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飛び出しナイフ

佐 野 良 二

 約束した喫茶店に入った。陽射しの強い通りを歩いてきたので、暗い店内にすぐには眼が慣れなかった。二、三人いる客に視線を凝らし、由里はまだ来ていないとわかった。どこに坐ろうかと思ったとき、
「恒夫ちゃんじゃない」と声がした。
 右手のボックスに若い女が微笑んでいる。ある面影が鼓動を伴いながら浮かびあがってきた。しかし、とっさに確信がもてなかった。
「律子さん……、ですか」と尋ねた。
「やっぱり。しばらくねえ、何年ぶりかしら」
 恒夫は頭を下げた。律子は同級生、溝口功の姉だった。功と恒夫とはかつて親友だったが、この姉がいたから三日にあげず溝口家を訪問したといえるだろう。ときめきが甦(よみがえ)り、胸の奥がじんじん音を立ててくる。
「誰かと待ち合わせ?」
「そうですけど、別に大した奴じゃない」
「私も、大した奴じゃないのよ」と彼女は白い歯を見せた。「じゃあ、こっちでちょっと話さない」
 恒夫は少し迷った末、通路を挟んだ律子の隣のボックスに座を占めた。律子は尻を軸に回転して、恒夫のほうを向いた。
「すっかり大人びちゃって、いまどうしてるの」
「就職しました、印刷会社に」
「そう、男の人って仕事を持つと大人になるのねえ」
 律子はしげしげと恒夫を見つめた。その真っすぐな眼差しが眩(まぶ)しかった。恒夫は二十二歳、彼女は彼より二つ年上だった。さっき見間違えそうになったくらい、あの頃よりずっと女らしさが増している。看護婦をしているせいか質素な髪型で、まるでおばあさんのように後ろで丸めているのが、かえって項(うなじ)の線を若々しく見せていた。
「印刷会社って、事務のほうなの」
「いいえ、文選工です。活字拾い」
「……そういえば恒夫ちゃん国語が得意だったものね、向いてる仕事見つけたのね」
「いや、なりたくてなったんじゃない。口きいてくれた人がいたもんだから」
 ウエイターがコーヒーを運んできた。恒夫はカップをとろうと手をあげかけ、止めてしまった。インクの染みた汚い手を恥じたのだ。仕事を終えたあと、いくら石鹸をつけて洗っても、油性の黒い色が肌理(きめ)や爪の先にこびりついてとれない。いつも印刷工とわかる手をしている。
 コーヒーの匂いに混じって、かすかに消毒用のクレゾール液の匂いが鼻孔をくすぐった。懐かしかった。あの当時、律子はすでに看護学校へ通っていて、傍らにくるとこの匂いがした。それを恒夫は香水のように、いや、もっと清潔で無垢なものと感じていた。恒夫が見かける律子はいつも家事を手伝っていて、遊んでばかりいる功を叱ったものだった。
「それで、功はいまどうしてます」
 触れないほうがいいのかもしれなかったが、律子との共通の話題はそこから始まるしかない気がした。
「それがねえ」と彼女は顔を曇らせた。「あれっきし、まだ消息がつかめないの」
「…………」
 功は高校を卒業したあと、札幌へ出て写真関係の仕事に就いた。それがたった数カ月で行方をくらました。その後、薄野(すすきの)でバーテンをやっているという噂を聞いたが、それも定かではなかった。
「弟は自分勝手で、わがままがすぎるのよ」
「癇癪(かんしゃく)の虫が抑えられないんですよ。素直でないところはおれに似てるけど、おれよりずっと真っすぐなものを持っていた」
「その尖ったもののために堪え性がないの。父が亡くなってから困った性格になっちまって。その点、恒夫ちゃんは偉いわ、しっかり更生して……あら」
 律子はそこで口に手を当て、首をすくめた。
「言いすぎちゃったかな、ごめんなさい」
「かまいませんよ。おれだって不満だらけだけど、少し我慢することを覚えたっちゅうか、諦めたっちゅうか……」
「そうやって自分を抑えることが大切なのよ、功はそれができないんだから。やはり恒夫ちゃんはずーっと大人だわ」
「そんなことないです。いつ投げ出すかわからない気もしてるんですから」
 そう言って恒夫はコーヒーを飲んだ。一度手を晒(さら)してしまうと、あとは何でもなかった。律子も気づかないふうだった。
「名高生に取り巻かれて殴られたことがあったんです、祭りの夜に。こっちは二人だし、向こうは四、五人いたから好きなようにいたぶられて……」
「…………」
「それからですよ、功が変わったのは。どこからか飛び出しナイフを手に入れてきて、今度やられたら刺し違えてやると言ってた。よっぽど悔しかったんですね。おれ、奴のそういう負けん気に惹(ひ)かれたんです」
「強がっていたのよ。ほんとは弱虫なのに、それを他人に見破られたくなかったんだわ。どうでもいいことに意地を張って、かえって禍(わざわい)を招いたの」
「いや、おれたちにはその意地が大事なことだった。反発することしか考えてなかったんですから……」
 あの頃、なにもかも気に障(さわ)ってしようがなかった。功と一緒に世間をけなしまくっていると気分がよかった。ときには無力を知ってひどく落ち込んだりもしたが、そういうときは功に鼓舞された。いざとなれば逃げ出すのに、自分をまともにぶつかる人間だと信じていた。その姿勢を変えたくないと思っていた。就職の世話をしてくれた教師に、世間に合わせろ、と言われ、いまは努めてそうするように心がけている……。
 功が不良グループとの喧嘩で傷害事件を起こしたとき、彼はそのナイフを恒夫にくれた。そして学校には川へ捨てたと言い張った。校長のはからいで他市の私立高校へ転校と決まり、恒夫はそのときナイフを返そうとした。
「あっちの高校で必要だべ」
「おれはまた手に入れるさ。おまえ、一人になったら、自分で自分を守らなくてはならないんだぞ」
 功は恒夫の手にナイフを押し戻して言った。
「こいつはちらちら人前で見せるもんでない。ふだん隠し持って知らん顔してるんだ。どうにも勝ち目のない、絶体絶命のときに使え」
 恒夫はナイフの感触を思い起こした。ロックを外し、スイッチを押すと瞬時に刃が飛び出す仕掛けだった。ビーンという微かな振動が掌(てのひら)に伝わると心が澄んだ。不純なものが消え失せ、緊張が全身にみなぎる気がしたものだ。それからいつも学生服の下にそれを忍ばせていた。幸いなことにそれを使う事態は起きなかった。あのナイフはどこへいってしまっただろう……。
 功の転校のため彼との付き合いはそれで終わった。しかし恒夫にとって、ハイティーン時代に得た数少ない友人の一人が功だった。そして異性で印象に残っている人といえば、律子しかいなかった。父親の死後、健気な決意を感じさせた彼女の、思いつめたような眼つきやふっと微笑む表情に心を揺さぶられた。久しぶりに会って、恒夫が大人になったというが、もし自分の意思を抑えられるのが大人だとするならば、おれはあのときから大人だったのだ、と思う。胸の奥にたぎる思いを決して口にはしなかったのだから。
 コーヒーを飲む律子の唇を見ながら、恒夫は唐突に、
「律子さんこそ見違えるほど変わって、別人かと思いました」と言った。
「あら、それどういう意味」
「いや、あの……」
 恒夫は眼を自分のカップに落とした。彼女の顔を正視できなかった。
 華やいだ声がして、若い女が数人入ってきた。やあ律子、誰と会ってるの、などと遠慮がない。看護婦仲間なのか、彼女たちが近づくと、皆、クレゾール液の匂いを発した。失礼よ、弟の親友だった人、と律子が説明している。恒夫は身の置きどころがない感じで、入口を見た。幸い由里の姿が見えた。恒夫は立ちあがった。律子の視線が気になったが、じゃあ、と言って振り返らないで出た。

 恒夫が勤めている〈泉印刷所〉は、従業員三十人の、この地方都市では中堅企業だった。社長は二代目で、初代がガリ版刷りから築いた活版の小会社を、才腕をふるって経営拡大した。いち早く写植機も導入し、これによって簡便にいろいろな印刷ができるようになった。それでも受注はまだまだ活版が多く、恒夫たちが携わる文選、植字、印刷の工程が仕事の主流を占めていた。
 職場で恒夫は真面目を通していた。ささいな非行歴のために、初めは監視されているような毎日だった。だが、もともと読書好きでベテラン職工が舌を巻くくらい語学力があり、何にでも集中してしまう性分なので、与えられた仕事を確実にこなし、いつか工場(こうば)長から一目おかれる存在になっていた。左手に原稿と箱を持ち、右手でウマと呼ばれる膨大な活字のケース台から一本一本拾い出す。その仕事を恒夫は好きだった。熱中しているとわずらわしいことが頭のなかから消え去り、われを忘れた。それが快かった。
 昼近くに、事務室から由里が恒夫を呼びにきた。
「社長が呼んでるわ」
「おれにかい、ほんとに……。いったい何だ」
「いい話だって」と由里は意味あり気な笑いを浮かべた。そして、
「今度は日本の映画がいい、字幕読むの面倒だもん」とつけ加えた。
 先日、いっしょに観た洋画のことだった。それに返事をせず、恒夫は原稿と箱を置いて、事務室へ向かった。
 社長は上機嫌な顔つきをしていた。
「君の仕事ぶりを見てきたが、なかなか几帳面だし、責任感もある。よくやってくれて助かっているよ。印刷工場になくてはならん人材なんだが……」
 煙草に火をつけ一服喫ってから、意外なことを言った。
「どうだろう、今度、外交のほうをやってみないか」
「……え、外交って」
「外回りだよ、印刷物の注文をもらってくる仕事だ。手も汚れないし、うるさい輪転機の音からも解放されるぞ」
「そんな、おれ、人付き合いの上手なほうでないし……」
 予想もしない話に恒夫は口ごもった。すると専務が説き伏せようとした。いつも追従笑いをする、恒夫の嫌いなタイプだった。
「なあに、市役所とか教育委員会とか回って注文を集めてくるだけだ。愛想よくさえしてたらいい、楽な仕事だよ」
「…………」
「藪から棒で面食らったかもしれん。まあ、いま急にというわけではないから、考えておいてくれないか」
 社長はさらに、実績を上げれば歩合をつけてやってもいい、君は見込みのある男だと前から睨んでいた、とまで言った。由里が恒夫のほうを見て、嬉しそうな表情をした。しかし、恒夫は他人の機嫌をとるような仕事は嫌だった。こつこつやる仕事がいい、活字拾いをしているのが性に合っている、と思った。それで不満はなかった。
 事務室を出て工場の騒音のなかへ戻ると、輪転機を回している工場長が彼を一瞥した。それは何か咎(とが)めてでもいるみたいな眼つきだった。
 昼休みはみんな静養室で食事をとる。妻帯者は弁当持ちが多く、独身者はたいていが店屋物をとっていた。植字工の青木が誰かの噂話を始めた。いつものことだったので、恒夫の耳は聞いていないも同然だった。ところが青木は恒夫に話しかけてきた。
「なあ、おまえも知ってるべ、稲垣農機の長男坊……」
「知らないよ」と恒夫はラーメンをすすりながら応えた。
「おまえっ家(ち)も同じ町内だべ。ほら、ときどき犬の運動をさせとる、青っちろい陰気そうな奴よ」
 同じ町内でも通りが違うから付き合いはなかった。ただ、そう言われれば通勤のとき、堤防の辺りで犬を連れている男を見たことがあるように思われた。
「その人がどうかしたの」
「だから、そいつが結婚するんだって」
「…………」
 恒夫は丼の汁を飲んでいた。
「おまえは話にならねえ」
 青木は吐き捨てるように言って、ほかの仲間のほうを向いた。恒夫には何の関心もないことだった。印刷の仕事は嫌いでないが、こんな益もない噂しかしない仲間たちにはうんざりする。
「三十半ばで十も年下の女と一緒になるんだぞ、おれなんかにゃあたまんねえ話だぜ」
 みんな笑った。青木はもう四十に手がとどくが、まだ独身だった。
「それになかなかの美形ときてるんだ。市立病院の看護婦をしてる女でな、この稲垣の伜が何たらいう胃の病気で入院したとき世話になったらしい。それで一目惚れしたっちゅうんだ」
「で、病室でやったっちゅうんでないべな」
 仲間の一人が茶々を入れた。
「そこまではせんかったベ、なんせ初なお坊っちゃまだからな。退院したあと、優しい彼女が忘れられんくて親に話したんだと、そしたら、農機具修理の仕事を請け負わせている男の親戚筋の女だった。あとは何がなんでも押しまくった。頼まれた男も稲垣農機には世話になってるから、はっちゃきこいてまとめたんだと」
「青木さん、ずいぶんくわしいんでないの」とまた誰かが言った。
「だって、稲垣農機の婆ちゃんがうちの婆ちゃんと仲良しだもんだから、稲垣ん家のことは手にとるようにわかっちまうのよ」
「いい女だって、名前なんちゅうんだい」
「溝口っちゅう。溝口鉄工所の娘だよ、おまえら知らんべな、昔、大きくやってた」
 聞くともなしに聞いていた恒夫は、わが耳を疑った。
「……その人、溝口律子っていう名かい」と声を出していた。
 青木は一瞬あっけにとられた顔になり、
「そうよ、溝口律子って言ったっけ。おまえ、男のほうは知らねえのに女のほうはくわしいじゃねえか」と言った。
「……式はいつなの」と恒夫は唾を飲み込んで聞いた。
「この秋らしい。なんだ、知り合いなのか」
 恒夫は、同級生の姉だ、と告げた。
「そうだったのか。なあ、なかなかいい女だよな」
 青木は恒夫に同意を求めた。彼はうなずきながら、肺の気胞が萎(しぼ)んでいくような思いにとらわれた。
「ほう、恒夫が太鼓判を押したぞ」
「だけんど、ただいい女っちゅうだけじゃわからん、どんないい女か話してくれや」
 仲間たちは下びた笑いを浮かべながら、女の品定めを促した。
「そうさな、なんせかんせ、いい女だって話だ」と青木はため息をついた。
「なんだ、見たことないのかい」
「いや、一度、街で見たさ」
「で、どうだったの」
「そうさな、楚々とした風情のある女だな」
「楚々……」
「うちの文選工で楚々の字を知らねえ奴はいないべな」
「おれは知らねえ、オソソなら知ってるけんど」
 どっと爆笑が沸いた。恒夫の頭は混濁した。この前、喫茶店で会ったのは、お祝いの打ち合わせでもあったのだろうか。それにしても、あんなに馴(な)れなれしく話しかけてくるなんて、律子さんもあんまりだ、と思った。

 母親から、鴨居に釘を一本打ってくれ、と言われて、恒夫はいうとおりにした。物置きに金槌を取りに行って、道具箱がわりになっている古い机の引き出しを開けたときは何とも思わなかったのに、終わって金槌を戻すとき、急に過去へタイムスリップする気持ちになった。その引き出しの奥を探ったら、果してあの飛び出しナイフが出てきた。
 柄に嵌(は)め込まれている安っぽいイミテーションの瑪瑙(めのう)は、すでに色が褪せている。彼は掌の向こうへ刃先が出るようにして、ロックを外しスイッチを押してみた。刃は出なかった。机の縁に叩きつけたりして、繰り返し押したが同じだった。
 ミシン油をスイッチや刃の間にたっぷり差し、柄も油を含ませたボロ布で拭いた。それからまたスイッチを押した。気が抜けるほどの間があってから、刃は出てきた。しかし、魚の形に似た刃先は光を発せず、黴(かび)のような茶色の錆に蝕まれていた。そこにも油を塗ってみたが、かえって深い茶色になるばかりだった。刃を真っすぐ向けて眼を凝らすと、かなり鈍磨しているのが見てとれた。
 そのまま放り出せない気がしてきて、砥石(といし)を何種類か持ち出し、台所の流しに運んだ。砥石は建具職人だった父親が生前使っていたもので、どれも擦り減ったり欠けたりしている。その比較的平らな部分を選んで研ぎ始めた。水を何度もかけ入念に研いだ。
 そこへ母親がきて覗き込み、
「そんなもの研いで……、はんかくさい真似するなや」と諌(いさ)めた。
「放っといてくれ」と恒夫は答えた。
 しばらくして、母親はまたやってきた。
「そんなものより、包丁を研いでおくれ、どれも切れないんだから」
 恒夫は返事をせず、黙々と研ぎ続けた。上半身を前後に揺すって力を込めると、身内にリズムが起きて、静かな興奮が沸いてくるようだった。やがて刃先に鈍っている箇所がなくなった。新聞紙を持ってきてサーッと引いてみると、真っすぐ二つに裂けた。
 ナイフは甦った。刃は恒夫の顔を映すほど光沢を放った。注入した油もバネの内部まで染み込んだらしく、スイッチを押すと、刃先が一閃して飛び出し、軽い振動が掌にきた。これだ、これだったんだ、と恒夫は思った。功の顔が浮かび、それに律子の顔が重なった。すると沸き立った気持ちは急に哀しみを帯びた。

 オートバイで山道を疾走した。空はよく晴れていて、風に草の青臭さが感じられた。地形を先々に見きわめ、そこへ車体ごと体を突っ込んで行く。時々の判断は瞬時に後方へ飛び去った。意思を緊張させながら、体がリラックスしているのが爽快だった。
 森を駆け抜けると畑の畝(うね)が続く小高い丘になった。頂上をめざして畑中道を登る。登るにつれて、丘の稜線から迫り上がるように市立病院のクリーム色の建物が現われた。来てはいけないところに来てしまった、という気持ちが起きた。あの整然と並ぶたくさんの窓のどこかに律子がいる。彼女はほかの男と結婚しようとしているのだ……。
 信号機のところで停車すると、風が止まり、照りつける太陽を感じた。病院の裏門から出てくる数人の人影がある。目端にそれを見た恒夫は、はっとした。なかに律子がいたのだ。恒夫は通り過ぎようと思った。信号機が青に変わる前にスロットルを一度ふかし、二度目で発進した。
 恒夫を呼ぶ声が聞こえた気がした。彼は信号機の下を突っきって行ったが、間もなく抗しきれなくなってブレーキを踏み、振り返った。律子は歩道まで走ってきて、こっちを見て立ち止まった。恒夫はオートバイを傾げ、右足を軸にUターンした。
 律子は、肩にナップザックみたいな袋を担いでいた。腰から足首までぴったりのジーンズを履いているので、体の線がはっきりわかった。大息をついていて、白いブラウスの胸が上下した。
「かっこいいわね、買ったの」
「いや、友だちの借りたんです」
「そう、一人で走ってるの」
「…………」
「彼女は乗せないの」
「彼女なんかいないです」
「この前の人は」
「そんなんじゃない……」と恒夫は怒ったような口調になった。「それより律子さん、こんな時間にどうしたんです」
「夜勤明けなの」
「そうか、お疲れさん」
 律子はじっと恒夫の腰の辺りを見ていたが、やがて独り言のように、
「私、乗せてほしいな」と言った。
 ……そんなこと言っていいのか、婚約したくせに、おれが知らないと思っているのか、と恒夫は心のなかでなじる気持ちだった。だが、言葉は気持ちに反していた。
「いいよ、送ってあげる」
「でも、おっかなくない。バイクに乗せてもらったことないの」
「ちゃんと掴まってたら大丈夫さ」
 恒夫が掌でサドルの後ろを叩くと、律子は体を近づけてきて足をあげ、そこへ跨がった。少し車体が沈んだ。律子の体が自分の体に密着している、その意識で彼は身が固くなるようだった。
「どこへ掴まるの」
「ここ」
 恒夫は首をねじって、サドルにあるベルトを手で示した。声が上ずった。律子は袋を腕の間に挟んで、きちんと乗ったようだった。
「溝口鉄工所でいいんでしょ」
「違うの、いま私一人で住んでるから」
「じゃあ、どっちへ行けばいい」
「真っすぐ行って、それから説明するわ」
 恒夫は静かに発進し、しだいに速度をあげていった。エンジンの音が高まった。
「飛ばさないでよ、なんだか安定しなくて……」
「ちゃんと掴まってれば大丈夫だって」
 律子の住まいを聞き、恒夫は街なかを避けて天塩川の堤防を選んだ。そこはあまり人通りのないコースだった。堤防に上がるカーブでオートバイが大きく傾くと、律子は大げさに悲鳴をあげ、それをしおに恒夫の体にしがみついた。彼女の胸が背に押しつけられるのを感じて、彼は逸(はや)った。スピードをあげると彼女の両腕にいっそう力が入り、二人は一体になって風のなかを疾駆した。
 後ろで律子が恒夫の耳に口を近づけるようにして何か言った。
「なんだってえ!」
 エンジンの音と振動で声が聞きとれなかった。どうせ飛ばさないでくれと言っているのだと思ったが、気分が高ぶっていた恒夫はスピードを緩めなかった。めざす橋が見えた。そこを曲がるために速度を落とすと、律子の声がはっきり聞こえた。
「このまま、ずーっと走っていきたい……」
 いったい彼女は何を考えているのだろう。青木さんが言っていたことは根も葉もない嘘なのだろうか。それとも彼女はおれの気持ちを弄(もてあそ)んでいるのだろうか……。恒夫は顔を後ろにねじりながら、彼女を打つ思いで言った。
「こんなところ、誰かさんに見られたら困るんじゃないですか」
 律子は反応を示さなかった。しかし、黙っていることが心の動揺を表わしていると思えた。橋を渡ると、そこ右へ、と短く言った。なだらかな坂を下りたところに彼女のアパートはあった。
「恒夫ちゃん、誰に聞いたの」とオートバイから下りて、律子は尋ねた。
「誰だっていいでしょう」とチェンジペダルを踏みながら、恒夫は答えた。
「上がっていかない。冷たいサイダーご馳走してあげるから」
「…………」
「ね、聞いてもらいたいことがあるの……」
 そう言い残して、律子は建物の端にある階段を昇って行った。恒夫は階段の下にオートバイを入れ、それからあとを追った。近くに広場でもあるのか、子供たちの騒ぐ声が聞こえた。楡の大木の枝がアパートの屋根まで覆いかぶさっていて、黒い影をつくっていた。二階の回廊に並ぶドアの一つが少し開いている。そのノブに手をかけて、恒夫はすばやく中へ入った。
 律子の部屋は一間らしかった。大した家具もなかった。女らしいものといえば、茶箪笥の上に置いてある藤娘の人形くらいだった。
「まわりから固められてきて、どうしようもなくなったの」
 彼女は不意にそう言うと、卓袱台(ちゃぶだい)にコップを二個並べ、冷蔵庫からサイダーの瓶を出して栓を抜いた。泡立つコップを恒夫に差し出し、もう一個を口に運んだ。
「でも、いい人に巡り逢えたんなら、よかったじゃないですか」
 コップを手にして恒夫は言った。強張った声になったが、祝いの言葉を言うべきと思った。
「おめでとうございます」とおどけて乾杯の仕草をした。
「ありがとう」
 律子も乾杯の恰好をしたが、コップの中は空だった。
「そうね、おとなしくて優しい人だから、これでよかったって思うんだけど、何だか寂しい気もするの」
「…………」
 深い意味は恒夫にはわからなかった。少し沈黙があった。
「ときどきこの町を出たいって思うの。でも、父が亡くなってから鉄工所の引き渡しやら、借金の返済やら、それに母さんも伯父の世話になってるし、しがらみから抜け出せないって諦めてしまう。仕方ないわよね、女って……」
 恒夫はだんだん胸苦しくなってきた。おれといっしょに出て行こう、と誘いたい。しかし、眩しいほど淑(しと)やかなこの女に対して、武骨な自分がそんな科白(せりふ)を言えるわけがないと思った。
「……深夜勤務って、夕べは寝てないんですか」と彼はかなりずれた質問をした。
「そうよ」
「それじゃ、これから寝るんですか」
「ええ、カーテン全部引いて、真っ暗にして寝るの」
「じゃあ、おれ、帰ります」
「そう……。ごめんなさい、足止めしちゃって」
 恒夫が立つと律子も立った。そして切羽づまった声で、
「恒夫ちゃん」と呼んだ。
 その声に恒夫のロックしているものが外れたようだった。
「おれ、律子さんが好きだった。……でも、もういいです。幸せになってください」
 律子の顔がみるみる歪み、眼に涙があふれた。恒夫は見境がなくなって律子を抱き締めた。彼女は抱かれるままにさせていたが、やがて肘を張って拒んだ。だが、恒夫の腕を解いたのは玄関に鍵を掛け、窓のカーテンを引くためだった。部屋が暗くなった。顔に息がかかった。律子の唇はサイダーの味が残っていた。ブラウスのボタンを外すと弾む乳房があった。ジーンズの下の太腿は熱いくらいだった。恒夫のぎこちない動きを律子が補うようにしたので、彼はたちまち激した。
 まだ恒夫にしがみついている律子を愛しく思いながら、陶然として天井を眺めた。そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。二人は身を固くし、息をひそめた。ノックは二回ずつ何度か繰り返され、それから人の気配は去っていった。稲垣さんかな、と恒夫は小声で言った。ただの物売りよ、きっと、と律子はかすれた声で言った。

 恒夫は律子の体が忘れられず、またアパートを訪ねた。人目につかないよう夜に行ってみたが、そんなときに限って不在だった。意地になって一時間おきに出かけたりした。夜勤なのか、何時になっても窓に明かりはなかった。
 運よく電灯が点いている夜にぶつかった。嬉しさが込みあげ部屋の前まで行ったとき、ふと疑念が湧いた。そこでノックをせず、ほんの少しドアを開けて覗くと、案の定、玄関に男物の靴がある。部屋のほうから男の低い声が聞こえ、律子の笑い声が混じった。恒夫はドアをそっと閉め、忍び足で退散した。家へ帰り、布団に入ってからも、律子が稲垣と重なっている姿が眼裏に浮かび、妄想は果てしなく彼を悩ました。
 青木の話では、稲垣は大学を出たあと帰郷したが、あまり家業に熱心ではないらしい。父親が利にさとく、農作業の急速な機械化に伴う需要によって、稲垣農機はここ数年のうちに財をなした。父親が引退すればその跡を継ぐわけで、安定した道が開けている。その生まれつき恵まれているということに、恒夫は反感を持った。
 昼休み、恒夫は近くの赤電話から市立病院の律子を呼び出した。律子は、あら恒夫ちゃん、と意外に平静な声だった。当たり障りのないことを言っているのは近くに同僚がいるからだろうか。間もなく小声になって、あとで電話するから、と言った。恒夫は拒めなくなって、そのまま受話器を置いた。
 印刷所へ戻っても落ちつかなかった。いつものように戸外へ出ず、工場の窓からバレーボールに興じる仲間たちを見ていると、事務室から由里が電話だと告げた。
「親戚の水口(ヽヽ)さんだって。女の人だよ」
「え……」
 恒夫が受話器を耳に当てると、やはり律子だった。
「ごめんね、まわり大丈夫……」
「ええ」とだけ恒夫は言った。
 彼女は囁(ささや)くように、今度の土曜の夜、バイクが借りられるかしら、と聞いてきた。恒夫は、何とかします、と請け合った。友だちのがだめなら自転車屋に借りる手もある。じゃあ、いっしょにどこか遠くへ行きましょう、ねえ、その日七時に東公園の池の端に来て、いい? 律子の声ははしゃいでいるみたいだった。わかりました、と恒夫は答えた。
 受話器を置くと、由里が恒夫の顔を見て怪訝(けげん)そうに言った。
「どうしたの、汗びっしょりよ」
 額から汗が流れていた。恒夫は取り繕う言葉を探したが、何も浮かばなかった。感づかれただろうか、そんなはずはない、そう思っても心臓がいつまでもどきどきした。
 ――土曜の夜、二人は海辺の旅館にいた。部屋の窓を開けると潮騒が聞こえ、潮の香りがした。闇のなかに海がゆったりうねっているのが感じられる。
「やっと二人きりになれたわね」
 律子は万歳の恰好で背伸びをした。恒夫が後ろから抱きすくめると、いやあ、だめよ、と言う声に媚があった。
「私、すっかり汗かいちゃったし、それに埃(ほこり)だらけよ」
「…………」
 恒夫も同様だった。町を発って二時間、オートバイに二人乗りして走り続けに走り、行き当たりばったりに、このオホーツク海に面した旅館へ入ったのだった。旅館は客の姿も少なく閑散としていたので、人目につかないことは好都合だった。それでも誰に出会うか知れたものではない。なおも二人は用心していた。
 恒夫はジャンパーを脱いで浴衣に着替え、先に入浴した。体中の垢を落とし、さらに石鹸をたっぷり塗りつけて擦った。インクの染みた手も指先まできれいにした。広い浴槽に足を投げ出して湯に浸かっていると、不意に、律子がいなくなっているのではないかという不安が込みあげた。急いで上がって部屋へ戻った。彼女は浴衣に着替えて、窓から暗い海を眺めていた。恒夫を振り返って微笑んだが、それはどこか哀しげだった。
 律子は手拭いをとって、じゃあ行ってくるわ、と出ていった。今夜会って以来、彼女は稲垣との結婚のことにも、恒夫とのことにも触れてこない。だから恒夫も、その話題を切り出せないのだった。功とくらべて同じ姉弟と思えないほど品行のよかった律子がなぜ恒夫に身を任せたのか、恒夫に弟への思いを重ねたのがあんな形になってしまったのか、それとも恒夫を心底好いていてくれたのか、何もわからなかった。しかし、わからないままに恒夫はとにかく律子の体が欲しかった。やがて上気した顔の律子が戻ってきた。濡れた髪や浴衣の端から出ている素足にまで、恒夫は逸った。
 その夜、誰に気兼ねもいらなかった。律子はまるで人が違ったように恒夫を求め、はしたないほどに体を擦りつけては呻いた。……私って不幸よ、不幸だわ。律子さん、はっきり気持ちを言おうよ、そうすれば稲垣さんもわかってくれるはずだ、おれ、君が好きだ、一緒に暮らしたい。恒夫ちゃん、私、その言葉信じていいの。いいさ、本気だもの、おれ、もう絶対離さないからね。ああ、うれしいわ、ほんとよ、ほんとに約束よ……。胸の内のありったけを言葉にして、まだ残る不安を振りきるように、恒夫は律子の熱い体にのめり込んでいった。

 数日後、律子はアパートを引き払っていた。恒夫はそれを知らず、毎夜のように通っていたのだ。ドアの前にいるのを隣の住人に見つけられ、そのことを知った。すぐ市立病院に電話してみると、溝口さん辞めましたよ、結婚するんで、という返事だった。受話器を持つ手が震えた。あんなに固い約束をしておきながら、どうしたというのだろう。
 あの夜、明け方まで話し合った。律子は親たちが決めた縁談を受け入れたものの、気持ちの奥に落ちないものがあった。稲垣と結婚すれば、平穏で恵まれた生活が約束されることは確かだったが、何か大事なものを永遠に失うような気もしていた。そんなとき恒夫と再会し、胸がきゅーんと痛くなった、と言った。心の底に潜んでいた思いが、追いつめられて噴き出したのだろうか。恒夫は、もう律子さんなしでは生きていけない、と言った。それは正直な気持ちだった。すると律子は両腕に力を込め、彼の耳元で断言したのだ。帰ったら母さんたちにはっきり言うわ、そして恒夫ちゃんにもらってもらう、と。あれはただの寝物語だったのか……。恒夫は居ても立ってもいられなくなった。
 きっと二人の関係を断つため、律子は溝口の家に監禁されたに違いないと思った。律子の父親が溶接作業中、ショベルカーのバケットに挟まれて死んだあと、自動車修理工場を持つ伯父が鉄工所を引き継ぎ、両方を経営している。稲垣との結婚をまとめたのはその伯父のやったことだった。恒夫はまた、その伯父と律子の母親との噂を耳にしたことがある。律子を救い出してこの町を出て行こう、彼女もそれを望んでいるはずだ。自分の係累も積み上げたものもすべて棄てるのだ……。その思いを反芻(はんすう)するうちに決意になった。
 恒夫は遅くなってから家を出た。月明かりの夜だった。胸に重くのしかかる圧迫感と高鳴る鼓動を堪えて通りを行く。〈溝口鉄工所〉は道路に面してガラス戸がずらり並ぶ作業場があり、構えも看板も以前のままだった。すでに人気(ひとけ)はなく、がらんとした仕事場に明かりが点いている。しかし恒夫は以前のように表口から入るわけにはいかない。何気ない振りをして家の前を通りすぎた。律子の部屋だった二階は、窓が閉まったままで明かりもなかった。
 家の外れまできて小路を折れ、裏へ回った。かつて知った間取りだった。台所を覗くと律子の母親が流しのところで何かやっていた。
「おばさん……」
 恒夫は裏口から小声で呼んだ。母親はこっちを見て驚き、それから廊下のほうを見た。向こうに律子がいるのだろうか。明らかに困惑の表情を隠せない様子で、あわてて外へ出てきた。
「お願いがあってきました」
 恒夫の言葉に応えず、手招きして家に隣接する資材置場へ入っていく。中は真っ暗だった。
「律子から聞きました」と母親の声が奥のほうから聞こえた。
「とんでもないことをしでかしちまって……、私は夜も寝られないです」
「…………」
 窓から射し込む月の光で母親の上半身が見えた。両手を握り締め、感情を抑えているようだった。
「恒夫ちゃん、あんたは功にもよくしてくれたし、いい人だと思ってますよ。でもね、今度のことは分別がなさすぎます。もっとも律子のほうが年上なんだから、責められるのはあの子のほうでしょうけど、こんなこと先方さんに知れたら取り返しがつかないわ」
「…………」
 その取り返しがつかないことを、彼は望んでやってきたのだ。
「伯父がかんかんになっちまって、それはもう大変だったの。私もここであんたに会うのは内緒よ。いったい恒夫ちゃん、何を考えてるの」
 声に棘(とげ)があったが、気持ちを開いてくれているようにも思えた。恒夫はその隙間に入り込もうとした。
「おばさん、律子さんをおれにください。あの人と一緒になりたいんです」
「…………」
「ご迷惑かけて、すまないと思ってます。でも遊びじゃない、おれ本気です。律子さんとなら何があったって我慢します。仕事も真面目にやります」
「恒夫ちゃん、あのね……」
 母親は一息ついてから言った。
「わかってほしいんだけど、こればっかりはしようがないの。もっと早く気づいていれば、たとえ年下だろうと私は反対しません。あんな娘に気持ちはありがたいです。でもね、話が決まったあとよ、もうどうしようもないの」
「そんなのないですよ、律子さんも約束してくれたんですから」
「そうじゃないのよ、律子は恒夫ちゃんとのことは過ちだったと認めたの。そのうえで稲垣さんとの結婚を選んだの。あんたとのことは私の胸に収めさせて、……なかったことにしてちょうだい、このとおりよ」
 母親は両手を合わせて拝むようにした。そのとき後ろで足音がして、
「誰かいるのか」との声とともに頭上の裸電球が灯った。
 闇はいきなり光に満たされた。律子の母親の眩しげな顔が現われ、同時に強張った表情に変わるのが見えた。恒夫は振り返った。大小さまざまな鉄材が雑然と並ぶ棚の横に、律子の伯父が立っていた。以前、二、三度会ったことがある。
「恒夫君か、いったい何しにきた」声は穏やかだったが、鋭く咎める調子があった。「功を不良に引っ張り込んで、まだ足りんくて今度は律子か。ゆるさんぞ」
 恒夫の頭に血がのぼり、体当たりする気持ちで言った。
「おれ、……律子さんをもらいたいと思ってきました」
「まだぬけぬけとそんなことを。もう話はついとるんだ、結納も入っとる。君がすることは顔を見せないことだよ」
「おれたち約束したんです。律子さんも縁談はなかったことにするって」
「何たわけたことを言っとる。律子がちゃんと自分の意思で決めたんだ、もうあとには戻らないよ」
「それじゃ、律子さんに会わせてください。あの人の口から直接聞きたい」
「律子はここにおらん」
「じゃあ、どこにいるんです」
「言う必要ないね。第一、そんなことができると思っとるのか」
 伯父は恒夫を威圧するように近づいてきた。上背のあるがっしりした体だった。
「こっちの事情も知らずに泥棒猫のようなことしやがって。君が律子に何をしてやれるっちゅうんだ。溝口の家のために何ができる。何の力もない癖して、一人前の口をきくな!」
 伯父の声は尻上がりに高くなった。母親が続けて哀願した。
「言葉がすぎるのは勘弁してよ。でも、どうか律子の気持ちをぐらつかせないで。律子の幸せを願うなら、どうかわかってやって。あんたはまだ若いし、もっといい娘さんが現われるわ。ね、お願い……」
 恒夫は伯父のほうへ向かった。伯父は恒夫がかかってくると思ったのか構える恰好をしたが、彼はその横を通って外へ出た。そのまま母屋の裏口から中へ入り、
「律子さん、どこにいるんです。出てきてください!」と叫んだ。
「待て、この野郎!」
 後ろからきた伯父が恒夫の肩を押さえた。それを振りほどいてまた叫んだ。
「律子さん、本心を言ってください。約束したじゃないですか、おれは……」
 言い終わらないうちに横っ面を張られ、恒夫はよろめいた。彼は振り返りざま、伯父に突進していった。再び顔面に衝撃を受けたが、彼の拳にも手応えがあった。伯父は尻もちをつくように土間に転がった。
「恒夫ちゃん、いけません、乱暴は……」と母親が怯(おび)えた顔つきで諌めた。
「律子さん! 出てきてください、律子さん!」
 恒夫はなおも家の奥に向かって呼び立てた。だが、階段も廊下もひっそりしたままだった。どこにいるんだ、律子さん。もう会ってくれないのか。この壁を破る方法はないか。いったいおれは何を信じたらいいんだ……。焦燥が募った。裏口の戸の横に太いしんばり棒がある。恒夫は、伯父と、彼を起こそうとしている母親との二人が血まみれで倒れている姿を想像した。痛いくらい拳を握り締めながら、その衝動に耐えた。

 律子が稲垣のもとに嫁いだあと、恒夫は街で彼女に会ったことがある。歩道を歩いていくと、通りの向こう側のバス停に立っていたのだ。律子も恒夫に気づき、口をあけ、縋(すが)るような眼をした。動揺が見られたのは一瞬だけで、表情はすぐ閉ざされた。しかし、見つめる眼の奥から波動のようなものを感じたのは彼の過剰な意識のせいだったろうか。律子は襟に毛皮のついたコートを着て、いかにも奥様然とした身なりだった。あの着飾った衣装の下に、おれの愛撫に応えた肉体がある……。それが今は、手の届かぬ遠い人だった。二人の間にバスがきて視界をさえぎった。再び発ったとき、律子の姿は消えていた。
 稲垣にも会ったことがある。オートバイで天塩川の堤防をぶっとばしたときだった。前方の草むらから犬を連れた男が現われた。稲垣だ、と恒夫は気づいた。それから近づくまで数秒とかからなかった。稲垣は犬の鎖を引いて道端に避けた。瞬時に恒夫はその横を通過した。恒夫は初めて間近に稲垣を見た。稲垣は恒夫を見ず、犬のほうに意識を向けていた。髪を長く伸ばした彫りの深い顔立ちだった。おとなしくて優しい人だから、と言った律子の言葉が浮かんだ。あの男が律子の体を好きにしている……。みぞおちの辺りが痛んだ。彼は思いきりスロットルをふかし、不機嫌を風にぶつけた。
 社長がいう外交への配置転換を恒夫は拒んだ。人の顔色を窺(うかが)うような仕事は向いていない、という理由だった。社長は、若い者が自分をタガに嵌めてどうなる、もっと器用に立ち回わらないと生きていけないぞ、と言い、専務は、せっかく抜擢してチャンスを与えてやろうとおっしゃってるのに、その態度はなんだ、と叱ったが、活字拾いが性に合ってるんです、と肯(がえ)んぜず、ついに上役の機嫌を損ねてしまった。
 ところが工場長や他の仲間はそんな恒夫を喝采した。以前から印刷部門は営業部門の言いなりにならなければならない仕組みにあり、そのため常々の不満が溜まっていた。恒夫の態度はそれへのあからさまな反抗と見え、彼らには日頃の鬱憤を晴らす出来事だった。もちろん恒夫は、印刷工場の仲間たちのためにやったわけではなかった。ただ何もかも面倒になっていたのだ。言い知れぬ虚無感にとらわれ、孤立することで気持ちを保っていたにすぎない。
 恒夫と律子のことは印刷所の誰にも知られなかった。恒夫の変化に事務室の由里は何かを感じたみたいだったが、それを言い出すことはしなかった。彼女はこのごろ恒夫から離れたがっていた。建設会社に勤め、クルマを持っている男と付き合い始めていたからだ。それでも恒夫は由里に対してもはや何の関心もなかった。
 恒夫はその後も何度か律子を見かけた。たいていはデパートやレストランの店内だった。夫といっしょのときもあったし、一人のときもあった。しかし、一人のときでも言葉を交わさなかった。もし喫茶店やスナックで顔を合わせたのなら、あるいは恨み言の一つも言ったかもしれない。そういう機会がないままに月日がたっていった。
 そのうち彼女の姿を見かけなくなった。青木の話では妊娠したらしい、とのことだった。夫である稲垣の子を身ごもるのは当然のことなのに、恒夫にはそれが生々しすぎる事実だった。やがて彼女が流産したとの噂を聞いた。退院したものの、その頃から気鬱に陥り、寝たり起きたりの状態だという。恒夫はもう半年以上も律子を見ていなかった。不思議なことに、彼女の顔形はしだいに薄れていくのに、交わったときの白い裸身はいよいよ鮮明さを増すかのようだった。

 秋が深まり、日が短くなった。印刷所からの帰り道、街はすでに青い薄暮に包まれた。西空の端だけが太陽の余光で薄い虹色を残している。
 恒夫は陸橋の下へ差しかかった。そこは周囲にくらべ夜のように暗い。前方のコンクリートの柱の影に人の気配を感じた。いや、人ではなく四つ足だった。こっちに向かってくると思う間もなく、眼の前に現われたシェパードが歯を剥き出し、激しく吠えついた。とっさに恒夫は左腕を前にして体をかばった。同時にその前腕に激痛が走った。食い千切ろうとするかのように犬は顎を左右に振る。怯えに身をすくめ、辛うじて引っ張る力に抗いながら、彼は弱気を払って反撃すべき手段を考えた。だが、舗装された道路には石もなかった。
 どれだけの時間が経っただろう。なす術もなく、獰猛(どうもう)ないたぶりに弄ばれる理不尽を頭のなかで怒り続けていた。突如、シェパードはその固い顎を解いた。そしてすばやく身を翻(ひるがえ)した。恒夫は路上にうずくまった。にわかに恐怖が突きあげてきた。這うように道端に向かったのは本能的な行為だったろう。石を求めていた。道端に大小数個の石ころが落ちていた。一番大きいのを右手で拾い、それを握り締めて立ちあがった。陸橋の下は闇にまぎれ、シェパードも人影も見えなかった。そのとき内腿が冷たいのに気づいた。彼は失禁していた。
 橋の階段を昇りながら石を捨て、歩道へ出た。ポケットからハンカチを取り出し、口と右手を使って左の上腕部をきつく縛った。先刻、シェパードが戻っていく直前に口笛が聞こえた、と思った。すると現像液のなかの印画紙みたいに、稲垣が犬を連れて歩く姿が浮かんできた。しかし、稲垣が連れていた犬は黒い雑種ではなかったろうか……。ついで彼は功にもらったナイフのことを思った。あの飛び出しナイフさえ持っていたら、この腕のすぐ下にきた犬の喉を掻き切ってやったのに。彼は右手で獣の急所を切り裂いた。それは舌打ちしたいほど虚しい動作だった……。
 明るい賑やかな通りへくると、左腕のジャンパーに血が滲んでいるのがわかった。擦れ違う人が驚いて身を避けていく。いまさらのように恒夫は腕の痛みに気づいたが、どこかが麻痺してしまったのか、その痛みが自分の肉体ではなく、遠いところにあるような、まるで律子が耐えている苦痛のように感じられた。




底本 : 『闇の力』構想社 一九九六年六月二五日初版発行

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