少 年
佐 野 良 二
ど ん
あの不思議な機械ほど、常一の心を高ぶらせたものはない。幌掛けのリヤカーを引いてやって来て、雑貨屋の裏の空地にその機械をしつらえ、辺りかまわず砲声を響かせる、薄汚れたおじいさんを、常一は手品師か魔術師を見る眼で眺めたものだ。――機械は、どの部分も煤けていて、先のほうに肥った人間の頭ほどある球状の釜がついていた。おじいさんは、まず、この釜の中にトウキビ一升とサッカリン少量を入れて密閉した。それから釜を回す。釜に直結するハンドルにはベルトがかかっていて、回すと扇風機が風を起こし、木炭の炎を釜に吹きつける仕掛けだった。
おじいさんは、のんびりと煙草を喫ったりしながら、椅子に腰かけてハンドルを回しつづける。メーターの針が基準の目盛りに達すると、やにわに敏捷な動作になって、受け籠を釜に連結させ、棒で蓋の締め金を引っぱたく。この一瞬ほど恐ろしく、かつ嬉しいときはない。すさまじい音響とともに、トウキビは一気に膨張しながら放出されるのだ。それはまるで熊ん蜂の大群に似ている。頑丈な受け籠の金網が、彼らのいっせい体当たりにブルンと身震いを起こすくらいだ。
湯気が薄らぐと、トウキビの粒の一つ一つがはち切れんばかりに膨れあがっていて、いや、なかにははち切れてすっかり変形した粒もあって、大人一人くらいなら昼寝でもできそうに広い筒形の受け籠は、ぎっしり満員になってしまう。そして、ほのかに漂ってくる香ばしい匂いは、傍らにいる者の鼻の穴をも、ふんわり膨らませてしまうのだった。
土地の者が
だから、常一はふだんからお母さんに頼み、自分も手伝ってトウキビの皮をむき、軒下に並べて干しておいたし、芯からはずした粒をもっと乾燥させるため、
おじいさんは、このどんの機械を持って、あちこちの町や村を訪ね、ドカーンとやっては加工賃を得て暮らしていた。わびしい裏町や寒村の片隅から、あの景気のいい大砲が一発、中空に放たれると、花火の合図でも待っていたかのように、貧しい人々はトウキビや大豆や米を入れた袋をさげて、おじいさんのところへ集まって来た。
常一もう何度も、おじいさんにどんを頼みに行っているが、そのつど、きょうはどんなに増えるか、あるいはさっぱり増えないか、胸がどきどきした。運よく乾燥が適度で、一升が一斗以上にも増えたものなら、家へ帰りつかないうちに、近所の食いしん坊どもが目ざとく見つけ、寄ってたかって分け前にあずかろうとした。
いつも意地悪をする魚屋の長男までが猫なで声になる。一づかみずつ分けてやるくらい、袋の大きさから見れば微々たるもので、味方につく者には気前よく分け与えた。少ししかやらないつもりの奴に、はしこい動作で袋の口に手を突っこまれ強奪されたり、一番たくさんあげたい角の貸本屋の末娘は、掌がちっちゃすぎて十粒ほどしか入らなかったりして、こんなところにも愛憎の葛藤を経験した。
しかし、袋はそんな気持ちを忘れさせるほど揺るぎない大きさで膨らんでいる。食べ物が豊富にあるくらい精神の安寧が保たれることはない。もう一度、よいしょっと担ぎあげ、間もなくどんの余熱がほかほかと背中に伝わってくるのを感じたら、もはや微笑みを隠すことはできない。
逆にトウキビの乾燥が悪いと、
同じ加工賃を払って何とも口惜しく、おじいさんが
おじいさんは耳が遠かった。他人の話を聞くときはいつも耳たぶに掌を当て、それを前へ出すようにするから、顔も視線も斜めになった。話相手は耳元でかなり叫ばなければ意思を伝えられなかった。耳が遠いのは、数十年間、この世に辛抱してきた老衰現象の一つなのかもしれなかったが、常一は、毎日耳元でドカンドカンやっているので鼓膜がへんになったのだろう、と考えていた。
耳が遠いから、おじいさんはあまり他人とは口を利かなかった。話してもとんちんかんになることが多かったし、この商売は複雑な会話を必要としなかった。袋がわからなくならないように、原料を受け取るとき、持ち主の名前を袋の端に書かせる注意さえしていればよかった。そのため耳たぶの上にちびた鉛筆を挟んでいた。
常一は、おじいさんの周囲にはいつも笑いたくなることが漂っていると思った。おじいさんのズボンはバンドではなく、何かの紐で結んであった。おじいさんは頬に煤をつけて気がつかず、日がな一日、平然と仕事をしていることがあった。おじいさんは誰も見ていないと、付近を通る猫に小石をぶっつけた。初めての客がおじいさんの難聴を知らないで話しかけ、知らん顔されてムッときているのを、横から眺めるのもおかしかった。酒屋の掛け取りが路地から空地へ出たとたん、どんの音に驚いて、それまでどうにも止まらなかったしゃっくりを飲みこんでしまったとの話も聞いた。
驚くのは人間ばかりではない。隣の放し飼いの鶏が三、四羽、こぼれたどんを突つきに来ていて、突然の爆発音にびっくり仰天し、空地の横の灌漑溝を一気に飛び越えて行ったときは見ものだった。空を飛ぶ鶏に常一が驚いていると、おじいさんは独り言をつぶやいた。「こんなお土産を置いて行きおった」おじいさんの足下には、鶏たちがどんなに驚いたかを証明する、羽数分の
おじいさんの機械は、穀物のほかに
澱粉のどんは乾燥しすぎると粉状に散ってしまい、湿り気が多いと固まって歯がたたなくなった。この乾湿の微妙な度合いを、おじいさんは粉を握ってみて、形の崩れ具合で判断していたが、この加減だけは彼もついに見破ることができなかった。澱粉は他のどんと違って、破裂させても受け籠へ容易に飛び出さず、釜の入口に未練がましくしがみつく癖があった。
そのむくむく膨れあがった真っ白な塊を千切って噛むと、拍子抜けするほど簡単に溶けて、舌の上にまろやかな甘味が広がった。彼は、自分がとてつもない巨人になって、夏空に沸き上がる入道雲をむしっては食べているのだと連想したりした。
トウキビや大豆のどんを、空中へ放り投げ、落下するのを口で受けて食べる遊びが、子供たちにはやった。失敗して地面に落ちると犬がすかさず拾ったが、犬よりも先に失敬して、土をほろって平気で食べる奴もいた。常一はしょっちゅうそんなことをしていたので、多少風があっても風下へ口をはこんでキャッチしたり、二粒投げ上げて同時にパクリとやったり、瞬時の差をおいてパクパクッと食べたりの芸当をやってのけた。近所の子供たちと興がっていると、いつの間にかおじいさんが見ていて、「おまえにや犬もかなわねべ、ハッハッハッ」と歯のまばらになった口を開けるのだった。
ある日、常一はどんを頼みに雑貨屋の裏の空地へ行った。おじいさんは木材が積んである上に腰かけて弁当を食べながら、同じ年恰好のおばあさんと話していた。おじいさんはいつものように、あまり口を利きたがらないふうだったが、そのおばあさんは、日常の瑣事を根掘り葉掘り聞きたがる性分らしかった。話の様子では、おばあさんもおじいさんと変わらぬほど耳が遠いのに、根気よく話しかけ、しまいには二人とも口喧嘩のような会話になった。離れていて一部始終が聞こえた。おじいさんは自分の息子たちのことについて答えていた。
「一番上の奴は、まだ乳飲み子の頃に死んだ。冬のしばれる日、イズコさ入って眠っとるとこへ猫めが寒いもんだからもぐり込んで、口をふさいでしもた」
「へえ、そらまあ、なんといたわしい」
「二番目の奴は、学校さあがる前の年に、川遊びをしとって深みさはまってなあ。
「いやいや、なんとお」
「三番目の奴は十九まで育てたが、戦争でなあ……」
「え、戦死なさったかね」
「いや、戦死じゃねえ、わやな話よ。……鉄砲撃つのを嫌って、自分さ向けてなあ」
おばあさんは、耳に手を当てたまま顔をしかめ「そうかえ、そうかえ」と何度も嘆息を込めてうなずいた。おじいさんの哀れな思い出が
それから、ゆっくりと立ち上がると「さてさて」などと呟きながら、再び仕事に取りかかった。体を少しねじり気味にして、黙然と釜のハンドルを回している姿は、いつものおかしなおじいさんだった。
時間がきて、おじいさんの細い腕が
空気銃
兄が父親と喧嘩をして家をとび出してしまったとき、新太の頭をよぎったのは、あの空気銃が自分のものになる、というわくわくする思いだった。口径五・五ミリの中折れ式で、長さは彼が両手を広げたくらいもあった。ときたま兄は、それで雀を撃ちに出かけたものだったが、新太は一度だって撃たせてもらったことがない。兄にしてからが所持許可も狩猟免許も持たないモグリだったから、幼い弟が過ちでもしでかしたら
その頃の新太は、多くの少年たちがそうだったように、パチンコやナイフ、ヤスなど殺傷に使う道具に、尋常ならぬ関心を持っていた。それが空気銃とくれば、もう本物の武器である。上級生たちが、二叉の枝にいかに強靱なゴム紐を縛りつけて威力を誇ったとて、そんなオモチャは
さっそく、新太は無人の兄の部屋へ忍びこみ、押し入れからそいつを引っ張り出した。そのずっしりした重量感に手がしびれた。その恰好よさに溜め息を洩らした。ただひたすら真っすぐな銃身、しなやかにくびれた銃把、しだいに幅広くどっしりと力を貯える床尾――狙撃に必要なこと以外の装飾はいっさい省かれ、それでいてピーンと張りつめた美しさに満ちている。彼は、にわかに殺し屋にでもなった気分だった。
銃身を折り曲げてシリンダー内の空気を圧縮させ、何か狙うものはないかと窓の外を見ると、物置小屋の板壁に節穴があったので、とりあえずそれに狙いをつけた。しかし、まだ
兄の部屋に、いつか新太が居坐ることになった。お蔭で両親に内緒で空気銃を取り出し、飽かず眺めることができた。金属部分と木被の境にこびりついた、どんな小さな垢もほじくり出したり、油をしみこませた布で丹念に磨いたりした。だが、銃は眺めるものでも撫ぜるものでもない。当然の段階として彼は、
やがて、銃の所持を独りの秘密にしておくことができなくなった。ついに彼は親友の同級生に打ち明け、学校の帰りに自分の部屋へ請じ入れ、空気銃を見せた。父親は街のベニア工場に勤め、母親は近郊の農家に手伝いに行っていて留守だったので、誰に気兼ねもいらなかった。親友は両手で銃を持つと「すげえ、すげえや!」と感嘆し、あちこちを狙って
即刻、大通りの金物屋から空気銃の弾丸を買った。店員は一片の疑いも抱かず、文鎮のように重いその小箱をとってよこした。中には、まるで
家にとって返し、庭に銃を持ち出した。まず花畑と通路を仕切っている杭に空き缶を乗せ、これを標的とした。交互に何発も撃った。立って撃つと銃が重くて狙いが定まらず、なかなか当たらなかった。立て膝の上に肘を乗せて銃を支えると、安定して割によく当たることがわかった。空気銃の発射音は小さいが、空き缶に当たるといい音を立てて吹っ飛ぶ。缶の表面は弾痕でデコボコに変形し、その威力を二人は堪能した。けれども、この遊びはすぐ飽きた。
隣家の屋根の向こうに火の見
もっと面白いものはないか、家の周囲をめぐっていると、裏の家の庭に放し飼いの鶏が数羽、地面を引っ掻いては餌をあさっていた。さっそく新太は、なかでも一きわトサカの大きい
しかし、成し難いことほど人を駆り立てるものはない。「こんど、生き物を撃ちに行くべ」と、二人は森へ行く約束をした。
――そんなある日、突如、兄の訃報がもたらされた。家を出奔して以来、消息不明だった兄は、この街から山一つ越えた都市の建設工事現場に働いていて、頭上から落ちてきた鉄骨材に打たれたというのだった。喧嘩別れが今生の別れになってしまったことから、父親は深い悔恨にとらわれた。母親は背を丸め、さめざめと泣いた。貧しい葬式があっけなく済むと、あの長身の兄が信じられないほど小さな骨壷に収まっていた。そして、空気銃は確実に新太のものになった。……
晴れた日の午後、彼はひそかに空気銃を持ち出して、丘の森へ入って行った。親友との約束を破って、一人で出かけた。森のなかは、ひんやりした冷気が支配していた。樹々の茂みが街の騒音をさえぎり、新太の地面を踏みしだく音が、いやに大きく響く静けさだった。ときおり、梢の葉影のそこかしこから、名も知れぬ鳥たちのさえずりが飛び散った。いかなるピッコロの名人も演奏できそうにない、きらめくような即興の曲を彼らは事もなげにやってのけている。しかし、銃を構えて見渡す新太の眼には、果てしもない緑のさざ波が揺れるばかりで、鳥影はさっぱり見当たらなかった。
散々歩きまわって、やっとエゾ松の枝に止まっているシジュウカラを見つけ、また倒れ朽ちた
森の外はまぶしい太陽が照りつけていた。顔をしかめて日向へ出ようとすると、麦畑に接する農道の端に、黒々と固まる鴉の群れが眼に入った。新太は草むらに身を沈め、這うように近づいて行った。勘のいい奴が早くも気づいて、クワックワッと騒ぎ立てたとき、彼は身を起こし、当てずっぽうで一発見舞った。かしましい啼き声と羽ばたきが渦巻き、鴉どもはいっせいに空へ舞い上がった。ところが何と、飛び去ったあとに一羽が転がっているではないか。
新太は、ついに仕留めた感動に胸をときめかせながらも、半ばこわごわと近づいた。大柄な鴉が羽根を開き気味にして、
新太はむごたらしいものから眼をそむけ、自分が撃った鴉を見つめた。上から見たところでは鴉の体に傷口は見当たらない。彼は銃の先でそいつを引っくり返してみた。だが、裏側にも血のにじむ個所は全然なかった。それなのに、そいつは相変わらず深呼吸を繰り返し、まるで瀕死のていなのだ。
腹立たしい思いがして、彼は弾丸を込めると、銃口をそいつの頭に当てて引き金を引いた。これは間違いなく当たった。黒い頭は地面からわずかに跳ね上がった。嘴の動きが止まり、
「……ふん、あっぱくさいもんだ」
新太は声に出して言ってみた。何だが自分の声のようではなかった。そこで死骸を蹴飛ばしてやった。黒い塊は、ほんの少し血を振りまいて、道端の溝へ落ちて行った。
新太は、次の発射に備えて銃身を折り曲げた。すると銃が何ともだらしのない恰好に変わるのに、今さらのように気づいた。所在なく銃を上向きにして、弾丸込めの穴を覗きこむと、暗闇のなかにぽっかり小さな円形の空が見えた。ふいに彼は、息が詰まるような哀しみにとらわれた。
夢の文字
少年雑誌の広告を見てハガキを出したら、薄っぺらな案内書が届いた。そいつが順平をあおりたてる。曰く、これぞ速記術の革命! たった十五字覚えるだけで、その日からすらすら書ける! 高給アルバイト可!人のしゃべる言葉を細大もらさず書き取ることができたら……それは、ドロンと身を消したり、水面をスイスイ歩いたりする術に劣らぬ
酷寒の夜、泥酔した父が路上で凍死して以来、一まわり小さくなったように見える母に、何かをねだるということが順平にはできない。間口三間の古ぼけた雑貨屋を営む、わが家の家計がどんな状態か、わかりすぎるほどわかっていた。彼は、お得意さんへの配達も店内の整理も、文句を言わずこまめにやった。真面目な態度の裏に、折りをみて母に打ち明けたい気持ちがひそんでいたのかもしれない。
そんなふうにして月末がきたとき、母は思いがけない多額の小遣いをくれた。
「……でも、こんなにもらっちゃっていいのかい」
「なあにそれくらい、母ちゃんにはどおってこたあないよ」
母が無理をしていることはわかっていた。どこかにこだわるものはあったが、ほしいものを手中にできる嬉しさで、彼はそれを飛び越えた。力士が懸賞金をもらうみたいに手刀を切ると、踵を返して郵便局へ走った。
ほどなく独習講座の小包が届いた。順平はのめり込むように没頭した。
発声とともに消えてしまう言葉を記すだけあって、速記文字は単純きわまりない符号でできていた。縦、横、斜めに向かう直線や曲線の大小、またそれに小円や楕円を付すことで書き分ける。「あいうえお」と「かさたなはまやらわん」の十五字を覚えれば、他の文字は母音と子音の用法に基づいて、簡単に書ける仕組みだった。だが、それを綴っていくと妙ちきりんな字面になって、否、字面というよりはミミズがのたくりまわっているような、何だかとらえどころのない様相を呈した。
そして、それは案内書のキャッチフレーズのように、十五字を覚えた日からすらすら書けるものではなかった。覚えていても、とっさに出てこなければ速記の意味がない。順平はいつも言葉に注意を払い、商店の看板、塀のポスター、電柱のビラなど眼に入る文字をすぐさま指先で宙に符号化した。また耳を敏感にして、聴こえる言葉は何でも書いた。配達に行って「毎度ありい」というとき、指はそれを追っていた。いつか遠くで犬が吠えたとき、順平は無意識に「わん、わわん」と書いていた。
数カ月がすぎると、助詞や助動詞、頻度の高い単語の省略を学んだ。いままでのように断片的な言葉ではなく、まとまった話を書き取る段階に入ったわけだ。身のまわりにある本を開いては片っ端から挑んだ。またそれを読み返す、あるいは国字に直す練習も行なった。その頃、本は豊富に出まわっていなかったから、教科書を教材にしたり、友人から借りた探偵小説や冒険活劇なども同様に試みた。
この練習は順平にたくさんの漢字を覚えこませ、文章の要領を飲みこませたので、国語や社会の成績がしだいによくなった。一度、教師がテストの範囲を間違って、まだ習っていないところを出題したことがあった。生徒たちがブウブウ文句を言うと、教師は自分の勘違いを認めず「現にちゃんと百点をとった奴がいるんだから」と押しきった。その百点の主は順平だったのだが、彼にとって教科書は、何度も速記文字にしては読み返していたので、授業の進行に関わりなく、どのページの内容も知悉していたのだ。
自信がついてくると、彼は授業時間、講義をノートするのに速記文字を混入させてみた。教師の話はけっこう速かったから、全言記録はおぼつかなかったが、しょっちゅう出てくる単語だけでも符号化すると、誰よりも速く書けた。
順平の横に並んでいる級友が、彼のノートに気づき「何だこりゃあ、滅茶苦茶に書いちゃって」と
「……どうなってんだ、これは」
「新しい手品なのか」
口々に驚嘆の声をあげる級友たちに、順平は頬を少し赤らめて説明した。
「初めて見るもんにゃ訳がわからんべ。だけど、これでちゃんとした文字なんだ」
隣席の級友は読書力がすこぶる劣り、たどたどしい読み方だったのが幸いして、順平の未熟な速記術でもどうやらついていけたのだが、級友たちはすっかり感心した。一人が「そいつでおれの名前書いてくれや」と言い出し、一気に書いて見せたら「ええっ、こったらちょべっとで全部入っとるんか」と再び驚き、続いてわれもわれもと申し出るので、順平の周囲に人だかりができた。
順平が速記をやることは教師の耳にも入った。みんなと同様に一度名前を書かせられ、そして授業中にときたま「ここは大切なところだ。順平、ちゃんと書いとけよ」などと言ったりした。それからというもの、クラスで一番成績のいい級長がたびたび順平に話しかけるようになったし、新聞部長をしている級友は順平を入部させようとしきりに勧誘した。またいままで全然相手にされなかったのに、女生徒の数人が速記を覚えたがり、順平は符号を教えたり書いたのを直してやったりすることになった。こんなふうに、順平はいつかクラスの中で目立つ存在になってしまった。
順平の
「順平くん、やっぱり将来は速記の仕事に
彼は少々面食らいながら答えた。
「……ん、そうだなあ。もし、なれたらね」
「きっとなれるわよ。そんなにすごい練習してんだもの」
彼女の眼は、順平のペンだこに注がれていて、彼は隠すように、左手でそれを撫ぜながら応じた。
「それほどでもないよ」
「速記って、いろんな分野があるんでしょ。順平くんはどの方面を志望してるの?」
「そうだなあ……できたら、新聞社の速記者になりたい。なんたって第一線の仕事ってもんだもの。ニュースを記録するんだから」
気持ちに触れる問いかけに、順平は本心をのぞかせた。彼女は「文字で生活する人って、なんか憧れちゃうわあ」と、恥じらいもなく言ってのけた。彼はどぎまぎして、思わず周囲を見回した。
しかし、順平の将来はそのように楽観できるものではなかった。母一人子一人の貧しい境遇から、そんな明るい場所へ出ていけるものかどうか心もとなかった。経済的な問題のみならず、果たして自分にその才能があるかどうか自信もなかった。普通、人の話す言葉は十分間に三千字前後。それを完璧に書き取るには、言語の解析能力にたけ、かつ高度の技術を習得した者にして初めて成し得ることである。数冊の独習書をマスターした程度では、とても追いつくものではない。
事実、順平はまだ二千字台をうろうろしていた。ラジオから流れる声は、ニュースはもとより、ディスクジョッキーでも落語でも漫才でも、手当たりしだいに、しがみつく思いで追いかけていくのだが、すぐ振りほどかれ、突き放された。一度だけ、どうやらついていける話し手に出食わしたことがあるが、それは文化勲章を受章した老作家で、発音は不明瞭ながら、一語一語考えてから話すので間がじゅうぶんに持てたのだった。
「テレコがほしいなあ」
川向こうの街の電気屋で見かけた、最新型のテープレコーダーが眼前をかすめた。あれさえあれば、自分の速度に合わせて読みこみ、再生して書きまくればいい。どんなにか効果的な練習ができるだろう。またもやお金がほしくなると、思いは母の姿に突き当たった。このごろ、店の商売のほかに牛乳の戸別配達まで始めた母に、そんな高価な文明の利器をねだるわけにはいかなかった。やむを得ず仕事が終わった夜、母に頼んで教材を読んでもらったが、知らない漢字が多くてそのたびに突っかかるし、音読そのものが母だと何か様にならなかった。
ある夜、順平はひそかに電気屋に忍びこみ、目当てのテープレコーダーを抱えて逃げ出したら、すぐさま巡査に捕まり――びっしょり寝汗をかいて眼が覚めた。夢を見た数日後、順平が学校から帰ると巡査がやって来て、ちょっと駐在所まできてくれと言った。順平はドキンとした。テレコを盗んだのは夢のなかの出来事だ。それが現実の世界で呼び出されたりしたのでは、まるで落語ではないか。妙な胸騒ぎを押さえて、家と同じ通りにある駐在所へ同行した。
「……実はほかでもないんだが」
父の死後、何かと親しげな巡査は、少し困った表情でしゃべり出した。順平はいつもの癖で、その言葉を空で書いた。そして、何の意味もない言葉だと思った。人は一生の間に、こんな言葉の浪費をどれほど行なうことだろう。
「君は、十五字式速記独習講座っちゅう本を買ったことがあるかね」
順平は眼を輝かせてうなずいた。なぜ警察はそんなことまで知っているのだろう、アルバイトでも頼もうというのかな、勝手につごうのいいことを考えた。巡査はやさしい声で続けた。
「先般、××某なる男が検挙された。罪状は不良出版物の販売と詐欺。こいつは何ら理論的根拠のない速記術をでっちあげ、大量に印刷製本し、通信販売で全国各地へ売りさばいておったんだ」
「…………!」
順平はわが耳を疑った。何かの間違いではないのか。そんな馬鹿なことがあってたまるか。
「何かね、君はこの速記術を信じて、いくらか勉強しとったのかね」
「……信じるも何も、ちゃんと書けるんですよ」
「インチキってのはもっともらしいもんさ。どうだね、習っていておかしいとは気づかなんだかね」
「…………?」
そう言われれば、敢然と否定できない気もした。ここ数カ月、かなり省略文法を覚えて符号の簡略化はアップしたのに、速度が伸び悩んでいるのはたしかだった。だが、それは実際に耳で聴いて書く練習が不足しているせいだと思いこんでいたのだ。
「ま、嘘の文字だって、普通の文字より簡単なら、あるていど速く書ける理屈だねえ。しかし、速記ってもんは言語学的裏付けがなくてはできんもんらしい。この男はそんな学者じゃない、もと印刷工だよ。普及協会っちゅうのも、アパートの一室に小さな看板を出しとっただけだそうな。……無垢な少年を食いものにする、こんな悪辣なペテン師は、断固摘発してやらにゃいかん」
しだいに声高になる巡査の声を聞きながら、ふいに夕闇が訪れたように、順平の視界は暗くなった。
がっくりきた順平は、その後、いまいましいあの文字を忘れてしまおうと努めた。しかし、もはや習い性となり、つかみどころのなかった符号は消え去るどころか、いよいよ鮮明に眼底に浮かび上がってくる。学校で教師の講義を聴いているとき、店番でラジオを鳴らしているとき、彼の指は、またもや、せっせとあの文字で言葉を追いかけているのだった。
底本:『われらリフター』 近代文藝社 一九九三年三月二〇日初版発行
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