がるのを聞きながら、彼は死ぬことを意識した。
フィールドを走っていた級友の一人が正夫の異常に気づき、教師に伝えた。彼はすぐさま学校の隣の雑貨屋のトラックで、八キロ離れた町立病院へ運ばれた。
「盲腸が破裂している。すぐ手術しなくちゃいかん」
医者が教師に話すのを、診療台にあお向けに寝かされた正夫は他人事のように聞いた。
「それにしても、よくこんなになるまで放っておいたもんだ。我慢するにもほどがある」
医者は真顔で言った。
正夫の家は、丘陵地帯にへばりついて暮らしている畑作農家だ。痩せた粘土質の耕地にもってきて斜面は日照時間が少なく、例年ろくな収穫を上げることができない。両親や姉たちの苦労を知っているから、どんなことでも
病院には正夫の前に、やはり盲腸炎で手術する患者がいたが、正夫が手遅れ状態で緊急を要するため先に行なうことになった。
手術は一時間以上もかかった。盲腸が破れ、腹膜炎を併発していたのだ。右脇腹が切開され、虫垂突起が切除された。ついで腹膜の上に及んだ汚物の除去と洗浄が行なわれ、縫合ののち、やっと病室のベッドに移された。
入院の付き添いには姉の美津枝が当たることになった。父親も母親も
「いいか、お医者がええと言うまで絶対水を飲ますなよ」
母方の親戚に盲腸炎手術の直後、水を飲んで命をおとした者がいたことを思い出し、くどく美津枝に念を押した。
「大丈夫。私がついてるから、跡取り息子を死なせはしないよ」と美津枝は言った。
「死ぬなんて、おまえ、縁起でもない」母親は姉を叱った。
手術の翌日は喉が乾いてならなかった。しかし、美津枝は母親の言葉もあるので絶対に水を飲ませてくれない。三日後、医者はおかしなことに正夫にオナラが出たかどうか尋ねた。恥ずかしいことを聞くと思いながらうなずくと、オナラが出るのは腸の働きが回復した証拠だということだった。それでやっと番茶を少量飲ましてくれた。一週間たつと抜糸され、お
病室にはベッドが三床あった。正夫は入口の近くに寝かせられ、壁ぎわは痩せた老人が占めていた。もう一つの窓ぎわのベッドは空いていた。
老人は、一日中何もしゃべらず、天井ばかり眺めて暮らしていた。いや、天井板を通り越してもっと奥の、遠くのほうを見つめている感じだった。ときどき正夫は老人が死んでいるのではないかと疑うことがあったが、お腹の辺りがかすかに上下していて安心するのだった。付き添いの人もおらず、一日に何回か白い割烹衣を着たおばさんが顔を出すだけだった。そのおばさんは身寄りのない患者を掛け持ちで世話しているらしかった。
老人の病名は本人がまったく話をしないのでよくわからない。おばさんに聞いたところでは、何でも二年前に胃の手術をして、またこの四カ月ほど前に再手術をしたとのことだった。用便にはよろよろしながらも自分で行くことができたし、たまには売店へ自分の好きな物を買いに行ったりもする。しかし、ふらふらと夢遊病者のように歩いて行く老人を見ると、正夫は胸が締めつけられるような哀しい思いにとらわれた。
病院の生活は退屈だった。正夫もまた老人のように天井を見つめるだけの日々だった。
ある日、窓側の空いているベッドに正夫より年下の少年が入院した。眼のぎょろりとした父親らしい男が、その少年を横抱きにして入って来た。母親らしい女がシーツを直す間、父親がそのまま抱いていたら、少年は曲げていた膝をいきなり伸ばし、激しく壁を蹴った。父親は「うわっ!」と叫んで、少年を抱えたまま二メートルほど走り、よろめいた。正夫は噴き出しそうになり、腹が痛くなるほど堪えて笑いたいのを我慢した。
その夜、少年はうわごとを言いつづけ、夜半からは引きつけを起こした。舌を噛み切ってしまう恐れがあるといって、医者が金具のようなものを口に取り付けた。病室は一晩中落ち着かず、正夫は一睡もできなかった。朝方、少年は別室へ移された。何日かたって、美津枝が小耳に挟んだ話によると、少年は間もなく息を引きとったという。化膿した傷がこじれて敗血症を
それからしばらくして、空いているベッドに三十歳くらいの男が入院して来た。左の大腿部を工事中に鉄パイプで打ったということだった。スポーツマンのように上背のある引き締まった体を、窮屈そうにベッドに横たえた。鋭い眼と高い鼻が一見冷たそうな印象を与えたが、言葉遣いや態度は折り目正しく、また物静かだった。男の名前は鳴海と言った。
美津枝は鳴海と話すとき、明らかに上気していた。田舎の青年にない、どこか
二十日もすると、正夫の下腹部の手術の傷痕はほぼ塞がり、ガーゼは申しわけ程度に当てるだけになった。医者の回診はまず正夫から始まり、次に鳴海、そして老人の順だった。老人はたまに診ないこともあった。
正夫が終わって、医者は鳴海のベッドに向かった。正夫ははだけた病衣を直していた。
「痛みはないです。だから、いいじゃないですか」低い声で鳴海は医者に話している。
「いや、診ておかなくちゃいかん」医者は断固とした声で言った。
鳴海の怪我は太腿の辺りだったが、その日、医者は鳴海の脇腹から背中にかけて診る必要があると言ったのだ。鳴海はそれをを嫌がっているふうだった。やむなく彼は病衣を脱いだ。その瞬間、病室に戦慄が走った。
正夫は初め、鳴海が丸首シャツを着ているのだと思った。それも、いやに青みがかった派手な模様のシャツだ、と。しかし、それはシャツなんかではなく、皮膚に彫りこんだ絵だった。鳴海の背中には、剣を抜き小鬼をつかんだ
医者は落ち着いて、脇腹と背中を押したりさすったりした。鳴海は黙ってうつむいていた。看護婦は眼をそらした。
ドアが開いて、美津枝が入って来た。鳴海は病衣を着るところだったから、一瞬、美津枝は彼の背中を見たのだろう。正夫と視線を合わせ、眉をひそめて
それから数日して、鳴海の噂が立った。この病室の刺青を見た者でそんなことを言い触らす者はないと思われるのに、鳴海がいないと隣の病室の者が来て、怪我は工事中の事故ではなく、喧嘩で負ったものに違いないと言ったりした。怖いもの見たさか、別の病棟から何気なく通りかかったようにして覗きに来る者さえあった。
鳴海は相変わらず物静かで、口数が少なかった。彼は体がいくらか回復すると、夜、外へ出て行くようになった。出て行くときは玄関から行ったが、門限があるので、帰りが遅くなって一度外から病室の窓を叩き、美津枝に開けてもらって入って来たことがある。日ごろ、無口な鳴海にしてはいささか滑稽な行為だったが、それ以来、ときどき出て行っては病室の窓から帰るようになった。そんなとき、正夫や美津枝に鮨や菓子を提げて来たりした。
たまには酔って帰ることもあった。「怪我に
正夫が、いつものようにベッドに横になって、ぼんやり窓外の道路を眺めていると、ドアをノックする音がした。美津枝が応じ、聞き慣れた声がした。級友で一番仲のいい新太、順平、常一の三人が見舞いに来たのだった。
「おお、来てくれたんか」半身を起こして正夫が言った。
「おお、どしてるかと思ってよ」新太が笑って白い歯を見せた。
「毎日天井見て暮らしとる。もう
「いいさおまえ、寝てばっかしで。おれたちはグラウンドを走らされたり、草削りさせられたりでかなわんぞ」
「でも、寝てばっかしというのも、楽でないぞ」
順平が「これ食えや」と、紙の包みを差し出した。何かの缶詰らしかった。
「みんな、どうもありがとう。いいお友だちを持って正夫は幸せよ」美津枝が大げさな言い方をしたので、級友たちは黙ってしまった。それで美津枝は病室を出て行った。
鳴海はその日、昼間から外へ出ていた。級友たちは銘々が空いたベッドの端や椅子に坐った。老人は耳が遠いから気にしなくていいと正夫が教えたので、みんな普通の声で話した。まず新太が言った。
「おまえ……毛を剃られたべ」
「え、何のことだ」
「盲腸したら、あそこの毛を剃られるって兄ちゃんが言っとったぞ」新太がもっともらしい顔つきで話した。
「ああ、……剃られたよ」
「やっぱりな」級友たちは顔を見合わせてうなずいた。
「やだな、おれはまだ生えとらんぞ」正夫は言った。
「生えとらんのに、剃るんか」
「おお、生えとらんのに剃られたわ」
「なしてよ」
「なしてか知らん。うぶ毛でも傷に障るからでないか」
「常一だったら剃るのも大変だったべな」順平が言った。
「うん、おれならな」常一が自分で言ったので、みんな笑った。彼はクラスで一番体格がよくて、声変わりも一番早かった。ときどき級友たちに、自分の足の
話はたわいもなくなり、正夫はみんなを脅かしてやろうとした。
「おまえら、そのベッドに入院している人は、体中に凄い刺青入れてるんだぞ」
「何、ヤクザか」
「いや、それはどうかわからん」
「ヤクザはこんなとこに来ないべ」順平が言った。
「来るさ、ヤクザだもの怪我はするぞ。病気もするべや」新太が訳知り顔で言った。
「したら……ほんとか」
「今日はおらんのか」
「ときどきいなくなるんだ。病人なのに、医者の言うこときかんのだ」正夫は答えた。
「そうか、命知らずって言うからなあ」常一がさもありなんという顔をした。
「見たいな、どんな奴だ」
「普通の人だよ、背が高くて恰好いいさ」
「見てえな」
「見てから帰るべ」
級友たちは腰を落ち着けた。しかしその日、鳴海はなかなか帰って来なかった。運動会の話などをして、窓外が薄暗くなるまで待っていたが、現われず、けっきょく、みんな残念がって帰って行った。
別の日、正夫はうとうと寝ていて、美津枝の声で眼が覚めた。開いたドアの向こうに、何と由紀子の顔が見えた。正夫は一気に体中の血液が音を立てて巡り出すのを感じた。予期しない出来事だった。由紀子はクラスで一番勉強ができた。校長の娘で、転校して来て以来、器量のよさはもとより、純真で素直な性格は田舎のニキビ面たちにとって心ときめく存在だった。
「よく来てくれたわね。どうぞ入ってちょうだい」
美津枝がはしゃぐような声を出した。鳴海はベッドに横になって、振り向きもしなかった。由紀子の後ろから彼女と仲のいい女生徒二人がついて来ていた。正夫はすっかり困惑した。ベッドに寝ている姿なんぞを女子の眼に
「もうすっかり元気な様子だって、新太君らが言ってたから、来てみたの……」
そう言って由紀子の差し出す花束に、正夫は「あ、ありがとう」と、学芸会の
「わあ、きれいな花。病室が明るくなるわ」美津枝はやたら明るい声をあげ「ちょっと、花瓶見つけてくる」と花束を抱えて出て行った。それは実は気をきかしたつもりだったのだ。
正夫は困ってしまった。由紀子がいろいろ問いかけたり、学校のことを話すのに対して、彼は天井を見つめたきり、ああとか、うんとか、うなずくばかりで、一方的な話になった。隣のベッドの鳴海を意識したこともあって、正夫はまったくとりつくしまのない態度に終始し、ほどなく由紀子たちは帰って行った。
ずいぶん経ってから、美津枝が安っぽい花瓶に花を入れて現われた。
「あら、もう帰っちゃったの。飾るところ見せたかったわね」と言って、花瓶を壁ぎわの小さな戸棚の上に置いた。
「正夫、話をしたかい。またむすっとしてたんでないの。せっかく来てくれたのに」
正夫は黙って天井を見つめていた。
「男同士なら何でもしゃべるのに、女の子相手ならからっきし駄目なんだから」美津枝は花を少し離れて見ながら言った。
正夫は姉の話なんぞ聞いていなかった。鳴海が黙って、自分たちの会話の一部始終を聞いていたのだと思うと、そのことが気になるのだった。
花は殺風景な病室にそぐわない明るさで、鮮やかな色彩をほころばせていた。鳴海が半身を起こして言った。
「ああ、きれいな色だな」溜め息をつくような声だった。
その夜、正夫はいつまでも眠れなかった。由紀子が自分を見舞いに来てくれたことで、まだ胸が高鳴っていた。あとについて来た二人のことは眼中になかった。ただ由紀子の面影だけ、憂いを含んだような瞳や、少しつんと澄ました鼻や、愛らしい唇、かすかにふくらみはじめた胸の形などが、消灯した病室の暗闇に浮かんでは消えた。正夫は、体の奥底で何か得体の知れないものが疼くような気がした。
病室のベッドがまた空いた。今度は壁ぎわの老人が死んだのだ。ある朝、老人は天井を向いたまま冷たくなっていた。鳴海が気づいて老人の名を呼んだが返事はなかった。ついで鳴海は手首を握ったり、口に頬を近づけたりしていたが「成仏されたな」と丁寧な言葉で言った。美津枝は急いで看護婦詰所に走った。正夫は死人を見るのは初めてのことだった。老人は口を開け、干物のように動かなかった。医者が来て老人の
「縁起わるいわ。この部屋」と美津枝が小声で言った。
病院は、昼間いくらでも眠ることができるから、夜、とんでもない時間に眼が覚めてしまったりする。このごろ手術後の傷もふさがり、初め何本も打たれていた注射も減った。正夫の気持ちものんびりしてきた。のんびりというより、だらけてしまったようなのだ。ただ寝てばかりいる、怠惰な毎日を過ごすことに安息に似たものを感じていた。「暇があるんだから教科書でも開いたら」と美津枝は言うが、そんな気になれない。
正夫は一人でいることに何の苦痛も感じない。ぼんやり往来を行き来する人や犬、自動車や馬車を眺めて、なぜみんなああやって急いでいるのだろうと思ったりする。そのうちいつか眠ってしまうのだった。
その夜、夢うつつの意識のなかに男の声が侵入してきた。言葉としては意味をなさない、かすかな男の声。それは病室内のようでもあり、どこか遠くから風に乗って聞こえてくるようでもあった。しばらくまったくの沈黙。……そしてまた意味の聞きとれない男の声。ふいに女の声がした。
「弟が起きるわ……」
ささやくような小声だったが、それは正夫の耳に馴染んだ
一カ月を経過すると、医者はもう立って歩いていいと言った。もうじき退院だと言う。すっかり怠惰な入院生活に慣れきった正夫には、自分を待っている学校生活がいささか大儀な気もしたが、同時に懐かしさも湧いてくるのだった。
彼は手術後初めて廊下に立った。脚が自分のものでないようだった。足の裏にバランスを狂わす一本歯の下駄でも履いている感じなのだ。なんとも平衡感覚が
鳴海の経過も順調のようだった。そして、これまでまったく人の訪問がなかった彼に、ずんぐりした体格で眼つきの悪い男が訪ねて来るようになった。正夫はこの男にひそかに〈クマンバチ〉と渾名をつけた。クマンバチはやって来ても滅多に病室へは入って来ない。ドアをノックし、少し開けて隙間から頭を下げる。すると鳴海が鷹揚に廊下へ出て行く。クマンバチは礼儀正しく鳴海を迎え、どこかへいなくなってしまう。いつもそんなだった。
正夫が歩行練習で、病院の長い廊下を外来の病棟まで行ったときのことだ。公衆電話が並んでいるところで、鳴海とクマンバチが電話をかけているのを見つけた。周囲には彼らのほかに誰もいなかった。クマンバチは受話器を耳に当てて何やら怒鳴った。きんきんした貫祿のない声だ。ついで鳴海が受話器をひったくった。じっと動かないで耳を当てている。
「いい度胸してるじゃねえか。どうなってもいいってんだな」
確かにそう言った。鳴海が言ったのだ。低い静かな声だったが、それは有無を言わさぬ力があった。売店の陰で正夫は動けなくなった。
「うるせえ、つべこべ言うな。すぐカタァつけてやろうじゃねえか!」
鳴海は、叩きつけるように受話器を置いた。いままで見たことのない別人の鳴海だった。正夫は激しい恐怖を覚えながら、同時に陶酔に似たものを感じた。話の内容はちっともわからなかったが、震えるような興奮を覚えた。――正しくなくたっていいんだな、力さえあれば。強い者が勝つんだ……。正夫は、売店の横の狭い廊下に立ち尽くし、全身が痺れるような爽快さに浸っていた。
四十数日を経過して、やっと正夫は退院することになった。
「元気でな」と鳴海はベッドに横になったまま、顔をねじって言った。
「はい、鳴海さんも」と正夫は言った。
別れの会話はそれだけだった。鳴海の表情は、窓に背を向けていたので逆光で見えなかった。美津枝は泣いたあとのように眼を赤くしていた。
父親の迎えに来た馬車にゆられて、正夫はわが家へ帰った。久しぶりの茶の間で大の字になっていると、母親が畑から上がって来た。そして「顔が白くなった」とか、「痩せたんでないか」とか心配し、頬に手を当てたり手首を握ってみたりした。「ゆっくり寝て、かえって元気になったって」と美津枝は言った。それでも母親は、どうでもいいことをこまごまと尋ねた。
煩わしくなって正夫は庭に出た。放し飼いの鶏がコココッと鳴いて逃げ出した。道路に沿って植わっている白樺の葉群れが、風にゆれて夏の光を反射した。丘陵の緑を増した畝々の向こうに、遠い山脈が寝ている牛のように青く横たわっていた。正夫は一わたり視界を巡らすと、自分の家を眺めた。柾屋根、板壁の、貧相な母家と納屋が並んでいる。病院の西洋風のしゃれた建物とは大違いな見すぼらしい佇まいだったが、やっぱり自分の家が一番いいと思った。そして、さあ勉強でも何でも挽回するぞと心に誓った。
夕食の
「正夫のガールフレンドが見舞いに来たのよ」
「ほお、正夫がもてるってか」と母親は興味を示した。
「くだらんこと言うな。男だって来たべや」正夫は怒った声を出した。
「……だけど、正夫ったら、花束もらったのに何もしゃべらんと、天井ばかり見てるんだわ」
美津枝はおかしそうに笑った。
「何も言うことないもしょうないべや。見舞いに来てくれたって迷惑なくらいだ」正夫は口をついて出る言葉とは裏腹に、由紀子の愛らしい顔を思い浮かべた。
「何言ってんだ、この罰当たりめ。人の好意はちゃんと受けるもんだ。その子らにきちんとお返ししなきゃいかんぞ」と父親が言った。
美津枝の案で、見舞いに来た級友にノートのセットを持って返礼することにした。正夫が「女子は姉ちゃんが回ってくれや」と言うのに、美津枝は「自分のことは自分でしなさい」と取り合わなかった。
学校へ行く前日、正夫は級友の各戸を回った。由紀子の家を訪ねたとき、彼女は不在だった。正夫はほっとしたような、反面がっかりしたような気もした。由紀子によく似た母親が出て来て「あら、あなたが正夫君。退院できて、よかったわねえ」と若やいだ声で言った。鼻をくすぐるいい匂いを漂わせているその人を、自分の母親と比べてみて、大違いだと思った。
入浴のとき、正夫は風呂場の鏡で自分の体を見た。羽毛をむしられた鶏のように貧弱だった。腕を曲げて力瘤を出してみようとしたが、筋肉らしいものは浮かんでこなかった。何よりもショックを受けたのは、下腹部の右側に焼き
姉の美津枝がいなくなった。農作業が一段落した翌日、街へ友人と遊びに行くと言って出たまま帰って来ない。父親と母親は何が起こったかわけがわからなかった。親戚中に連絡をとり、遠くの知人にも当たってみたが、
正夫は直感のように鳴海のことを思った。いつかの夜の男の声と美津枝の声が聞こえる。自分勝手で薄汚い奴らめ……。しかし、正夫はそのことを両親に話さなかった。こんな面白くもない田舎なんか捨てて行くのが当然だ、おれもいつかは捨てて行く、と思った。すると、ふいに由紀子のキラキラした眼が自分を見つめているように感じられた。――そうだ、由紀子といっしょに脱出しよう。どこへ脱出するか。海のある街がいい。漠然と正夫は考えた。由紀子と手をつないで、海の見える街へ出て行こう! 正夫の体の底でまた重たいものがうごめいた。
登校した正夫に、校内で噂が立っていた。由紀子たちが正夫を見舞いに行ったことで、二人ができているというたわいのないものだった。田舎の学校の通弊で、大した話題もない子供たちにとって卑猥なひやかしを言うのに恰好の素材だったのだ。なかには病院の一室で正夫と由紀子が抱き合ったと言い出す者までいて、彼は激怒した。
正夫は、自分が一番大事にしているものを、そんな薄汚い嘲笑の的にされることが耐えられなかった。しかしまた、由紀子のことを思うと、自分の体のなかの卑しいものが熱してくることも事実だった。彼は自分がいとわしく、けがらわしかった。鳴海に対する憧憬と嫌悪。その相剋は正夫の内部で、由紀子に対する思いとだぶって、彼は屈折した気持ちに陥った。
学校で正夫はなるべく由紀子に近づかないように、傍らにいても極力無視するように心がけた。ところが、ある休み時間のこと、彼が級友と騒いで廊下を走って行くと、なぜそんなことになったのか、突然、眼の前に由紀子が立った。
彼女はあどけない表情で正夫の眼を覗きこみ「この前、ノートありがとう」と言った。
「……いや、入院中にはどうも」彼は、周囲にいるみんなの視線を気にしながら言った。
由紀子は何のこだわりもなく続けた。
「お母さんが言ってたわ、正夫君て折り目正しい人だねって。大人の眼にはよく見えるらしいわよ」
正夫はふと軽口を叩きたい気分になった。すると意地悪なことに、ふいに鳴海の背中の刺青や、美津枝のささやく声や、自分の醜い手術痕が頭のなかで渦巻いた。彼は何やら猛々しい思いが募ってきて、自分が最も大切にしているものをもぶち壊してしまわなければ収まらない、押さえがたい怒りが沸くのを感じた。
「もう、すっかり元気なの?……」由紀子はなおも微笑みかけた。
正夫は眉間に皺をよせてこわい顔をすると「おれに寄るな」と言った。
由紀子は急変した彼の態度に驚いて「どうしたの……何だか変よ、正夫君」と言って、かえって近づいて来る。
「寄るなったら、慣れなれしいぞ!」
正夫は、苛立ちを爆発させるように眼の前に立ちふさがるものを突き飛ばした。床に倒れこむ由紀子の体から、やはり女の匂いがした。
底本 : 『われらリフター』 近代文藝社 一九九三年三月二〇日初版発行
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