尾 な し 犬
佐 野 良 二
丘を渡る風が快かった。克夫は突端の草むらに坐ってスケッチに集中していた。眼下に広がる小樽港が凝縮されて膝の上の画用紙に収まっている。薄曇りのため海面は紺碧ではなく、やや鉛色に近い青だった。青いクレヨンがちびていて空や海を塗りつぶすには足りない。鼠色のクレヨンもすっかり減っていたが、2Bの鉛筆と混ぜれば何とかなりそうだった。港の中央にアメリカの巡洋艦が二隻、他の船の群れを圧するように停泊していた。巨大な
海から吹きつける風が体を突き抜け、感覚を冴えさせる――そう思ったのも束の間、しだいに頭の芯がぼんやりして顔がほてってきた。また熱が出たのだろうか。克夫は額に
丘の道を下りていくとき、一級上の鉄郎に会った。鉄郎は草の茎を食わえながら「いま、おまえっ
玄関の土間に古びた編上靴が脱ぎ捨ててあった。茶の間を覗くと、よれよれの汚れた
兵隊服の男がこっちを向いた。顔中、不精髯で埋まっている。髯が動いて「克夫か」と言った。克夫がうなずくと男はゆっくり近づき、「大きくなったな」と言って頭を撫ぜた。体がつんのめるほど乱暴な手つきだった。袖口から汗と埃の混じった臭いが鼻を打つ。急に眼の前が暗くなった。
「どうしたんだ」と男は、しゃがみ込んだ克夫に聞いた。
「また走ってきたんだべ。この子、体が弱くてね。腺病質っちゅうか」と母が答え、「覚えあるか。兄さんの忠夫だぞ」と克夫のほうへ言った。
「走ったくらいでそんなのか」忠夫は克夫を軽々と抱えあげた。
「もう大丈夫……」と克夫はもがきながら言った。十二歳上の兄は彼とは比べようもない大人の体だった。
間もなく次女の芳枝が中学校から帰り、続いて電話局で交換手をしている長女の房枝も帰ってきた。二人とも忠夫の顔を見るなり歓声をあげ、涙ぐんだ。忠夫は裏庭で行水を使い、髯を剃ると、頬はこけていたが端整な男らしい顔が現われた。姉たちは、やっと兄さんらしくなったわ、とか、さっきは乞食みたいだったよ、とか口々に言って笑った。そんな簡単に、久しく会っていない兄と打ちとける姉たちを、克夫は妬ましく思った。
電灯がとても明るく感じられる夜だった。いざというときのための白米が惜し気もなく炊かれ、忠夫が復員列車の途次、闇屋から手に入れたという鯨肉の罐詰も開けられた。茶の間は笑い声がひっきりなしに沸き、家族が揃ったというだけで、こんなに気持ちがなごむのが不思議なくらいだった。
「怪我も病気もせんかったか」
父の問いに忠夫は答えた。
「マラリヤに罹りかけたが大したことはなかった。でもフィリピンの山の中でひどい目に遭ったよ。おれは機関銃兵だから――機関銃ってのは通常四人で運ぶんだけどさ、戦闘になったら二人で運ばなければならないときもある。死に物狂いになれば力は出るもんだが、踏ん張っとるうちに脱腸になっちまった」
「…………」
忠夫は話の途中で立ち上がり、はだけた浴衣の間から褌を少しずらして見せた。陰毛の生えぎわに引きつれた手術の痕があった。
「いやねえ、兄さんったら」姉たちは手で顔を覆ったり、眼を伏せたりした。
「何がいやか、命がけで戦った痕だぞ」と父は真顔で言った。
「脱腸くらいでいかったわ。よく
「機関銃兵は最前線だからな、弾丸の飛び交うなかをかいくぐってきたんだ。バギオの戦闘では戦友のほとんどが死んだ。こうやって生きてることが嘘みたいだよ」
忠夫は遠い出来事を思い巡らすように低い声で言った。
翌日、克夫が学校へ行くとき忠夫はまだ寝ていた。授業が終わると、克夫は道草を食わず真っすぐ家へ帰った。忠夫は裏庭で焚火をしていた。克夫が傍らで見ていると「ちょっと家の蔭に行ってろ」と言った。何を始めるのか教えもせず、有無をいわさぬ言い方が面白くなかったが、彼は言いつけどおり表通りへ出た。しばらくして裏庭で鋭い炸裂音が響いた。それは三発鳴った。
克夫は驚いた。胸騒ぎがして家の端まで走っていき、おそるおそる覗くと、忠夫は何事もなかったみたいに、スコップで焚火の跡を掘っては何かを探していた。掘り出した小さな物を細工するふうだった。やがてそれを掌に乗せてこっちへやってきた。
「おまえにやる」
忠夫の掌から克夫の掌へずしりとした重みが移った。クレヨンのような形が金色に光っている。それが三本あった。まだほんのり余熱も感じられた。
「もう爆発せんから、心配ない」
機関銃の弾丸だった。軍が武装解除になったとき、忠夫は密かに背嚢に忍ばせて持ち帰ったのだ。思いがけない兄の戦地土産は、克夫を興奮させた。
彼はそれを近所の子供たちに見せびらかした。誰もがたちまち眼を輝かせた。ほお、これを撃つんか――みんな感に堪えないという顔をした。弾丸を握り、ダダダダーッと声をあげて射撃の真似をする者もいた。克夫は得意気だった。鉄郎が「三本もあるんだから一本くれや」と言ったが、「いやだ。とったら、兄さんに言いつけるよ」と断った。
火薬を消耗した弾丸は、もはや
数日たった。克夫が学校へ行くとき忠夫はいつも寝ていて、帰ってくると縁側に坐って裏庭を眺めていたりした。狭い庭は眺めるほどのものはなく、母が植えたジャガイモだのニンジンだのが生えているだけなのに。食事の時は三度三度ちゃんと食べ――といっても芋粥や澱粉ダンゴがほとんどだったが――あとはぼんやりしている。生死の境をさまよった体験から抜け出せないでいるのかもしれなかった。夜中に獣のような声をあげた、と姉たちが話しているのを聞いた。
母は「どんなに苦しい目に遭ったんだか。あの子はもともと気が優しい
「なあに、時間が解決する。すぐ元気になるさ」と父は弾んだ声で言った。「仕事を見つけて、……それから嫁を貰ってやらねばならん」
父は、このところ朝早くから仕事場に入り、売れるかどうかわからない下駄や足駄を何十足もつくっている。ときどき浪花節を唸りながら、手は正確に
夕食のとき、芳枝が忠夫のベルトについているお守袋を見つけた。
「ああ、これな」
忠夫はその赤地に金色の縫い取りがある、しかし相当に汚れたお守袋を開けた。中から小さく折りたたんだ写真が出てきた。
写真を開くなり「あ」と芳枝が声をあげた。折れ目が千切れそうに擦り切れ、画像もひどく変色したなかに、忠夫を除く家族五人が写っていた。国民服を着た父とモンペ姿の母の間で、幼い克夫が敬礼をし、その後にお下げ髪の房枝とオカッパ頭の芳枝が並んで微笑んでいる。戦時中に街の写真屋で撮り、慰問袋に入れて送ったものだった。
「もう死ぬかもしれないと思った時、これを出して眺めた」と忠夫は言った。茶の間はしんとした。
「……もう一枚のは?」
沈黙を破るように芳枝が聞いた。忠夫は家族の写真を開くとき、下に重なっていた小さな写真をすばやく掌に隠した。皆それに気づかなかったが、横にいた芳枝は見逃さなかったのだ。
「これはおまえらに関係ない」
忠夫はその手をズボンの尻ポケットに入れて、ぶっきらぼうに言った。
Hello, Whom do you want to call?
I'm sorry, I beg your pardon.
All right. Please call up.……
奥の間からたどたどしい英語が聞こえる。房枝が夕食後、決まって始めるのだ。電話局の勤務が、近く〈連合台〉と称する進駐軍専用の交換台に配置替えになる。このため毎日、英語の講習を受け、帰宅してからもテキストの発音練習をしていた。
父は最初、アメリカ兵なんか相手にする仕事はいかん、と言っていたが、電話だけの応対だし手当もつく、という房枝の説明でどうやら納得した。すると母は、房枝はみんなのなかから選ばれたんだよ、二人とも見習いなさい、と芳枝と克夫に言った。たしかに〈連合台〉配属になるのは成績優秀な者たちだったので、房枝はこの新しい仕事に意欲を燃やしていた。
用事で顔を出した隣の
克夫はそんな会話を聞きながら、茶の間の隅で絵を描いていた。きょう、筋向かいの精米所の前に並んだ配給取りの列――ねんねこで子供をおぶった主婦、和服を仕立て直したもんぺ姿の女、軍服を着た中年男などが、それぞれ手提げや風呂敷を持ったり、リュックサックを背負ったりして並んでいる。みな一様に疲れきった表情だった――そんな人の群れでも画面の端からずらり並べて描いていると、次第に興が乗ってきた。
「何だ、また絵か」と忠夫は言った。
「克夫は天才なの、将来は画家になるんだよね」と芳枝がからかった。
克夫にはそれがからかいには聞こえなかった。得意になって描き続けた。すると兄は思わぬことを言った。
「絵なんかやってどうなる、そんなもんで食っていけんぞ。もっと儲かることをやれ」
克夫のクレヨンを持つ手が止まった。頭のなかに湧いていたイメージが一瞬にして消え失せ、黒い怒りが込みあげた。
「そんな言い方することないっしょ、克夫が一番好きなことなのに」
芳枝が兄に抗った。姉の言葉に克夫の胸は張り裂けそうになった。怒りは悲しみに変わり、鼻の奥で量を増し、眼から溢れ出た。
「泣くんじゃない、兄さんには絵心がないのよ」
クレヨンを握り締めたまま絵の上に涙を落とす克夫を、芳枝がなだめた。しかし彼はしゃくりあげ始めていた。
「おいおい、そんなことくらいで泣くのか、いつから泣き虫になった」忠夫はなおも言い募った。「女のなかにいると軟弱になっていかん。おれがこれから鍛えなおしちゃる」
克夫自身も、そんなことで泣いてしまった自分を悔やんでいたが、彼の最も大切なものを悪しざまに侮辱したことが許せなかった。兄さんなんて大嫌いだ、鍛えてなんかいるもんか――反抗の気持ちを、彼はいつまでも泣きじゃくることで訴えた。
忠夫に仕事を見つけるべく父は八方手を尽くした。だが、同業の下駄職人たちの情報にはろくなものがなかった。そのうち忠夫は自分で漁船に乗る仕事を見つけてきた。戦友の親戚の者が船主をしている船で、沿海漁業だから危険はない、とのことだった。しかし、海の事故は起きてしまうと生命にかかわる。実際、祝津の漁師が横波をくらって甲板から海中へ落ち、行方不明になった事故があったばかりだったので、両親は反対した。忠夫は、戦地に比べりゃどうってことないさ、と軽く受け流した。
戦後、漁業海域は沿海十二海里と決められていたから、忠夫はその日出かけてその日帰った。ときどき自転車の荷台に魚箱を積んできた。魚箱にはカレイやホッケなど、とびきり生きのいい魚が入っていて、忠夫はそれを、余得だ、と言った。戦争に敗けて食糧の輸入がなくなり、そのうえ大凶作に見舞われ、誰もが腹をすかしていた。忠夫の稼ぎが一家の食い扶持をささえたので、船に乗ることに反対した母も、ありがたい、ありがたい、と言うようになった。
忠夫がリヤカーで何匹もの
忠夫は鮫の腹を片っ端から切り裂いて肝臓を取り出した。それを鍋に入れ、ストーブで煮詰めながら撹拌した。生臭いにおいが台所に広がって母たちを閉口させたが、彼はおかまいなしだった。次に苛性ソーダの溶液を入れて、なおも棒で掻き回し続けた。泥のような汚いものができあがると、さらに食塩を加えた。そんなことを根気よく繰り返した。
数日後、木箱のなかに見たこともない蝋状のものが固まっていた。忠夫はそれに包丁を入れ、切り餅くらいの大きさに切った。その一個を取り出し、流しへ行った。
「さあ、できたぞ。見ろ」
汚れた両手に、その固形物を擦りつけると泡立ってきた。水で流すと、忠夫の手はきれいになった。
「どうだ、立派な石鹸だべ」彼は自慢気に言った。「これを売って一儲けしてやる」
そんな粗製濫造の石鹸がみな売れたというのだから、不思議な世の中だった。もっともその後、買った者から、汚れが落ちることは落ちるが生臭いにおいがしみつく、と苦情が持ち込まれた。しかし知り合いの闇屋は、ほとんど脅しつけて相手を黙らせてしまったということだった。忠夫はその益金でメリケン粉を袋ごと買ってきた。
ある日、帰宅した忠夫の後ろから犬が顔を見せた。痩せて見すぼらしい黒の牡犬だった。波止場にいた野良犬に餌をやっているうちに慣れてしまい、口笛を吹いたらついてきたという。それはお世辞にも可愛いといえる犬ではなく、黒い毛の色もよく見ると、余って要らなくなった絵の具を掻き混ぜたような汚い色だった。おまけにそいつは
「この犬、飼うの」と克夫は聞いた。忠夫は黙っていた。すると母が「人間さえ食っていけんちゅうときに何いうか」と言った。「……三度三度でなくていいんだ。残り物が出たときにちょっと食わしてやれば」と忠夫は口ごもって言った。克夫は兄の言葉が嬉しかった。ときには乱暴な口をきくが、心根は優しいんだと思った。
野良犬にはバツという妙な名前がついていた。なぜそんな名がついたのかわからないが、船員仲間でそう呼んでいたし、犬も自分のことと知っていて反応するのだという。
「バツ……」
克夫が呼んでみたが、犬は忠夫の傍らを離れず、こっちをちらっと見たきりだった。忠夫だけが好き、といわんばかりだった。忠夫が家に入ってしまうと、玄関の戸の前に坐った。戸を開けて呼ぶと今度はやってきた。のろのろ克夫に近づき手をなめた。怯えているとも媚びているともとれる態度だった。
克夫は、夕食のとき魚の頭や骨を残し、母にまだ食べるところが残っている、と叱られた。すると忠夫も残った物を克夫のほうへよこした。兄に気持ちが通じて克夫は嬉しくなった。姉たちも同じようにした。
バツはそれらの餌を浅ましいほどガツガツして、あっという間に平らげ、物足りなさそうに舌なめずりして克夫を見上げた。
「バツ、来い」
克夫が走ると、今度は走ってついてきた。いくらも走らないうちに息苦しくなった。道路にしゃがみ込んだ克夫のまわりを、バツはうるさいほど跳びはねた。克夫の顔の前で吐く息が生臭かった。
「バツ、おまえはどこから来たんだ」
克夫は頭を撫ぜてやった。バツは首をすくめて、舌を出したり引っ込めたりした。眼ヤニは溜まっているし、耳は引き千切れているし、見れば見るほど情けない犬だった。気がつくと、尻の上の、尾の名残りと見える傷痕がヒクヒク動いている。こいつ、嬉しがって尾を振っているんだ! 克夫はバツの胴体を抱きしめた。ごわごわした毛皮の下に痩せた骨格があるのがわかった。首筋に耳をつけると心臓の音がゴッゴッと聞こえた。
バツは毎朝、出勤する忠夫の自転車についていった。忠夫が出港するのを、波止場で小さくなるまで見送っているという。
「兄さんがいない間、じっとそうしているの」
「いや、街をうろついて餌でもあさってんだべ」
「食べ物が見つからんときもあるしょ」
「そうだな、いつも腹をすかしてる。それでおれたちに何か貰おうと思って、船が着くころになると来て待ってるんだ」
波止場にお坐りして海を眺めているバツの姿が眼に浮かんだ。それは何だか悲しいような光景だった。
「とってきた魚をやるの」
「やらん、魚は売り物だからな」忠夫はきっぱり言った。「犬が食うのは人間の食い残しだけだ」
克夫が描いた配給取りの絵を、教師の勧めもあって市内の児童美術展に応募した。しかし、入選発表のなかにその作品は入っていなかった。
「戦後の生活があんなによく描けていたのに、審査員の奴ら、きれいごとにしか眼を向けないんだ。……これに
克夫の才能を認めて指導してくれている図工の教師はそう言って励ました。理由はどうあれ落選したのだ。そんな
学校から帰ってくると、家の前に、日傘を差した着物の女の人がいた。家のなかを
鞄を茶の間に放り込んで、また玄関から出ると、女の人は精米所わきの小路からこっちを見ていた。今度は顔が見えた。淋しげな瓜実顔だった。彼女はことさら無関心を装っているようだったが、こっちを意識していることは克夫にもわかった。
夕食のとき、克夫はその女の話をした。
「誰だって?」と母が聞いた。
「知らない人。色の白い、きれいな人だったよ」と克夫は感想を述べた。
「私より美人」と芳枝が聞いた。
「うん、何倍も」
「こら」
「いったい誰かねえ」
母は首を傾げた。忠夫は黙って食事をしている。房枝は芳枝と顔を見合わせ、それから母に向かって意味あり気な視線を送った。母はますます訳がわからないという表情になった。
忠夫がいつもより遅く帰った。酔ってわめき立てる声に、寝室で眠りかけていた克夫は眼が覚めた。
「なしたの、こんなに正体なくなるまで飲んで」と母が叱っている。
忠夫は
「……もう真っ暗よ。暗くて前が見えねえ」
「悪い酒飲んだんでないべな。メチールを飲んで眼の潰れた奴がいるっちゅうが」と父が聞き
忠夫はけたたましい笑い声をあげたかと思うと、また怒鳴った。
「……女は、男一人にトラック一杯分もいるっちゅうぞ」
克夫は布団から抜け出すと
「なんだ、そんなとこから覗いてたのか」と変に据えた眼つきで言った。克夫は襖を閉めようにも手が動かなくなった。
「おい、泣き虫の絵描きさんよ」となおも厭味な言い方をする。克夫は視線を畳に落とした。
「弟にからんでどうなるっちゅうの」と母が忠夫の前に立ち塞がり、せき立てて向こうの部屋へ連れていくようだった。そこでやっと克夫は襖を閉めた。
ほどなく忠夫を寝かしつけたらしく、茶の間から母の声が聞こえた。
「戦争の傷がまだ治んないんだべかな」
それには誰も応えなかった。かわりに房枝が何か芳枝に
「なんだ、こそこそ話したりして、言いたいことあるんか」
父の決めつける声に姉たちは黙り込んだ。兄が荒れると家族みんなが荒れる――克夫は布団のなかで体を縮めながらそう思った。
克夫は卓袱台に向かって芳枝の図工の教科書からセザンヌの絵を模写していた。すると台所から母と房枝の声が聞こえてきた。
「兄さんが深酒するのは、その女の人が結婚していることがわかったからよ」
「……そんなこと、誰に聞いた」
「梅ケ枝の康さん。内緒だぞ、って教えてくれたの」
「じゃあ、その女は何だって忠夫に逢いに来たんだね」
「未練があるってことでしょ」
「…………」
「兄さん、まだその人が好きなのよ。でも、しようがないわよね、あきらめるしか」
「何で忠夫が帰ってくるまで待っとれんかったんか。薄情な女でないか」
「やっぱり、やむにやまれん事情があったんでしょ」
「……思い続けて、生死の間をさ迷うて、命からがら帰ってきてみたら、他人の妻になっとるなんて、あんまり可哀そうっちゅうもんだわ」
「戦争のせいよ。いまさらどうしようもないっしょや」
「忠夫が不憫でならん」母は感情の昂った声をあげた。
克夫の耳に、女なんて掃いて捨てるほどいるさ、と怒鳴った兄の言葉が聞こえた。だったら、早く別な人を見つければいいのに、と思った。
花園町の踏切の近くに西洋館風な病院があった。克夫は母に連れられて定期的にそこを訪れた。待合室には無気力な顔つきの人たちが大勢いた。さんざん待たされたあと名前が呼ばれ、克夫は母について診察室へ入った。医者はチョビ髭を生やした肥った男だった。裸にさせられた克夫の薄い胸に聴診器を当て、顔を斜めにして音を聴く表情をした。
「熱は出るかね」
「はい、ときどき」
医者が問うと、克夫の後ろにいる母が答えた。
「そうかね、学校では元気にやってるの」
「…………」今度は克夫がうなずいた。体育の時間、運動場の隅で級友が走り回っているのを見ていることのほうが多いが、それは黙っていた。
「寝汗は出ないかね」
「……ときどき」
「そう」
医者は掌を克夫の胸に当て、その甲をトントンと叩いた。位置を変えるたびに生温かい感触が動き、いやな感じだった。
「やっぱり、栄養つけないといかんねえ」と医者は顔をあげて言った。「なんか精のつくものを食べないと」
「はあ、好き嫌いの多い子だもんですから」と母の声がまた後ろから聞こえた。
「そりゃあ困ったね。こんな物のないときに、
「肝油を飲みなさい、私が手に入れてあげるから」
それから日に三度、三粒ずつの肝油を飲むことになった。「いいか高い薬なんだから、捨てたりしちゃいかんよ」と母は言った。白い
そんな数粒で体が丈夫になるとは思えなかった。だんだん衰えているのかもしれない、と克夫は老人のように考えた。死ぬのがそんなに遠いことでない気がした。しかし、死がこわいものとは思えなかった。暗闇、永遠の暗闇……。彼はいつか闇のなかにぽっかり浮かんでいる夢をみたことがある。見渡す限り何もない宇宙空間のような暗黒の世界に、たった一人、横になって浮かんでいた。それなのに不思議に恐怖を覚えなかった。そこには何か安らぎのような感覚があった。
房枝は〈連合台〉の交換手として英語にもかなり慣れてきたみたいだった。あるとき、おかしそうに電話局での出来事を話した。
「交換手が若いと知ると、きっと誘うのよ。忙しいと言っても、あなたはどこに住んでますかとか、姉妹がいますかとか……」
「へえ、みんなそんなこと聞くの」芳枝が興味を示した。
「うーん、約三割がそうね」
「電話じゃハンサムかどうかわからないしねえ」
二人の話を聞いていた父が、ついに「冗談じゃねえ、アメリカ兵なんかと付き合ったら承知しねえぞ」と怒った声で言った。
房枝は顔を赤らめた。
「何言ってるの、そういうときは I don't understand what you are saying. って答えるんだから」と英語のところだけいっぱしの発音で言った。
「なんだ、そりゃあ」
「おっしゃることがわかりません、って意味よ」
「そったらまどろっこしい答え方をするからだめなんだ。はっきり、お断り申し上げます、って言ってやれ」
「…………」
房枝は十九歳だった。たとえアメリカ兵であっても、異性に声をかけられると胸がときめくらしかった。
それから間もなく、軍政局に接収されていた越中屋ホテルの電話交換手が急病で休み、代替えで房枝が勤務することになった。その日の帰り、アメリカ兵がジープで房枝を家まで送ってきた。アメリカ兵は運転席から下り、房枝の手をとって下りるのを助けた。再びジープに乗るとGood bye.と陽気な声で言い、房枝もThank you very much.と手を振って応えた。そんな二人を近所の人たちが遠くから見ていた。
父は房枝が玄関を入るなり、「あれほど言っといたのにパンパンみたいな真似しやがって」と怒鳴りつけた。この言葉は房枝の気持ちを傷つけた。
「私が何したっていうのよ。ただ送ってきてもらっただけなのに」と珍しく声を張り上げた。母はわけもわからず、おろおろするばかりだった。興奮が収まると房枝は部屋に閉じこもり、父は茶の間で
芳枝が克夫の脇を突いて、半分に折ったチョコレートをよこした。房枝の持ち帰ったものらしかった。父の背を盗み見ながら、こっそり一片を舌に乗せると、とろけるような甘味が口中に広がり、悪の誘いのように克夫の胸をドキドキさせた。
夕方、克夫は近所の子供たちと隠れんぼをしていた。鬼になった精米所の息子が板壁に頭をつけて数を数え出すと、彼は鉄郎と小路を走って裏の物置小屋に入った。積み重ねた下駄の木地と壁の間へ、
精米所の息子が何かぶつぶつ言いながら小屋の前を通り過ぎた。鉄郎は声を出さずに笑った。しばらくして遠くで「民ちゃん、見つけた」と叫ぶのが聞こえた。鉄郎は今度は声をあげて笑った。
克夫は木地と壁に挟まれていることに息苦しさを感じてきた。「もう出ていこうよ」と言うと、鉄郎は「待て」と小声で制した。入口の戸が開いて誰かが入ってきたのだ。木地の隙間から覗くと、七三に分けた髪は忠夫に違いなかった。そして後ろから女の人も入ってきた。二人は戸を締めると向かい合った。
克夫は息を殺して覗いていた。こっち向きの女の顔は、小窓から入る明かりしかないのでよくわからなかったが、着物を着ているので、いつかの日傘の人だと思い当たった。
「来るなと言ったのに」忠夫はささやき声ながら、強い口調で言った。
「私、聞いてほしいことがあるの」女の人はあえぐように言った。
「聞いてどうなる、今さら」
「……私、あんたのことばかり考えてたわ」
「よく言うよ、裏切っておいて」
「怒ってるの、当然よね。ああ!」女の人の声が昂った。
「声をあげるな。家族に聞こえる」忠夫は怒った声ばかり出した。
「許してちょうだい。どうしようもなかったの」
「ふん、玉の輿に乗って満足なこったろうよ。
「違うわ、私だって辛かった。お店は左前になるし、母さんは寝たきりになるし」女の人はすすり上げながら話した。「あんたは生きて帰るか、死んで帰るかわからないんだもの。フィリピンは全滅だって言われて」
「おれはな……」忠夫の声が震えてきた。「地獄のなかでおまえだけを思っていた。おまえに逢いたい一心で生きてきた」
克夫は驚いた。信じられないことに、あの物事に動じない兄が泣いているではないか。いつも克夫の弱さを叱りつける兄が、棒立ちのまま肩を揺すって泣いている。
「ああ、なんて不幸なの」女の人は両手で顔を覆い、ほとんど裏声になって呻いた。「あんたが生きているのに、どうすることもできない」
「…………」
忠夫の腕がふいに女の人を引き寄せた。彼女は少し抗ったが、やがて着物の袖から出た白い手が忠夫の首筋にしがみついた。克夫はごくりと唾を飲み、その音が物置小屋に響いたように思われて首を縮めた。横にいる鉄郎も身を固くして見つめ続けた。
忠夫を呼ぶ母の声と、バツの吠える声が聞こえた。忠夫と女の人はあわてて離れた。そしてまた顔を近づけて囁き合い、小屋の外へ出ていった。
「見いちゃった、見いちゃった」と鉄郎がおどけた声を出した。それを遮るように克夫は言った。「鉄ちゃん、いま見たこと誰にも言わないでよ」
「なして」
「……なしても」
克夫は兄の苦しみを胸のなかに収めておきたいと思った。だが、その気持ちを言葉でうまく説明できない気がした。意外にも鉄郎は簡単に承知した。
「よしわかった、約束するよ。その代わり」
「その代わり?」
「機関銃の弾丸がほしいな」
「…………」
機関銃の弾丸は克夫の一番大事な宝物だった。しかし、このさい兄の秘密を守るために仕方ないと思った。克夫はさっそく机の引き出しから弾丸一発を持ち出し、鉄郎の手に握らせて、絶対に兄と女のことを口外しないと誓わせた。
バツがいなくなった。その日、船が波止場に着いたのに、いつもの場所にバツの姿が見えず、忠夫は何度も口笛を吹いて探したが現われなかったという。
「誰かに食われちまったのかもしれねえ」と父は言った。
「あいつは赤犬でないよ」と忠夫は否定した。
「赤も黒もない、そんなこと言ってられんご時世だ」と父は続けた。「食えるものならなんだって持っていかれっちまう」
父は、買い出し帰りの夜道で担いでいた風呂敷包をそっくり奪われた主婦のことや、配給だけで凌いできてとうとう栄養失調で死んだ裁判官のことを話した。実際、芋の皮を潰して澱粉ダンゴに混ぜたり、南瓜の
バツが殺され、肉鍋になっていることを想像すると、克夫の眼に涙が滲んできた。それをまた兄に見咎められた。
「なんだ、また泣いているのか。泣き虫め。……戦地じゃ、おまえ、いま隣で声かけ合ってた奴がふいに喋らなくなる。揺すってみるともう死んでるんだ、そんなことが何度もあった。犬一匹くらいでめそめそするな」
忠夫は怒った声を出した。克夫は、兄さんだって泣いたじゃないかと思ったが、それは口にすべきことではなかった。そして、またしても克夫の涙は止まらなくなった。バツの哀れな姿を思い描くと、悲しさは募るばかりだった。あの不恰好な野良犬が、今はかけがえのない大切なものに思えた。
何日待ってもバツは姿を見せず、それっきりになった。
夜、家の前に車の停まる音がした。帽子を斜めにかぶったアメリカ兵が玄関口で腰をかがめ「房枝サン、イマスカ?」と言った。先日、房枝を送ってきた兵士だった。白人というのに肌は白ではなく薄いピンクだ、と克夫は観察した。褐色の眉毛の下に
仕事場で下駄づくりの作業をしていた父はうろたえた。膝の鉋屑を払いもしないで、克夫を促し茶の間へ戻った。ちょうど房枝が出ていこうとしていた。父は彼女の肩を押さえて止めた。
「何、勘違いしてるの。電話局でお世話になっているマイケル軍曹よ」
房枝の声を父は無視した。房枝以外に英語はわからないのに忠夫に、追い返せ、と小声で命じた。忠夫は困惑したまま玄関へ出ていった。
「いない、いない」と忠夫は手を振った。
「イナイ、……オオ残念」
克夫がいつも見上げる背丈の兄が、アメリカ兵の前では顎の辺りまでしかなく、いやに貧弱に見えた。
アメリカ兵は素直に出ていった。だが、彼は帰ったのでなくジープに戻っただけだった。再び玄関に、今度は紙袋を持って現われ、それを差し出した。忠夫は
「仕方ナイ、サヨナラ」
「サンキュー」
手を振って出ていくアメリカ兵に忠夫も手をあげて応えた。ジープが走り去るのを見送って、ほくほく顔で戻ってきた。芳枝と克夫がさっそく紙袋のなかを覗いた。ジープと同じ色の罐詰が大小六個も入っていた。
「中身はなんだべ」
「英語じゃわからん」
「房枝、読め」
「……大した応対だわ」房枝がふくれっ面をして言った。
「何だって、そったらもの貰うんだ。返しちまえばいかったのに」と父がまだ怒気を含んだ声で言った。
「くれるものは遠慮せんで貰っておくさ。日本人はみんなひもじいんだ」忠夫は言った。「やっぱりマイケル軍曹は房枝にホの字なのかな」
「…………」房枝は声もなく忠夫を睨んだ。
「まあいい。だが、心配ないって、おれに任しとけ。いざとなりゃあ、仲間に言って別な女を紹介してやらあ」忠夫は唇の端に薄笑いを浮かべて言った。
「ひどい侮辱だわ、いやらしい」房枝は眼に涙を浮かべ、隣の部屋へ入ると叩きつけるように襖を閉めた。
罐詰は、牛肉、パイナップル、グリーンピース、コーンなど、開けるたびに歓声があがるほどの品々だった。それは久しぶりの豪華なご馳走といえた。
雪が降って自転車に乗れなくなると、忠夫は漁の余得を
仕事から帰って、いつものように魚箱を裏庭の穴へ運んでいった忠夫が、何やら大声で叫んだ。克夫が縁側のガラス戸から見ると、雪が掘り返されて、魚が何匹も雪の上に食い散らかされていた。足跡からして野良犬の仕業に違いなかった。
「誰も気づかなかったのか」と忠夫は悔しがった。
「さあな、わしは仕事しておったし……」と父は口ごもった。
「どこの犬だ。畜生、ぶっ殺してやる!」忠夫は激怒して言った。スコップを持つ手がぶるぶる震えた。
克夫は一瞬バツのことを思った。もしバツの仕業だったら兄はどうするだろうか、と。しかし兄の剣幕に気押されて、その疑問を口にすることができなかった。
忠夫は即刻、どこからかトラバサミを借りてきた。それを魚を埋めた雪の上に仕掛け、見えないように雪を被せた。
「のこのこ、またやって来るか」と母が聞いた。
「絶対来るさ。味しめたに違いないからな」忠夫は自信あり気な口ぶりだった。
夜になって厳しい寒気に見舞われた。昼間よく晴れて暖かかった分、倍にしてお返しがきたみたいだった。布団にもぐり込んでもすぐ寝つくことができなかった。克夫の意識は裏庭に仕掛けたトラバサミにあった。聞き耳を立てていると頭が冴えてくる気がした。しかし母の入れてくれた湯たんぽが快く、間もなく寝入ってしまった。
……何かがぶつかる音がした。暗闇の中で目覚めた克夫は耳をそばだてた。低く尾を引く唸り声、この野郎、という人間の声。
母の向こうに寝ている父が起き、障子を開けて縁側に出ていく。克夫も布団を跳び出した。父は縁側のガラス戸を透かして外を覗いていた。その後ろにしがみついて克夫も覗いた。雪のなかに棍棒を振り上げた人影が動く。棍棒は何度も振り下ろされ、同時にけたたましい悲鳴が起きる。克夫は雪の上をのたうつものから眼を逸らすことができなかった。やがてそれは動かなくなった。
「やっつけたか……」
父はかすれた声で言い、それから便所の電灯を点けた。薄明かりが裏庭一面を白く際立たせ、雪のなかに横たわる犬の形を映した。鼻の辺りに血が飛び散っている。
「手こずらせやがって」
忠夫の声は白い息になって何度も闇に吹き出した。寒いのか怖いのか、克夫の体は震えてとまらなかった。
「バツじゃないよね、兄さん」
克夫は最も気になっていたことを聞いた。忠夫は克夫を見た。それから雪のなかから尾をつかんで見せた。黒い犬だったが長い尾がついていた。
「おれが間違うもんか」
「ああ、よかった」
それは克夫にとっての実感だった。強張った体の奥にほっとしたものが灯った。
母は起きてこなかった。克夫がまた布団にもぐるとき、横から手を伸ばして
けっきょく、黒犬の肉は家族の食卓にのぼることになった。
剥いだ犬の皮は板に釘づけにされ、縁側で乾かされた。忠夫は「克夫の外套の襟につけたらいい」と言った。克夫は声が出なかった。
七時を過ぎても忠夫が帰宅しない。また酒でも飲んでいるのだろうと、みんなで夕食を始めたら、玄関があいて角の雑貨屋の店員が「警察から電話です」と告げた。父はあわてて出ていき、あわてて帰ってくると「忠夫が警察に捕まった」と言った。「何だかよくわからんが、船が捕まったというんだ」
父はあたふたと身仕度をして出かけていった。母は立ったり坐ったり落ちつかず、他の者も食事が中途半端になった。夜遅く父は帰ってきたが、忠夫はいっしょでなかった。何でも忠夫の乗っている漁船が操業ラインを越え、禁止海域に入って漁をしているところを、監視船に捕まったということだった。
「それじゃ、忠夫は刑務所に入ることになるのかい」母は気が動転して、悲鳴のような声を出した。
「警察に留置されているだけだ。船主でねえんだから、すぐ釈放になるべ」父は案外落ちついた声で話した。しかし煙管に刻み煙草を詰める手が震えていた。
「何だって、そんなことをしちまったのかねえ」
「海に線を引いて、こっから先は獲っちゃいかん、てんだ。向こうには魚がわんさといるとわかってりゃ、マッカーサー・ラインでも何でも越えて行きたくなるわな」
それから父は、煙管を何度もストーブ台の縁に叩きつけた。茶の間に不安な空気が漂い、誰もが黙ってしまった。大分たって父はまた愚痴った。
「いままで誰に文句もいわれんで獲ってた海なんだが、……何たって戦争に敗けたんだからしゃあねえさ」
忠夫は一週間の拘留を受けたのち、帰宅した。漁船の船主は操業停止の処分を受け、出漁できなくなった。忠夫の漁船員の仕事も終わりになった。また仕事を探し始めたが、今度はツキが落ちたみたいに見つからない。毎日出ていっては酔って帰ることが多くなった。泥酔して大声でわめき散らす兄の姿に捨てばちなものを感じて、克夫は不安を募らせた。
「フィリピンちゅうと、南洋だべさ」
隣の柾屋の親父が、犬の肉のお礼にイナキビでつくったドブロクを持ってきた。それをちびちび飲みながら戦争の話になった。父は寄り合いに出ており、母は台所にいた。問われるままに忠夫は話し始めた。
「ええ、ココヤシ、パイナップル、バナナなんかが穫れるところですから」
「それじゃあ、食い物に不自由はなかったかい」
「とんでもない、いつも腹ぺこでした。支給される食糧では飢え死にしちゃいますから、夜ごと徴発に出かけたもんです。……徴発とは、要するに現地人からむりやり奪い取ってくる」
「…………」
「スコールはまったく天の恵みでしたね。夕立の親玉みたいなやつが猛烈に降ってきて、さっと上がっちまう。すると、草むらにカタツムリがうじゃうじゃ現われる。それを掻き集めて、
「デンデン虫まで食ったって!」
「日本のカタツムリより大きくてよく肥えてんですよ。味もまるで何かの貝のようにうまいんです」
「へえ……」
湯飲み茶碗のドブロクをすする忠夫の眼は、異様に光ってきた。酔いがだんだん饒舌にしているようだった。
「現地人も米の飯を食ってるんですけど、こんな食い方があります。まず丼に炊きたてのご飯を八分目ほど入れる。それから生きた
「うわ、胸がわるくなる」
柾屋の親父は口をへの字にして気味悪がった。
「サトウキビも穫れるって聞いたがな。砂糖を使った料理はなかったかね」
「そう、製糖工場もあった。そこが爆撃されたときは凄かったですよ。融けた砂糖が水飴になって流れる、そのなかに逃げ遅れて死んだ奴がごろごろしてるんです」
「いやいや、まるで人間の甘煮だねえ」
「そうです。ちょうど人間の甘煮です、あれは……」
忠夫はうなずいてみせたが、柾屋は自分の軽はずみな言い方に気づき眼をキョロキョロさせた。あわてて別なことを言った。
「に、人間を斬ったことがあるかね」
「…………」忠夫は茶碗を持つ手を宙にとめた。「斬ったことはないですよ、機関銃兵だから撃つだけです」
「ああ、そうか。銃撃戦は遠く離れてるから、
「いや、そんなことはない。遠くにいても手応えを感じますよ。敵さんが死ぬ時の、魂が空中に抜け出す音が聞こえるんです」
「ど、ど、どんな音だね」
忠夫は頬に薄笑いを浮かべ、茶碗を床に置いた。克夫は息苦しくなって、身を固くした。
「ヒューッという感じだね。タイヤの空気が抜けるみたいな。それは戦場がいくらやかましくても聞こえる。ヒューッ、ヒューッ、ヒューッ、立て続けに聞こえたりしたら気持ちが昂って、何も恐ろしいものはなくなってしまうのさ」
「…………」
柾屋はうろたえた目つきをした。そして額の汗を拭った。忠夫の頬や首筋にも汗が流れていた。
「お、女はどうだったね。フィリピンの女は」柾屋は話題を変えようとした。
「どうって?」
「あすこにはスペイン系の別嬪がいるって聞いたがね」
「それは、もう、みんな美人に見えましたよ」
「ありつけたかね?」
「…………」
忠夫は黙り込み、柾屋の親父を睨みつけるように見た。女の話になると兄は荒れる。いつか夜の町で漁船員たちと喧嘩をして、鼻血を流して帰ってきたことがあった。それも女のことが原因だと母が姉たちと話していた。克夫は、物置小屋で兄の首に巻きついた白い腕のことを思い浮かべた。
「親父さん、おかしなこと聞かないでくださいよ」いつの間に茶の間へ戻ったのか、母が諌めた。柾屋の親父は下品な笑い声をあげた。
春がきて雪が融けると、父は幌を掛けたリヤカーで足駄の巡回歯入れを始めた。靴の時代に入り始めて、下駄はしだいに影を薄くしつつあったが、貧しい人々はちびた下駄や足駄を履いていたし、この出張歯入れはそれらの人々に受け入れられた。父はこの方法で日銭を稼いだ。
海辺の高島町へ巡回するには山を一つ越えていかなければならない。リヤカーが重いので忠夫が手伝うことになり、克夫もついていった。なだらかだが長い坂だった。父が前を挽き、忠夫と克夫が後ろを押した。といっても克夫のほうはただ手を添えているだけで、何の役にも立っていなかったが。登っていくにつれて、小樽港が行く手の松林越しに現われ、やがて眼下に展望できた。
頂上に至ると、父は、あとはわし一人で挽いていくから、と言った。すると忠夫は前のほうへ出て、話があるんだ、と言い、克夫を振り向いて、おまえは帰れ、と命じた。
克夫はしぶしぶリヤカーから離れ、しかし、見知らぬ町へ行ってみたくて距離を隔てながらもついていった。
「父さん、おれ……」と忠夫が話し始めた。松林に当たる風が笛のように鳴って、父と兄の会話を遮ったり、ときおり耳元に運んだりした。
「……時間が解決するさ。じっと耐えてろ」父は忠夫と並んでリヤカーを引きながら力を込めて言った。
「だっておれ、辛くなるだけだ。いっそ町を出て行こうかと……」兄の声は呻いているみたいだった。
「出て行くったって、どこへ行く」
「叔父貴に相談してみようと思う。叔父貴なら幅広くやってるし、前に会ったとき、何でも相談に来いと言ってた。おれに向いた仕事をみつけてもらうさ」
「気にいらねえな。あいつは山師気が多くていけねえ」
「だけど父さん、今の世の中、正義だけでは生きていけないよ」
「いや、地道な仕事をコツコツ続けるのがいいんだ。そのうち安定する」
「おれ、もうそんな仕事はできない気がする」
「…………」
父の声は聞こえなかった。よく晴れて風の吹いてくる辺りが
それから忠夫は家を出た。ほどなく札幌で土建屋をやっている叔父から、父あてに葉書が届いた。父は一読するなり、ふん、と言ってそれを放り出した。葉書は果たし状のような乱暴な筆字で、克夫にはちっとも読めなかった。あとで芳枝が判読したところによると、独り立ちできるよう面倒をみるから任せてほしい、と書いてあるとのことだった。
マイケル軍曹は、その後アメリカへ帰国した。房枝が夜、泣いていたことがあるが、二人の関係がどんなだったのかは芳枝にもわからなかった。房枝は寡黙になり、いままで何でも話していた芳枝にすら心を閉ざしているらしかった。
下駄の需要は確実に減っていた。お金のことで両親はしょっちゅう喧嘩をするようになった。目先の効く下駄屋は、靴も仕入れて履物なら何でも扱うように経営を変えていた。しかし職人気質の父はそんな融通性や商才を持ち合わせていなかった。老いの一徹と孤独が身につき始めていた。
克夫と芳枝は商工会議所の階段を登った。単調な階段が方向転換するたびに眼の前に現われ、次第に足がしびれ、心臓が早鐘を打つようだった。やっと三階に至って、廊下に看板が出ていたので会場はすぐわかった。壁にずらり大人の絵が並び、そのどれもが港を描いていた。児童の部の展示は端のほうだった。
克夫の描いた絵が〈開港五十周年記念美術展〉で金賞を受けた、と教師から知らされたとき、何のことかわからなかった。出品したことを忘れていたのだ。「児童の部で一番なんだぞ。クレヨンと墨の組み合わせがよかったんだなあ」と言われ、やっと花火の絵を描いたことを思い出した。
「あった、あった」と先を行く芳枝が叫んだ。あちこちで絵を見ている人がいるのに恥ずかしいほど大きな声だった。窓際のパネルの中央に克夫の絵があった。絵の右上に金紙が貼ってある。
――夜空にとてつもない菊の大輪が開き、そのまわりに
「ここにいるのは誰さ」と芳枝は絵のほうへ首を伸ばして聞いた。
花火を見上げる群衆の顔は、顎が上になり頭髪が下になっている。逆さの顔が幾つも、まるでジャガイモの山のように並んでいる。それらの人々のうち、丁寧に描いた人物が二人いた。一人は髪を七三に分けて眉毛をきりりと引き、もう一人は坊主頭で口を可愛く開けた。
「兄さんとぼく」と克夫は答えた。
「やっぱり、いく描いてあるもんね」
実際に花火を見に行ったのは、兄ではなく鉄郎といっしょだった。戦後、初めて許可になった花火大会なので物凄い人出になった。人混みのなかを克夫ははぐれないように鉄郎の服の端をつかんで歩き、やっと波止場に近い公園の芝生の上に腰かけることができたのだった。
やがて港内の海面の辺りから赤黒い玉が昇ったかと思うと、光が一瞬の間に信じられない大きさに弾け、同時に夜空を震わせる轟音が鳴り渡った。克夫の頭はいきなり殴られたように空っぽになった。それから闇の大絵巻が始まった。放射の円を三度も立て続けに開くもの、長く尾を引いて頭に触れそうなところまで枝垂れるもの、広がったあとお互いに反対方向へ飛び散るもの――それらは克夫にこれまでにない興奮をもたらした。
最大の呼びもの、スターマインが打ち上げられると、大気はおろか坐っている地面まで揺さぶり、克夫を動けなくした。
こんなもの戦争に比べたら屁みたいなもんだ、というかもしれない。おまえ、まさかびくついてるんじゃあるまいな、男ならしっかりしろ、というかもしれない。冗談じゃない、と克夫は叫びたい気持ちだった。花火の爆発力が克夫の心の底に眠っていた荒々しいものを呼び覚ました感じだった。ぼくは兄さんみたいに腕力もないし、死に物狂いになったこともないけど、兄さんに見えない物が見えるんだから。それを描くためなら命なんかいらないんだから――彼は両手を握り締め、弾けては潔く闇に消えていくものを見続けた。……
「この犬はなあに?」
芳枝は画面の端のほうに描かれた黒い犬を指差した。
「バツだよ」と克夫は言った。
「バツは尻尾がなかったしょ。この犬、こんなに大きな尻尾があるわ。私は泥棒犬……」芳枝はそこで声をひそめた。「あの食べちまった犬かと思ったわ」
「バツだってば。尾をつけてやったんだ」
「……そうか、恰好わるいもんね。わかるよその気持ち」芳枝は二度ほどうなずいた。
「違うんだ。こいつはね、何ちゅうか……」
克夫は口ごもった。それを言葉にするとバツへの思いが消えてしまいそうだった。バツは嬉しいと尾を振ろうとした。いや、見えない尾を振っていた。彼はそれを描いてやったのだ。絵のなかのバツは思いきり尾を振り立て、花火に向かって吠えていた。
「何が違うのさ」
「…………」
急に芳枝の声が遠のき、周囲が暗くなってきた。長い階段を登ってきたせいで、貧血が起きたのかもしれなかった。克夫はしゃがみ込もうとした。耳元でヒューッと音がして、魂が抜けていくような気がした。
底本 : 『闇の力』 構想社 一九九六年六月二五日初版発行
・作品ファイルは、私的使用の範囲内において複製することができます。この範囲を越える複製、再配布および商行為を伴うものについては、著者へご連絡ください。