闇 の 力
佐 野 良 二
一、凍る川
大地は見渡すかぎり雪に覆われていた。足元をスコップで四角に切ってはひっくり返していく。そのたびに黒い土が現われ、湿った匂いが立ち昇る。地面のところどころに雑草の黄色い小さな芽が覗いていた。体が汗ばんできて、冷たい風がほてった頬に気持ちよかった。さっきひっくり返した雪の塊は、土の着いた部分が陽を吸って早くも融けはじめていた。遠くで自転車のベルが続けざまに鳴り、ぼくは手を休めてそっちのほうへ眼を凝らした。除雪車が通ったなりに道路が出ていて、防風林の角に自転車が見えた。体をゆすってペダルを踏んでくる姿に見覚えがあった。近づくにつれ、眼鏡をかけているのがわかった。やはり木崎だった。
「早いなあ、温床の雪割りか」木崎は自転車にブレーキをかけ、言い終わったとき道端に片足をついていた。
「うん。……で、どこへ行く?」ぼくはスコップを雪に突き立てて聞いた。
「おまえっ
彼とは中学生のときクラスが別だった。二人とも士別高校の定時制に入ることに決まって職員室へ呼ばれ、よろしくな、と言い合ったきりだった。がっしりした体格の上におとなしそうな四角い顔が載っている。背はぼくより少し高かった。
「そうか。よし、家に入るべ」
「仕事せや、じゃましたら叱られる」
「一服するところだったんだ。おれもゆっくり話したいと思ってたしよ」
ぼくが歩き出すと「ほんとにいいんか」と言いながらついてくる。ぼくの家は周囲に木もなく、雪のなかに剥き出しに建っていた。
玄関を入ると、父ちゃんが長靴を履いていた。木崎が頭を下げ、父ちゃんは坐ったまま返礼した。そして「邦夫、ちょっと吉井さんに行ってくっから」と言って出ていった。きっと
「上がれや」とぼくは上がり
「いいな、自分の机もってるなんて」木崎は茶の間の隅を見て言った。
「もうガタきてんだ、兄貴のお下がりよ」
「兄貴もいるんか」
「死んだけどな」
「……なんで」
「胃潰瘍がこじれて、血を吐いて死んださ。酒を飲みすぎたんだ」
「そうか、おまえっ家もついてねえんだなあ」
ストーブの傍らにあぐらをかいた木崎は、もっともらしい顔でうなずいてみせた。
――兄は飲み屋の女と仲よくなって、それを両親に反対された。女は姿をくらまし、それからやけになって酒を飲んだ。挙句の果てに胃に穴があいてしまい、手術をしたときは手遅れだった。兄のほかに姉もいたが、傾き出した家に見切りをつけて二年前に出て行ったきり帰ってこない。ぼくは、そのことは触れないでおいた。
「なんか面白いもんないか」と木崎が聞いた。
机の引き出しから文庫本を二、三冊出して見せた。彼はぺらぺらと捲ってみただけだった。それから兄の持ち物だった鹿角の柄のナイフを見せた。これは興味を持ち、「いいな」と言って、握りの感触を確かめたり刃先を陽にかざしたりした。
上空の
「ごめん、年とってるように見えたんでよ」
「間違ったってしゃあない、もう六十八にもなるからな」
父ちゃんは老いてはいるが、ぼくが末っ子であること、母ちゃんが父ちゃんより十三歳も若いことを説明した。木崎はにやにやして「畑がいかったんだな」とませた口をきいた。ぼくは両親がそんなふうに言われるのを不快に感じた。
鶏舎から母ちゃんが戻ってきた。卵を入れた
家の裏を流れるワッカウエンナイ川へ行ってみることにした。木崎は自分が仕事のじゃまをしていると思って気にしていた。だが、父ちゃんはいないし、雪割りは今日中にやっておくようにいわれた作業だった。田んぼの
途中、木崎は、市街の書店から教科書を買ってきたことを告げた。ぼくは父ちゃんが、近所から定時制へ通っている二年生の泉さんに、教科書のお下がりを譲ってもらうことを頼んできたので、それを貰ってからでないと、どれを買ってどれを買わなくていいかわからないのだった。
「四年間ったら長いよなあ」と木崎はため息まじりに言った。
「長いけど、貧乏人にはそれしかないべや」とぼくは応えた。
土手の斜面にフキノトウが黄緑色の頭を覗かせていた。そこを登ると、尖った枝だけの木々の向こうに川面が現われた。雪原を押し開くように、川は低い音を立てて流れていた。久しぶりに見る水は澄んでいたが、底のほうは雪の壁で暗かった。太い
少し言葉がとだえたあと、木崎がふいに「おまえっ家も、ゆるくないなあ」と言った。何のことかと思っていると「でもいいさ、父ちゃんがいて。おれっ家なんか恥ずかしくて言えんじゃ」としんみりした声で続けた。
「なしてよ」
「……うちの親父、内地に出稼ぎに行ったまま帰ってこんのだ」
木崎は猫柳の枝をむしって川のほうへ投げつけた。だが、風のあおりをくって、あまり飛ばなかった。「町に女ができたみたいなんだ」とも言った。ぼくは何と言っていいか言葉が浮かばず、眼鏡の奥に小さく歪む木崎の眼を見つめていた。
対面式の夜、新入生は体育館の左端に二列に並ばせられた。右側には上級生が順に並んだ。みんな大人っぽい顔をして怖そうに見えた。
生徒たちのざわめきが薄暗い館内に渦巻いていて、校長が演壇に上がっても静まらなかった。そのとき、壁ぎわにいた年輩の教師がぼくたちの前をつかつかと通りすぎ、二年生の列で横を向いて話している生徒に近づくと、いきなり頭を殴った。一瞬しんとしたので叩く音がはっきり聞こえた。ぼくは驚き、緊張した。ぼくの前にいる生徒は両手をズボンの脇につけて、気をつけの姿勢になった。
校長は肥ってふくよかな顔の人だった。張りのある声で〈努力〉とか〈忍耐〉とか何度も言っていたが、ぼくは話の内容よりも、校長が壇に上がっているのにおしゃべりをやめない生徒たちや、その生徒を挨拶の最中に平気で殴る教師に驚いていた。こんな学校で四年間やっていけるだろうか。窓の外は夕闇が迫っていて空が青黒く染まりかけ、心細さが募ってきた。頑張ってみれ、と言った父ちゃんの顔が浮かんだ。
――ぼくは高校へ入りたいと言い出しかねていた。それを言えばきっと父ちゃんは面食らうだろう。兄が死んでから、四
「おまえ、家を出て働け。どっか住み込みで夜学でもやってもらったらいい」
「父ちゃんらはどうする?」
「なに、母ちゃんと二人くらいどうでもなるさ」
姉の自立にはあれほど反対したのに、ぼくにはそんな言い方だった。兄を失い、姉が出て行って、気が弱っているのかもしれなかった。たしかに市街の商店にでも住み込みに入って通うほうが面倒なくやっていけそうだった。だが、そう言われてみると、老いた父ちゃんや、神経衰弱でうじうじしている母ちゃんを放って家を出ることはできない気がした。狭い土地でも耕作していれば親子三人食べていかれる、と思った。
「おれ、うちから夜間高校に通うわ。卒業まで農家の手伝いでもやる。そうすれば父ちゃんらも助けられるし」そんなことを言っていた。父ちゃんはうろたえたように遠くを見たりして、「そうか」と言った。
数日後、父ちゃんはどこからか中古の自転車を譲り受けてきた。ペダルを踏むと軋んだ音を立て、油を差してもどこが鳴っているのかわからなかった。それでもボロ布で車体を磨きあげるとまあまあの物になった。「頑張ってみれ」と父ちゃんはぼくの眼を見て言った。ぼくは嬉しくて何度もうなずいたのだった。
校長の挨拶が終わると、上級生との対面式が行なわれた。生徒の列はそのままで向きを変え、新入生と上級生が向かい合った。真ん中を広く空けたので、何かゲームでも始まりそうな気分になった。館内はまたもやざわめいた。二年生から四年生までの列は、後ろのほうの高学年になるにつれて生徒の数が減っているのがわかった。やはり落伍する者がいるせいなのだろう。ほとんどが詰め襟の学生服だが、なかには背広を着た中年の人や、工事現場で見る作業服を着た人もいた。先生と同じくらいの年齢の人もいた。
生徒会長が中央に出てきた。髪の毛を七三に分け、大人の顔だった。足を半歩くらい開き、握り合わせた手を股の辺りにおいて口を開いた。ざわめきはまだ収まってなく、大半の者がおしゃべりをしていた。教師たちはもう体育館にいなかったので、遠慮ない感じだった。生徒会長は大声で「……私たち上級生はよき弟ができて嬉しい。これからは兄と思って何でも相談してほしい。逆境に負けず、お互いに励まし合って楽しい高校生活を送っていこう……」というようなことを話した。
突風が吹くらしく窓枠がガタガタ鳴った。屋根のトタンがめくれるような音も聞こえた。鉄の防護柵がはめられ四角く仕切られた窓の外に濃い闇が迫っていた。ぼくは心細さを跳ね返すように、よしやるぞ、負けるもんか、と思った。
一年生のクラス担任は〈オキナ〉という
そのことをぼくに教えたのは、右隣の席の上原というクリーニング店の店員だった。上原は人懐っこい眼をしていて、それが笑うと消えて一本の線になった。背は低いが胸板が厚く、腕っ節は強そうだった。左隣の席は小森という女子なので、声をかけるのが
さっそく授業が始まった。裸電球がぶら下がった薄暗い教室で講義を聞くのは妙な気分だった。夜、教室にいることが落ち着かなかった。長い間、学校は昼間通うものだったから、その習慣から抜けきれないのかもしれなかった。講義はどの科目もさっぱり頭に入らなかった。授業は平常五時五十分に始まり二科目やってホームルームと休憩、そしてまた二科目を行ない、下校するのは九時十分になる。
校門を出る人影はみんな左に曲がり、明かりがばらまかれた市街のほうへ帰っていく。田舎から通っているぼくと木崎は、右に折れて暗い一本道へ向かうのだった。士高から中士別のぼくの家まで約六キロ、山ひとつ越えていかなければならない。夜に慣れていないぼくには、闇が頭から覆いかぶさってくる気がして、自転車のハンドルを握る手に力が入った。並んでいく木崎が頼りだった。
道はほどなく東山峠の登り坂に差しかかる。尻をサドルから浮かし、体重をかけてペダルを踏み込まなければならない。息切れがしてきておしゃべりもできない。しだいに両腿の筋肉が痺れ、喉の奥が痛くなってくる。やっと登りきると今度は急な下り坂だった。いままで力を振りしぼった分、ここで一息つけた。ペダルを踏まずに山裾に沿った道路を一気に下りる。闇を裂いていく顔に快い風を感じた。
風がとだえ、再びペダルを踏みはじめるとき、道路は平らな畠中に入っている。もう周囲には人家も見えない真の闇だ。自転車のライトに丸く映し出される道路だけを見るようにして走った。
「夜間高校って、何となくガサイなあ」と木崎が言った。
「何でよ」
「何でって、どことなくガサイべや」
「…………」
ぼくは今夜、緊張のしどおしだった。もしかしたら木崎も同じように緊張し、これからの高校生活をやっていけるかどうか不安になっているのではないか、と思った。
「そうかもな、ガサイっちゅえばガサイな」とぼくは応じた。
「な、そう思うべ」木崎は弾んだ声になった。「だから、どうってことないよな、四年間だって」
「おお、どうってことないさ」
やはりそうなのだ。平気に見える木崎も、内心では挫けそうになる気持ちを堪えていたのだ。ぼくは何だかほっとした気分になった。
右に暗い針葉樹の森が現われた。得体の知れないものが隠れている気配があって不気味だった。奥に
橋を渡りきると気持ちがゆるむように思われる。ここからがぼくたちの住む中士別で、地形が平らになり、各線の農家の電灯が遠くまで見通せる。辺り一帯が水田地帯だった。ほどなく家屋が建ち並ぶ十字路に出た。角に郵便局や商店があってちょっとした市街になっている。そこを通り過ぎて四線に入ると、ぼくの家はもう眼と鼻の先だ。
「まあ、やるしかないな」
「うん、頑張るべや」
そう言い合って別れた。
入学してから二週間ほどたった夜、応援歌の練習をやるので授業が終わったら音楽室に集まるように、との連絡がきた。ぼくは木崎と相談し、すっぽかして帰ることに決めた。授業が終わると大急ぎで鞄に教科書やノートを突っ込み、生徒玄関へ走った。すでに上級生が数人立っていて、ぼくたちは靴を履かないうちにつかまった。
「おまえら、何で帰るんだ」
「……あの、いま
「蒔きつけだと? そったらことで、われわれ士高の応援はできんちゅうんか。先輩が築きあげてきた伝統はどうなってもいいっちゅうんか」上級生は腰に手を当て、教師のような恰好で怒鳴った。
「いえ、そんな……」木崎は
「わかったら、さっさと音楽室に行けや」と言われ、ためらっていると「たるんどるぞ、貴様ら。ずるけようたってそうはいかねえんだ!」別な上級生に一喝され、鞄と靴を持ったまま廊下を引き返した。
音楽室の中央の椅子に坐らされたぼくたちを、両側から二年生と三年生が、後ろから四年生が取り囲んだ。何だか物々しい感じだった。ぼくは顔をねじって二年生のなかに泉さんを探したが、どこにいるのかわからなかった。
教壇の上に機嫌の悪そうな顔つきをした上級生が立っていた。髪をリーゼントにして学生服の袖を折り曲げている。「私は応援団長だ」と自己紹介をしたあと「歌詞は生徒手帳に出とるから開け」と言った。忘れてきている者が大半だった。ぼくも木崎も持っていなかった。するといきなり「それで士高生と言えるかあ!」とどやされ、度胆を抜かれた。それからガリ版刷りの楽譜が配られた。
女のように色白な上級生がピアノを弾きながら、まず一小節を歌ってみせた。声がとてもきれいで上品な歌い方だった。一年生はすぐそのあとを歌わせられた。何度かそんなことを繰り返し、次に上級生全員といっしょに合唱させられた。上級生の歌い方は、歌というより曲を無視してむやみに大声でわめくものだった。
一年生だけで合唱させられた。自信がないので消え入るような声になった。デレッキを持った上級生と
応援団長が「今年の一年生は覚えがわるい。しゃあない、一人ずつ歌ってもらうか」と言ったので、ぼくたちはみんなうつむいた。団長と視線を合わせたら当てられると思ったのだ。みんなといっしょならともかく、一人でお終いまではとても歌えそうになかった。
「さあ、君歌え」と声が聞こえた。まさかと思って上目づかいに見ると、団長の人差し指は真っすぐこっちを向いていた。ぼくは催眠術をかけられたみたいに立った。だが喉が引きつって声が出なかった。顔が熱くなり耳の後ろがじんじん音を立てた。すっぽかそうとしたことが耳に入っているのだろうか、と
「よし。次」
着席すると首筋に汗が流れていた。ほんの一、二分だったろうがずいぶん長い時間に思えた。ぼくのあとに当てられた生徒も声が震えていた。その時、ぼくは瞼に涙が溜まりかけているのに気づいた。手で拭ったら
咳払いをした生徒が当てられた。歌い出すとすかさず集中攻撃を受けた。すると彼はしばらくためらったのち、今度は気でも違ったような、とてつもない大声で歌い出し、みんなを驚かせた。だが、もっと驚かせたのはひどい音程のずれだった。まるで御詠歌を叫んでいるみたいなのだ。一年生以外はみんな笑った。団長は「笑うな、何がおかしいか」と左右を睨みつけたが、そのうち我慢ができなくて頬を崩した。お終いまで歌うと「よし、大変よかった」と言った。どっとまた笑い声が沸いた。
一年生いびりが永遠に続くかと思えたとき、団長は全員での合唱を命じた。音楽室は日ごろの不満や鬱屈を爆発させるようなやけくその絶叫に満ちた。そして突然、解散が告げられた。立ち上がるときよろけそうになった。
上級生の一年生に対する応援歌のしごきは恒例のものらしかった。応援歌ばかりでなく個人的ないじめもよく起きた。廊下を歩いていたら欠礼したといって殴られたり、顔が気にいらないといって殴られたりした者もいた。掃除のとき週番がわざと雑巾バケツをひっくり返してやり直しさせられた者たちもいた。対面式で生徒会長が言ったような、とても兄と思って慕える人たちではなかった。ぼくも木崎も上級生が近くにいるときは油断しないように心がけた。上級生が教師よりも怖かった。
学校の帰りに、ときどき中士別から通っている上級生といっしょになることがあった。こっちの上級生は同郷のよしみで、少しは気を許していられた。
二年生の泉さんと会ったとき、さっそく教科書のお下がりを貰った礼を言った。「いやあ、どうせいらねえもんだから」と軽く言ってくれた。
泉さんは昼間、郵便配達の仕事をしていた。木崎が応援歌のしごきが怖かったと言い、一年生をいじめる上級生のことを聞いたが、「みんな虚勢張ってるんだべ」と言ったきりだった。ぼくも木崎もマークしておくべき上級生を知っておきたかった。ところが泉さんは余計なことを言わない人だった。先輩が黙っているので、こっちから話しかけることができず、黙々とペダルを踏んでついていくしかなかった。
泉さんの家は天塩川の橋を渡り左へ折れたところにあって、そこで別れた。ぼくたちが声をそろえて「お休みなさい」と言うと、やっと「気ィつけてな」と応じた。泉さんの姿が見えなくなってから木崎が「いやいや、何にもしゃべらん人だな」と不服そうに言った。ぼくは「無口なんだ、きっと」と弁護した。「それにしても、黙ってるっちゅうのも疲れるな」と彼はハンドルを握ったまま肩を上げ下げした。
別な夜、峠を下りた辺りで「おまえら、新入生か」と後ろから追いついた成沢さんに話しかけられた。成沢さんは三年生で、三線の水田農家の息子だった。泉さんと違ってずいぶんおしゃべりな人だった。その夜は四年生に教わったというスケコマシについて話した。映画館の暗がりで隣の席の女の人に触るのだという。
「手や脚どころか、あすこにも触らせるスケがいるんだからな」
いきなり大きな声でそんなことを言うので、ぼくは息を呑んだ。木崎が「成沢さんも触ったんすか」と聞いた。
「い、いや、おれは後ろで見とっただけだけんど」
そんなことをさせる女の人がいるわけがない、作り話に決まってる、と思った。そう思いながらも聞き耳を立てていた。
「暗い座席で何人も待ってるんだ。今度、おれもやってみるぞ。ちょっと手を握って、黙ってたらしめたもんだ」と成沢さんは熱心に話した。「そのうち、おまえらも連れてっちゃるわ」
しかし、ぼくたちは返事ができなかった。小さな恐怖がふくれてくるようだった。入学前に考えていた高校生のイメージが何だか薄汚いものに変わっていく気がした。
五月、田植えの真っ盛りになった。ぼくは吉井さんの家へ手伝いに行った。親戚でもないのに、吉井のおじさんはよくぼくたち家族の面倒をみてくれていた。うちには馬がいないので、馬耕や
田んぼの水面に太陽が反射して眼に痛かった。気温が上がってきて地表はぬるいのに、はだしの足を踏みかえると地中にもぐったところはひんやりした。よく代掻きができていて、苗を差すだけで泥が根元へ戻ってくる。灌漑溝の向こう側で市街からきた出面取りの人たちが十数人、ずらり並んで植えていた。ときどき風に乗って若やいだ声が聞こえた。ぼくは吉井さんの家族といっしょに温床の横の田んぼで植えていた。
眼の前をおばさんと、隣の家の時枝さんが並んで植えている。おばさんのお尻は相当な幅があるが、時枝さんのほうはほっそりしていた。今年、収穫が終わったら嫁にいくという噂だった。
二人が畦に達して新しい
「邦夫ちゃん、腰痛いべ」とおばさんが言った。「うん」と正直に答える。実際、腰は痺れるように痛い。農家の仕事は何でこんなに前屈みになるものばかりなのだろう、と思う。
「頑張ってくれ、男で速いのあんただけだからな」おばさんは、いつも男みたいな言葉づかいだった。
「邦夫ちゃん偉いね」と今度は時枝さんが言った。「昼も夜もゆるくないっしょ」
ぼくは顔がほてる気がした。
「なんもだ。適当にやってるから」
「うちの仕事、適当にやったらだめだぞ」おばさんが怒ったような声を出したので、時枝さんが笑った。縁の大きい被りの中で、白い歯並びがきれいだった。
「働いて、勉強して、きっと将来は出世するわ」
「偉くなって、うちなんか寄りつかんくなるんだべさ」
「偉くなれんよ、おれなんか」
高校に通っているだけで、みんなあんなことを言う。夢に描いた高校とは大違いで、このごろは少し幻滅を感じている。そんな高校を出たくらいで、いい仕事が得られるかどうかわかったものではなかった。この人たち、実態を知らないんだ、と思った。
植える手を休め、立って腰を伸ばした。空を映して光っているのが苗を植え終えた田んぼ、でこぼこの土が剥き出しになっているのがこれから植える田んぼだった。そのはるか向こうの
水を切った田んぼで、おじさんがコロを回して筋を付けている。後ろ向きに歩かなくてはならないが、さすが年季が入っていて真っすぐな筋になる。おじさんは煙草ばかり吸っていて、あまり仕事をしているように見えないが、ちゃんと人の動きを読んで先々の段取りをしているのだ。その向こうで剛さんが代掻きをしている。馬も剛さんも泥の飛沫を浴び、泥人形のようになって田んぼを回っていた。ときどき「何だべな、このバカ馬は」と怒鳴った。出面取りの人たちのなかには若い女の人もいるから、張り切って声がいつもより吊りあがっている。ぼくの頬が弛んで笑いになる。
小昼のあと、急に気温が上がった。頬や鼻先から汗が滴り落ちた。うつむいてばかりいると眼元が腫れぼったくなってくる感じだった。腰は相変わらず
午後も相変わらず同じ作業。二時過ぎ、剛さんの妹の友子が帰ってきて加わった。中学一年になったばかりなので手伝いとは名ばかりだが、農繁期は誰もが狩り出された。友子はしょっちゅう立って腰を伸ばす。遊びたい盛りで、嫌々やっているのだ。友子の横の畝を植えたとき「邦夫ちゃん速いな。手伝ってや」と声をかけてきた。「忙しい。自分でやれ」と言ってやる。「ふん、意地悪」友子は立ったまま、ぼくの作業を眺めている。「こら、立ってばかりいないでやれ」と言いながら、手を伸ばして一株だけ植えてやった。「けち」と頭の上で声がした。
ぼくが経験で得た田植えのコツは、脚をできるだけ開いて大腿の上に腹を乗せるようにするのだった。そうすると腰は痛いには痛いが大分やわらぐ。また速く植えるのは植える右手にあるのでなく、苗を繰り出す左親指の速さにかかっている。植える苗の本数がつねに一定して指先に出ていなければならない。それを濡れた土の上にサッサッと植えていく。思うようにいくと気持ちがいい。
きょう植える分の田んぼの代掻きを終えて、剛さんも植えに来た。剛さんは細かい手作業が得意でないらしかった。仕事中はいつも流行歌をうたっていた。小節をきかし興が乗ってくると作業がおろそかになっているのがはっきりわかった。田んぼの中央でぼくと擦れ違った。歌手になって有名になりたい、そしてお金を大儲けしたい、という話を繰り返した。ぼくの家にはテレビがなかったし、そういう世界のことは知らなかった。だが才能というものが要るだろう、と思った。
「歌手ってプロデューサーに抱かせんかったら、一人前になれんのよ」と言った。「男の場合はどうするのさ」と聞くと「困るな。女のプロデューサーなら誰だって抱かしちゃるけんど」と言ったので笑ってしまった。友子が遠くで「何、笑ってるんさ」と聞いた。「おまえに関係ない」剛さんはぶっきらぼうに言った。
陽が西に傾き、時間が気になってきた。四時半になったら通学のため仕事を切り上げなければならない。その分、出面賃は安いが仕方なかった。
「邦夫ちゃんよ、もう高校へ行く時間だぞ」おばさんが腕時計を見て言った。
「うん……」急にやめるのも気がひけてまだ植えていた。
「いいって、あとはやるから残していけ。遅れるぞ」おばさんはいつも気をきかしてくれて、ありがたかった。
「それじゃ、失礼します」
「ご苦労さん。明日また頼むな」
「いいな、邦夫ちゃんは」と友子が言い、「何い、おまえ勉強きらいなくせに」とおばさんが言った。時枝さんが腰を伸ばしてこっちを見た。「頑張っといでね」と声をかけてくれた。終わりよければすべてよし。畦道を歩きながら、時枝さんの声を耳で繰り返した。
しだいに夜学の生活に慣れ、周囲のことがわかってきた。同級生のほとんどは市街の商店の住み込みか中小企業で働いている者たちだった。農家から通っている者はぼくのほかに十数人いた。彼らは顔や手を洗ってきても、指先を見ると爪の先に泥が入って黒い線になっていた。その汚れが同じ仲間だという実感を抱かせた。
授業中、居眠りをする者が何人もいた。机に突っ伏して寝てしまう者までいた。教師のなかには見て見ぬふりをしてくれる人もいる。生物の教師がそうだった。だが、立花が
笑い声のなかで立花は顔を上げたが、まだ
ぼくも他人事でなかった。田植えが始まってから眠気に襲われてどうしようもなくなっていた。チョークの黒板に当たる音がリズミカルに響き、講義の声が遠のいていくと、いつの間にか気持ちよくなって意識を失う。頭がぐらりとしてハッと気づき、首を振ったりしてごまかす。そんなときは眠るまいと気をつかってばかりいて、授業どころではなかった。いったい何をしに学校へ来ているのかわからない有様だった。
授業が終わってベルが鳴る。このときは教室に活気がみなぎる。みんな授業中ののろのろした動作とは打って変わって、素早く教科書やノートを鞄に放り込み、廊下へ跳び出していく。いっときも早く布団にもぐりたいのだ。しかし、なかにはまだ帰ってから店終いの仕事が残っているという者もいた。誰もが時間に追われて余裕のない毎日だった。
その夜、授業が始まっても教室に木崎の姿が見えなかった。遅刻するのかと思っていたが、一時間目が終わってもとうとう現われなかった。ぼくは気もそぞろになった。夜更けの田舎道を一人ぼっちで帰るのが怖かったのだ。
授業が終わると、二年生の教室へ行って泉さんを探した。掃除をしている生徒のなかにはいなかった。体育館のほうへ行ってみたが、そこにもいなかった。泉さんも休んだのかもしれない。こんなことをしている間にどんどん夜が更けていく、と焦った。
一人で帰る夜道は状況がまるで変わった。東山峠を登りきるまでは街からの薄明かりに照らされていたが、峠を越えると濃い闇に閉ざされた。いつもは快い下り坂が闇の底へ引きずり込まれるようで体が固くなった。そこからは深い水底を行くようだった。畠中道の先にあの梟の棲む森があった。梟が啼いて怨霊を呼び寄せる気がした。昼間なら笑ってすませることが、逃れようのない恐怖となってふくれあがる。
自転車のライトに浮かぶ丸い路面から眼を逸らさないようにしてペダルを踏んだ。急ぐとかえっておののきが募りそうなので、いつもの道路だ、何も起こりはしない、と自分に言い聞かせてゆっくり走った。しかし森の気配が迫るにつれ、来るぞ、来るぞ、という意識が働く。
森の前で恐怖は極限に達した。樹々の奥に潜んでいる怨霊たちが声をかけてきそうだった。耳を塞ぎたい思いでいながら、針が落ちてもわかるほど神経が尖っていた。首と肩が固くなり、息苦しくなる。やっと道路は左へカーブし始める。あと二百メートルほどで天塩川、あの橋を越えたら中士別だと思うとペダルを踏む足が自然に早くなる。背中に冷たい物の
翌日の夜、木崎は登校した。「夕べはどうして休んだ」と聞いてみると、「腹痛くしちゃってよ。食いすぎたんかな」と言った。ぼくは闇夜に怯えながら下校したことを黙っていた。
猛暑が続き、士別神社の祭りがやってきた。教室では出店や見世物の話で持ちきりだった。隣の上原はオートバイの曲乗りを見たことを話した。
「すごいぞ、金網の球の中を横になったり逆さになったりして回るんだ」とまだ興奮のさめやらない口調で言った。彼はオートバイを持つことが夢だから、なおさら感激したのだろう。「授業が終わったら行ってみないか」と誘ってきた。木崎に聞くと「きょうはお金を持ってこんかった」と言った。だが、いつだって持っていないのと同じなのだ。
校門をいつもとは反対に左へ折れ、上原が勤めているクリーニング店へ向かった。店の脇の路地に鞄をくくりつけた自転車を預け、宮下通りへ行った。道路の両側にぎっしり立ち並んだ出店の間を、着飾った人たちが揉み合うように行き来している。そこだけ別世界のようにまばゆかった。出店が数えるほどの田舎の祭りしか知らないぼくには、圧倒される光景だった。
雑踏のなかに入ると、見知らぬ人と体が擦り合った。出店の明かりが行き来する者の顔をどぎつく照らした。中学生のときの同級生に何人か会い、お互いに声をかけたり手をあげたりした。
おでん屋の前で急に空腹を覚えた。上原も同じだったとみえ、おでんを二串ずつ
射的の店のところで泉さんを見つけた。店先に片桐さんもいて、銃にコルクの
近づいていくと、羽生が「おまえら金もってないか」と言った。木崎が「来るつもりでなかったからな」と言い、上原もかぶりを振った。羽生の視線がぼくのほうへきた。硬貨が数枚ポケットに入っていたが「持ってない」と答えた。羽生は舌打ちをして「まったく貧乏人ばかりだもんな」と言った。それから硬貨のぶつかる音が聞こえないように学生服の端を押さえて歩いた。
泉さんはテントの端で射的を見ていた。泉さんと片桐さんは同級生だから泉さんとぼくたちが仲のいいところを見せれば、片桐さんのいじめに遭わないですむかと思った。だが、泉さんは相変わらず物を言わず、とりつくしまがなかった。片桐さんは景品に弾丸を当てようと熱中していた。身を乗り出すようにして一発撃ったが外れた。「惜っしい」と羽生がおべんちゃらを言った。
人の流れに押されて夜店の外れまで出た。サーカス小屋のほうへ行ってみることにした。途中、綿アメ屋の横でアイスキャンデーを売っていたので、ぼくはポケットの硬貨を出して三本買った。
「金もってないって言ったべや」と木崎が言った。
「あんなやつらに渡す金はない」と答えると、上原が口笛を吹いた。
サーカス小屋の反対側に立ってキャンデーをなめていると、
「そう、似合う?」髪を長く垂らしたほうが袖をつまんでポーズをとって見せた。濃紺地に赤い花が咲いている柄だった。向こう側にいる眼のぱっちりしたほうもきれいだった。
「おお似合うぞ」と上原が言った。娘たちは顔を見合わせまた甲高い声で笑った。二人とも浴衣の上から胸のふくらみがわかった。ぼくはみぞおちの辺りが痛くなった。
娘たちはそれだけで行ってしまった。木崎が「知ってる奴か」と聞くと、上原はキャンデーの棒を放り投げ「中学校の同級生だ」と言った。なおも「マブイな、紹介しろよ」と言う木崎に「ズベ公だぞ、あいつら」と応えた。
サーカスはオートバイの曲乗りが人気を呼んでいた。テントの中から
ぼくも見たいと思ったが黙っていた。木崎も黙っていた。大した額でなくてもお金をそんなことに使うのは無駄づかいというものだ。しかし、無駄なものほど楽しみが深そうな気もした。
ふと姉といっしょに逃げて行った男のことを思った。痩せた色白の男で、必ずオートバイに乗って姉に会いにきた。田舎道をけたたましくエンジンを響かせてやってくるのですぐわかった。男はぼくに、ほしい物を買ってやる、と言ったことがある。中学生のぼくは、空気銃がほしい、と言った。よし買ってやる、と男は言った。だが、約束を果たさないうちに姉を連れ去ったのだ。ぼくは男がサーカスに入ってオートバイの曲芸をしていることを想像した。すると、姉がすぐ眼の前のテントにいるような気がした。
エンジンの音が止まって、まばらな拍手が沸いた。テントが割れて巨大な球体の鉄枠が押し出されてきた。台の上に黒い革のつなぎを着た男が立っていた。もちろん姉と逃げて行った男ではなかった。台から飛び降りるとき、背中に雷光を形どったギザギサの模様が見えた。
「あの人だ。あの中を走り回るんだ」と上原が興奮した声を出す。
「そんなすごいもんか」
「すごいさ、よっぽど訓練しないとできんべ。走ってるうち上か下かわからんくなるも」
ぼくは自分がオートバイに乗って、その球体の中を走り回ることを想像してみた。何だか、ちゃちな回転車を回しているネズミと同じ気がした。オートバイで走るなら、地平線の果てまで広がる草原を突っ走って行きたい、と思った。
出店のところにさっきの浴衣の娘が二人
「全日制の奴らだ」と上原が言った。その一言で、張り切っていたぼくたちの歩みは鈍ってしまった。「今夜はやめとっか」と木崎が言った。
宗谷線沿線の高校の陸上競技大会が隣の名寄市で開かれる。それに出場する選手の壮行会が体育館で行なわれ、さっそく応援歌の練習の成果が生かされることになった。
全校生徒が腕を組んで幾重もの輪をつくり、選手たちを取り囲んだ。一年生から立花が一万メートル競走の選手に選ばれて輪の中に入っていた。応援団長が長く引っ張る声で「士高応援歌ァはじめェ!」と怒鳴ってからいっせいに歌う。ただ歌うだけでなく、足を交互に上げてステップを踏むのだった。絶叫する歌につれ輪は縮んだり広がったりした。今日はいびられる心配はなかったので、一年生も安心して大声が出せた。
そのうち妙なことが起きた。生徒の輪が縮まったときに選手の体を押し倒したり蹴ったりする者が現われたのだ。こんな荒っぽい伝統があるのかどうか、ぼくたちにはわからなかった。そのうち輪が崩れ、入り乱れてめちゃくちゃの騒ぎになった。
陸上部長が「冗談でない、こったら壮行会があるか」と怒鳴った。数人いる選手たちのほとんどの者が蹴られた。立花は転んだところ腿を蹴られ、顔をしかめながら「走れんくなるべや」と怒った。
とりあえず解散し緊急の生徒会が開かれた。しかし、生徒会でも騒ぎの真相を明らかにすることはできなかった。選手が、誰それに蹴られた、と言えば、誰それは、足を上げたとたん後ろから押されてどうにもならなかった、と言った具合だった。騒ぎの原因が、生徒会予算を最も費やす陸上部に対する抗議なのか、いつも虐げられている不満を八つ当たりさせたのか、単なる群衆心理の暴走なのか、けっきょく何もわからなかった。わけはわからなかったが、ぼくには夜間生の変に折れ曲がった心を覗きみた思いがした。
何日かたって、大会の結果が報告された。どの競技も大した成績ではなかった。立花も一万メートル六位にとどまった。六位と言えば聞こえはいいが、それは七校出場してのこと。ビリから二番目と言ったほうがわかりいい。選手たちは散々な壮行を受けて、すっかりやる気をなくしてしまったのかもしれなかった。報告を聞いたとき誰かが「やっぱり蹴っとばしておいて正解だったな」と言った。
木崎が羽生と仲たがいをした。事の起こりは帽子のことからだった。男らしい恰好をつけるため、学生帽に油を塗ってテカテカに光らせ、前を
雨の日、教室に入ってくる木崎を見て驚いた。墨汁でも垂らしたみたいに額や首が黒く汚れていたからだ。「なしたんだ、おまえ」と言っても気がつかなかった。手で額を拭ってみてからあわてて水飲み場へ走っていった。教室にいた同級生がみな笑った。戻ってきた木崎に聞くと、帽子に塗る油を納屋で探したが適当なものがないので、馬車油を塗ったというのだ。「雨で流れるとは知らんかった」と恨めしそうに言った。顔を洗ってきたのにまだ首筋が汚れていた。ぼくは腹の底から震えのような笑いが沸いてくるのを押さえられなかった。
それから数日後のことだ。羽生が教室の後ろにかけてある木崎の帽子をとって「これか話題の帽子は。いい艶してるじゃねえか」と冷やかした。
木崎はそのときまだ笑っていて「他人の物に触るなや」と言った。
「馬車油とは似合ってるわ。田舎者にぴったしだ」羽生のあからさまな侮辱に、木崎の声が変わった。
「うるせえな、おまえに関係ないべ」
「何だと、こら」羽生は顎を突き出し、木崎を見下すように言った。「帽子にアヤつけたかったらな、おれに断ってからにしれや」
「何でおまえに断らんならん」
「木崎、自分がそれだけの力あると思ってるんか」
「おまえみたいもんに指図されるいわれはない」
「やる気か。いつでも相手になっちゃるぞ」
「おまえなんか、あっぱくさいさ」
「やめろ」とぼくは木崎の手を押さえた。手が震えているのがわかった。上原も「同級生で喧嘩して何になる、やるなら他校生とやれ」と言った。ちょうど授業が始まるベルが鳴って、ひとまず収まった。
羽生は頬に薄笑いを浮かべていた。木崎は思い沈んだ表情だった。彼は、羽生が片桐さんらと付き合いがあることを鼻にかけて虚勢を張るのを、快く思っていなかった。それは上原も同じで、あいつは夜間生の面汚しだ、と言っていた。羽生の家は裕福なのに全日制の入試に落ちて定時制に入ったということだった。
とうとう木崎と羽生が勝負をつけることになった。そして、ぼくは木崎側の立会人だった。頼まれて嫌とは言えず、そういう喧嘩沙汰をこれまでに経験したことがないので落ち着かなかった。
授業が終わると、木崎といっしょに校舎の横の植え込みを曲がった。街灯の光が壁でさえぎられ濃い闇になった。押し黙って歩く彼の緊張感が伝わってくる。もう一度曲がると体育館の裏へ出た。暗がりに人影が二人見えた。背の低いほうが羽生で、後ろにいる背の高い人はやはり片桐さんだった。体の奥から怯えが広がってくる。木崎が眼鏡を外してぼくに渡した。
木崎と羽生が向かい合うと、片桐さんが「そしたら、やれや」と無造作に言った。ぼくは少し離れたところで見ていた。
「やったるか、こら!」
羽生がいきり立った声をあげる。いつもと違う、その巻き舌の言い方に喧嘩なれした響きがあった。木崎は腰を低く構える。羽生の体が浮いたと思ったら、いきなり木崎の股を蹴った。木崎はこれを読んでいて難なく避けた。彼が手を伸ばすと、羽生は素早い身のこなしで後ろへ退く。
羽生が腰から刀でも抜くような動作で何かを引き抜いた。暗くてよく見えなかったが、弾ける音がして木崎の頭がグラッと揺れた。続いて同じ音が鳴り、木崎はまたよろめいた。それが革のベルトだと気づいたのは何度も打たれてからだった。
「武器を使うのは卑怯だよ」とぼくは喉に塞がるものを押し破るように言った。
「ルールなんかねえ」と片桐さんが言い返した。
木崎の学生帽が飛ぶ。ぼくは自分が殴られている痛みを感じた。木崎は両肘で顔をかばいながら、飛んでくるベルトを引きむしろうとした。だが羽生は巧みだった。叩くとみせてやめてみたり、続けざまに叩いたりする。そして木崎が近づくとサッと退き間隔を保つのだ。木崎は焦り出した。何とか羽生の体をつかみたがっていた。
彼は飛びつくように前へ出た。羽生は身を交わし、木崎はつまずいて転んでしまった。その上からベルトが激しく打ち下ろされ、彼はうずくまって動かなくなった。
「もうはや参ったか、こら」羽生が近づいて言った。今度は腹を蹴った。木崎は蹴られるままに丸くなっていた。あっけない勝負だった。
「参った、降参だよ。やめてくれ」ぼくは怒鳴った。木崎に怪我をさせたくなかった。
「こいつ、まだ降参してないぞ」羽生はまた蹴った。
ぼくは木崎に近づいて「な、もうしようないべ」と聞いた。木崎は返事をしなかった。
「よし、決着ついたな」と片桐さんがすぐ近くで言った。
「あんまり簡単すぎて汗も出んぞ」と勝ち誇って羽生は言った。「さんざん偉そうなこと言いやがって、何だ、だらしのねえ」
片桐さんも「これに
ぼくも言いたいことがあったが声が出なかった。負けたのだからどうしようもなかった。草むらから木崎の帽子を拾ってやった。喧嘩の原因になった汚い学生帽は夜露で濡れていた。
木崎の自転車と並んで校門を出た。東山の峠を登りきるまで無言だったが、下り坂になってから、待ちきれなくなってぼくが言った。
「ベルトで殴るなんて、卑怯だよ」
木崎は返事をしなかった。
「羽生の奴、逃げてばっかしだったもな。まともじゃ勝てんもんだから」
木崎は黙ってペダルを踏み続けた。
「でも、おまえは最後まで素手で闘ったんだ。おまえのほうが立派だよ」
「……つかめれればな。あいつの体、つかめれれば絶対負けんかった」木崎は突然片手で空をつかむ恰好をして言った。
「そうだな。つかんでしまえば、おまえのほうが力があるもんな」
「畜生!」と木崎は呻いた。「服の端でもつかめれさえすれば……」
木崎は何度も同じ繰り言を続けた。ぼくはそのたびに相づちを打ち、気休めを言った。橋を渡るとき、彼は帽子をとって天塩川へ投げ捨てた。そして「必ず仕返しをしてやる」と言い放った。
今夜のことは同級生や他の生徒にも知らされるだろう。木崎は負け犬のレッテルを貼られ、羽生はますます増長するに違いなかった。木崎の悔しい胸の内が痛いほどわかった。
稲の実りは順調で、九月に入って間もなく稲刈りが始まった。
朝七時、吉井さんの田んぼへ出かけた。霧の下に黄金色の稲穂が静かな海のように広がっている。畦道を歩いて行くと、草の露で長靴がきれいになった。海が突然割れて、体を丸くして作業をしている姿が見えた。おばさんと剛さんの二人だった。
稲穂はよく実ってふくらみ、重さに首を垂れていた。稲株を握ると身が引き締まった。サクッ、サクッと
吉井のおばさんは、刈るのも束ねるのもリズミカルだ。ぼくは何とか追いついていこうと、おばさんのやり方を真似てみたが力の差はどうしようもなく、だんだん引き離された。
ぼくの刈っている畝の前のほうで稲が倒れていた。夜中に大きな動物でも転げまわったみたいな乱れようだった。おばさんの刈っている畝はさほどでなかった。ついている者はどこまでもついていて、ぼくは何でも損な巡り合わせだという気がした。倒れた稲株のところまでくると作業は急に
「えらい倒れとるな、実入りがよすぎるんかな」
剛さんが元気のいい声で言った。
「出面さんはいつから来るの」と聞いてみた。
「二、三日中に来る。今年は、いつものおばさんグループと違うぞ。若い娘が大勢混じってるんだ」剛さんは息を弾ませていた。
「時枝さんは来ないの」
「来ん」いやに素っ気なかった。そして声をひそめて「時枝の縁談ぶっこわれちまったの知ってるか」と言った。
「え」
「あいつ、子供を
「…………」
剛さんは何だか嬉しそうな口ぶりだった。時枝さんに以前付き合っていた男がいて、その男は剛さんも知っているらしいが、そんなに深入りしているとは知らなかった、と言った。嘘だ、何かの間違いだ、と思った。あの時枝さんがそんなことをするはずがない。みんなこうやって、無責任なおしゃべりを膨らませて、とんでもない噂に仕立てあげてしまうのだ。
「あんな虫も殺さぬ顔しとってよ」なおも言い募る剛さんの声が、この町のどこの田んぼでも
……鎌を引いたとたん、左の小指にズンと痛みが走った。軍手を脱ぐと、小指の先が斜めに口をあけていて、血が見るみる盛り上がってきた。剛さんが気づいて「切ったんか」と言った。うなずくと「納屋に父ちゃんいるから、行って包帯巻いてもらえや」と言った。傷を見もしないのは大したことがないと思っているのだろう。指を押さえて畦道に上がった。霧のなかからおばさんが「なした、切ったんかい」と声をかけた。ぼくは「うん、ちょっと」と応えた。
おじさんは傷口を一目見るなり「こりゃあ深いわ」と言った。「わしの手におえん。病院で縫ってもらわんと」
おじさんの言葉で、貧血が起きたみたいに眼の前が暗くなった。包帯をきつく巻いて血止めをしてもらい、自転車で市立病院へ向かった。切った個所を心臓より高くしていたら血が出ない、というおじさんの言葉を守って、頭の上に怪我をした左手を乗せ、片手ハンドルで走った。
病院で散々待たされた。通院患者はみんな廊下の椅子に坐って、開け放たれた診察室の入口に注目していた。誰もが自分の名前が呼ばれるのを待っている。傷口が痛み出し、こんなに長い間放っておいていいものかと心配になりながら、ぼくも待つしかなかった。
診察室には看護婦が何人も立ち働いていた。髪につけたナースキャップと白ずくめの姿が、田んぼで働いている女の人よりもきれいに見えた。そのなかに見習いらしい看護婦が何人か混じっていた。頬にまだふっくらした少女の面影を残していて、新米であることがわかった。彼女たちは年輩の看護婦の指示で、患者の包帯をほどいたり服を脱ぐのを手伝ったりしていた。士高の前にある准看護婦養成所の生徒たちに違いなかった。
やっと名前が呼ばれて診察室に入った。医者はぼくの指をほんの数秒見ただけで、横の治療台で休んでいるようにと言った。年輩の看護婦が傷口を消毒してしまうと、またもや待つことになった。
傷口が縫い合わされたのは昼過ぎだった。治療台に寝かされたまま左手を伸ばす。麻酔の注射は痛かったが、やがて感覚がなくなった。
「思いっきりやっちまったんだなあ」と医者は言った。
「はい」とぼくは顔がほてるのを感じながら応えた。年輩の看護婦の後ろから准看生が一人覗いていた。
医者はまずメスで切って爪を全部剥がした。爪のなくなった小指はソーセージみたいになった。それから傷口を釣針のような曲がった針で縫った。いくら肉を刺し通しても神経が麻痺しているので、他人の指でも眺めるように見ていられた。糸を引っ張るとき、微かな振動が手に伝わってきた。三針縫い合わせて終了した。
治療台に起き上がって、坐っていると、カーテンを開けてさっきの准看生が入ってきた。薬を塗ったガーゼと油紙を当て包帯を巻きはじめた。ほっそりしたきれいな指がぼくの手の上を動く。そのすぐ向こうに睨むような視線になった彼女の顔があった。眼が澄んでいて、ハッとするほどだった。
ぼくは心臓の高鳴りを気づかれるのでないかと案じた。足元に眼を落とすと、彼女の形のいい足があった。白いソックスと白いシューズが清潔だった。そして、ぼくはというと、よれよれのジャンパーに膝の抜けたズボンというひどい恰好だった。念の入ったことにあちこちに泥が飛び散っている。恥ずかしさで眼元が熱くなった。
「はい、終わりました」
彼女はよく通る声で言い、ぼくを見て微笑んだ。青みを含んだような冴えた眼だった。何だかボーッとしてしまった。診察室を出るとき「お大事になさいませ」と明るい声が聞こえた。
小指は包帯を巻かれて鎌の柄よりも太くなっていた。振動を与えないために左手を胸のところに支えて帰った。まだ麻酔が効いていて痛みを感じなかった。片手ハンドルで砂利道をよろよろ行きながら、ぼくの頭はあの准看生のことでいっぱいだった。
包帯を巻くときの表情が思い浮かぶ。何事にも真剣になってしまう動作が好ましく思えた。くっきり通った眉毛と、澄みきった眼、そこに険のようなものも潜んでいそうだったが、ぼくにはむしろ芯の強さと感じられた。そして、微笑んだときのあの優しさはどうだろう……。時枝さんなんかめじゃないな、と思った。
「お大事になさいませ、か」声に出して言ってみた。切ないような気がした。
小指の負傷のため、ぼくの目算は大きく狂ってしまった。傷口が治るまでに二週間はかかるという。稲刈りはおよそ二十日間が勝負だから、その三分の二は仕事にならない。ぼくの現金収入も三分の二が減るわけだった。
一週間ほど休んだが、そんなことをしている場合ではなく、小指のところを裂いた軍手をはめ包帯の上にビニールを巻いて、うちの田んぼの稲刈りをした。左手の小指が使えないだけでひどく不自由だった。稲株をほんの少ししか握ることができないし、力がさっぱり入らなかった。父ちゃんや母ちゃんも総出でやったが大して捗らなかった。
ぼくは再び病院へ行った。今度は学生帽をきちんと被り、学生服にブラシもかけて出かけたのに、あの准看生の姿は見えなかった。傷口はふさがっていて、すぐ抜糸された。しかし、日数がたちすぎてガーゼが肉にくっついてしまい、それをむしりとったあとがまた傷になった。
「すぐ来ないからよ」と年輩の看護婦が言った。「いま忙しいんでしょ。私ん家も農家だからわかるわ」
彼女は愛想がよく、包帯巻きも手際よかったが、ぼくはあの准看生に会えないことが心残りだった。
稲刈りの最盛期は早足で過ぎていき、吉井さんでは晩生種の田んぼが少々刈り残っているだけだった。それも間もなく終わり、脱穀作業に入った。
家の軒先や木の枝先に雪虫が舞うようになったと思ったら、日足が縮まり、登校のときにも自転車のライトを点けなければならなくなった。夜の時間が長くなってくるのは憂鬱だった。冷えた夜気のなかを行くとき、きっとあの准看生のことを思い浮かべた。だが日ごとに、どんな顔をしていたのかわからなくなってきて、自分の頼りない記憶力を恨んだ。
十一月に初雪が降った。そのあと降ったり融けたりを繰り返したので、ぼくも木崎も無理をして自転車で通学した。登校する時にはさほどでなかった雪が、下校する時にはすっかり積もっていて、自転車を押して帰らなければならない夜がきた。タイヤと泥除けの間に挟まる雪に閉口しながら、歩くしかないことを観念した。
歩いて通うと高校は急に遠くなった。自転車では二十分しかかからなかったものが一時間もかかる。登校する時、途中でバスが追い抜いて行った。四線市街の停留所からその便に乗れば、十分くらいで高校に着いてしまうのだが、定期券を買う余裕はなかった。後ろからバスのライトに照らされると、貧しい自分の姿が乗客たちの前にさらされる気がして、あわてて道路の脇へよけた。
収穫作業が一段落したあと、父ちゃんは造材山の仕事をみつけた。造材作業ではなく飯場の雑役で、吉井のおじさんが世話してくれたものだった。おじさんと剛さんは馬をつれ、父ちゃんもいっしょにバチバチに乗せてもらって出かけて行った。ぼくも冬場にやれる仕事がほしかったが、農閑期だけで、しかも夜は高校へ通うという条件に合うところはなかった。ときどき学校を通してくるアルバイトの口はみんな上級生にとられ、一年生は相手にされなかった。
それでも納屋には収穫した米俵が積んであるし、ムロには
行商が入れかわり立ちかわり訪れた。母ちゃんは、犬に
衣服の行商が来たとき、母ちゃんはぼくの体にセーターとメリヤスの肌着を当てて大きさを計った。ぼくが「いらん」と言ったのに買ってしまった。また母ちゃんは自分の衣類を買った。自分の体に関してはやたら神経質で、いつも着ぶくれるほど着込んでいた。「わし、体弱いからね、冬はたくさん着ないとすぐ風邪ひくんです」と言うと、行商人はここぞと「これなら絶対寒さ知らずですよ」と高い製品を何枚も引っ張り出しては勧めた。ぼくは山で働いている父ちゃんに申しわけない気がした。
雪道を歩いて通学すると、中士別から通う上級生といっしょになることが多くなった。自転車に乗っていたときはいつ登校しいつ下校するのかわからなかったのが、冬になって寒いせいか、上級生も授業が終わるとすぐ帰るからかもしれなかった。
成沢さんは相変わらず、ぼくたちが顔を赤らめることを平気で言った。口の回転も早いが歩くのも早い人だった。ぼくも木崎も急ぎ足になった。
「おまえら知っとるか、〈オキナ〉がな、あんな顔しとって居酒屋の女に入れあげてんだぞ」
ぼくは自分たちの担任のことだから興味を持って耳をそばだてた。
「三十すぎくらいでな、ちょっと肉感的なんだ。そいつのアパートまで押しかけては、夜な夜ないい線かっちゃいてるっちゅうぞ」
授業中の担任を思い浮かべた。眉間に縦皺が一本入っていて、いつも難しい顔をしていた。とても信じられない話だった。
「想像できないすね」と木崎が言った。
「先公も人の子よ。おれたちと同じ、あのことしか頭にないんだわ」
言い方がおかしかったので、ぼくたちは声をあげて笑った。
「なんせかんせ一生に一斗しか出んちゅうからな、おまえらも大事に使わんとだめだぞ」
あけすけな成沢さんの声が、夜更けの静まった家々に聞こえるようで冷やひやした。
四年生の曽根さんは柔道部の
「君ら、将来なんになるか決めてるんか」と突然聞かれた。ぼくも木崎も答えに詰まった。いい職場に就きたいとは思っているが、それは遠い将来のような気がして、見当もつかなかったのだ。
「いいえ、まだです」
「まあいい」と曽根さんは一呼吸して言った。「おれはな、高校を出たらブラジルに渡るんだ」
「ブラジル?」
「そうよ、南米のブラジルだ。断じて馬の足の裏なんか叩きたくねえや」
曽根さんは四線の
「ブラジルで森林を拓いてコーヒー栽培をやるんだ。サンパウロ州には広い土地があってな、日本からの移民を待っとる。どうだ、君らも高校出たら行かんか」
「…………」
「何億も星があるっちゅうのにみんな光り方が違う……」曽根さんは空を見上げて言った。「人間も一人ひとりみんな違うんだ。たった一回の人生を、親の言いなりになんかなるもんか。おれはおれが生きたいように生きるぞ」
頭の上のはるか彼方に砂粒のような星が散らばっていた。ごつい体つきの曽根さんに星のたとえは似つかわしくなかった。しかし、その言葉には決意がこもっていた。自分に言い聞かせているようでもあった。コーヒーの木がどんなものかわからないままに、広い畑で働く曽根さんの姿を想像した。
生きたいように生きる――同じ言葉をぼくも心のなかで
冬休みに入り、時間はあり余るほどあった。玄関先の道路の除雪や、家と納屋の屋根の雪下ろしをやり、それから教科書を開いたり、高校の図書室で借りた本を読んだりした。それに飽きると吉井さんへ行ってテレビを見せてもらった。おばさんは俵編みをしながら、友子は菓子をつまみながらテレビを見ていた。いつも歌謡番組かメロドラマだった。
木崎のところへも遊びに行った。木崎の家はうちと同じくらいちっぽけで、玄関前にハサ木を立て稲藁を並べた風除けがしてあった。雪原のなかに埋もれている家は、海で難破した小船のように見えた。茶の間は
二人で
年の暮れが近づき、父ちゃんが山から戻ってきた。陽に
父ちゃんに面白くないことがあるようだった。それは吉井のおじさんがきて話すのを聞いてすぐ知れた。飯場の雑役を年内でお払い箱になってしまったのだ。正月から
吉井さんからモチ米を分けてもらい、
正月に市街へ出て、上原と映画を観た。冬休み中にスカッとする洋画を観る約束をしていたのだ。映画館は正月だというのに客の入りはさっぱりだった。スプリングの飛び出した椅子を避けて、真ん中辺のいい席を選んで掛けた。眼が暗さに慣れてきて、やっとあちこちの人影に気づいた。以前、成沢さんに聞いた、男の誘いを待っている女たちがいるか眼を凝らして見たが、よくわからなかった。
そんなことよりスクリーンの中にすぐ引き込まれた。ドイツ軍に捕らえられたレジスタンスの男が刑務所にぶち込まれる。彼はくすねたスプーンを床のコンクリートで研ぎ、それでひそかに扉を削っていく。仲間は次々に処刑され、いつ彼の番がくるかわからない。ついに脱出決行の夜、ぼくは自分が主人公になりきってしまい、カタンと館内で音がしても看守に見つかるのでないかと心臓がとまりそうになった。息づまる緊張ののち、ようやく高いコンクリートの塀を乗り越え、闇の中に消えたところで、やっと力が抜けた。手にびっしょり汗を掻いていた。
映画館を出ておやき屋へ入った。汚いテーブルに差し向かいに坐ると、上原は「羽生を殴ってやった」と言ってぼくを驚かした。何でも、年末にラーメン屋で羽生に会い、ほかの士高生がいる前で、このごろ生意気だぞ、と言われた。上原は黙ってラーメンを食べ、羽生が食べ終わるのを待って玉運寺の境内へ誘った。サシで勝負するべ、というと羽生はうろたえ、不意を突かれたせいか、攻撃用のベルトを準備していなかったせいか、上原に殴られっ放しだったというのだ。
「何だか信じられんなあ」とぼくは言った。
「機先を制すって言うべ、あれだよ」と上原は満足気だった。「まあ冬休みが終わったら奴の態度を見てみろ、わかるから」
「片桐さんに仕返しされんか」
「そこはちゃんと手を打ったさ。三年生の猪股さんに話をつけてもらったんだ。あの人、おれっ家の近所で子供の頃から知り合いだから」
猪股さんというのは、応援歌の練習のとき、すっぽかして帰ろうとしたぼくと木崎を
「おまえって、なかなかやるなあ」ぼくは上原のすばしこさに感心した。
「勉強以外のことならな」上原はそう言って笑った。
おやきがきて、ぼくたちは飢えた犬みたいにそれにかぶりついた。衣も
木崎の家へ行ったとき、ぼくはその話をした。木崎はあまり嬉しくない様子だった。木崎の仇を上原がとってくれたのだからきっと喜ぶだろうと思っていたのに、彼は逆にぼくを咎める言い方をした。
「上原と付き合うのは感心しないな」
「なんで」
「あいつは要領がよすぎる」
「そんな悪い奴じゃないよ」
「だからよけい困るんだ。小狡いところがある」
「そうかなあ、おれはいい奴だと思うけど」
「おまえは人を見る眼がない、その点はおれのほうが上だ」木崎は眼鏡越しに真っすぐぼくを見た。「おまえらの後ろの席で、いつも見てるからわかるんだよ」
「…………」
自分が負かすことのできなかった羽生をいとも簡単にやっつけた上原に、木崎は妬みを抱いているのかもしれなかった。また、ぼくが弱い木崎を見捨てて強い上原に
「おまえが本気になれば、羽生だって上原だってかなわんと思うけど」とぼくは言った。それは何だかとってつけたような言い方になった。木崎もそう感じたのか返事をしなかった。
喧嘩をしてしまえば喧嘩の力だけで人の優劣が決まってしまう。羽生はこれからも木崎に睨みをきかすだろうし、羽生を負かした上原だって同じ態度に出るかもしれなかった。ぼくはそういう力の関係に入る気はなかった。それでいて、たとえばぼくと上原の関係はどうかといえば、上原の態度はぼくを上位において振る舞っている。それはぼくの教科の成績が彼より上位にあるからだ。学業の力が生徒同士の間でも物を言うのだ。実際、テストのとき、ぼくは上原にカンニングをさせてやったりしていた。
ぼくはまた上原が木崎が言うような悪い奴とは思えなかった。上原は映画館の情報にくわしく、うまいラーメン屋やおやき屋を知っている。田舎者で世間知らずのぼくにマチ場の面白いところを教えてくれる。危険な匂いがしないではないが、とにかく上原といると楽しかった。そして上原はよくぼくを誘った。ぼくに断る理由がないので付き合うことになった。
冬休みが終わって、三学期が始まった。
大雪が降ったあと家の屋根の雪下ろしをした。全身に汗を掻き、肌着一枚になって作業を続けた。茶の間に戻ってから
……何時ころか、暗闇で女の人の呼ぶ声が聞こえた。母ちゃんが起きて茶の間の電灯を点けた。玄関で「まあ、どうしたことかねえ」と言っている。相手が誰なのか、声が小さくて聞こえなかった。ぼくは耳を澄ました。
「そんなら、うちのは一人で行ったんですか」とか細い声がした。木崎の母親とわかった。同時に、木崎に何かあったのだと直感した。母ちゃんが戻ってきて聞いた。
「邦夫、きょう学校で遅くなることあるんか。……木崎さんがまだ帰ってこんのだと」
ぼくは枕元の目覚まし時計を見た。針は十二時を過ぎていた。
「こんな時間まで残ることはないよ」
声が喉にからんだようにかすれた。ぼくの位置からは茶の間の上がり框は見えなかった。
「学校に電話してみましたか」
「いいえ。まだ誰かいるでしょうかね」
「小使いさんが泊まっとるから、連絡つくと思うけど」
「じゃあ、郵便局から電話でもしてみっかね」
「この吹雪んなか、心配だね」と母ちゃんが言った。
それから少し沈黙があって「休んどるとこ、すんませんでした」と言う声が消え入るように聞こえた。
「ちょっとお待ちなさい」父ちゃんが起きながら言った。「わしもいっしょに行ってみましょう」
「そんな、夜更けに申しわけないこってすから」
「いや、夜更けだから心配だ」父ちゃんが着替えているらしく、声が勢いづいて響いた。「まあ、学校で吹雪やむの待っとると思うけんど」
「きっと、そうです。先生がそうしとるでしょ」と母ちゃんも口を合わせた。
「そんならいいですけんど」木崎の母親の声が不安そうに聞こえた。吹雪はおさまってきたらしく窓の外の音は小さくなっていた。
二人が出て行ってしまうと家はしんとした。母ちゃんがストーブに薪をくべる音がした。汗が顔や胸にとめどもなく流れ、寝間着がぐっしょり濡れて気持ちわるい。とうとうぼくは布団を抜け出して茶の間へ行った。体中から湯気が立ち昇るようだった。
「木崎、どうしたのかな」立って声を出すと頭がふらついた。
「寝てないとだめでないか」と母ちゃんが言った。寝間着を取り替え、また薬を飲んで布団に入った。「心配せんでいい、今ごろ、うちに帰ってるさ」と言う母ちゃんの声にも気が静まらなかった。
父ちゃんはいつまでも帰ってこなかった。やがて体中が熱くなり汗ばんできた。意識が薄れ、再び眠りに引き込まれた。遠くで木崎が呼んでいる気がした。
翌朝、父ちゃんはいつ戻ったのか布団に寝ていた。起こして聞くと「夕べは消防団に頼んで捜したけんど、とうとうわからんかった」と言った。
「じゃあ、木崎は学校におらんかったの」
「ああ、どっかの家に泊めてもらってでもいればいいんだが」
ぼくは心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。体温を計ると平熱に戻っている。朝食をとったあと、母ちゃんが「まだ本調子でないんだから」というのを押して、木崎の家へ向かった。
玄関前に乱れた足跡がたくさんあって胸騒ぎがした。戸を開けると見知らぬおばさんがいて「いま消防団の人が天塩川の辺りを捜しとるよ」と言った。ぼくは五線道路を通って天塩川へ向かった。空はよく晴れて、陽の出を迎える東の空が黄味を帯びていた。昨夜の嵐が嘘のように静かだった。耳が痛いほど冷たい。両手で耳を押さえると、木崎もしょっちゅう耳を押さえていたことを思い出した。
いつもの通学路に入ると天塩川が見えた。向こう岸の
橋の欄干のところに、サングラスをかけた消防団員と、鳥打ち帽を被った男の人が立ち話をしていた。ぼくは近づいて聞いた。
「木崎君はまだ見つからんのですか」
「ああ、まだ見っからん」とサングラスの消防団員が言った。
「あんた、同級生か」鳥打ち帽を被った人が、ぼくの学生帽を見て聞いた。
うなずくと二人とも咎める眼つきをしたように思えた。木崎が吹雪のなかをさ迷っているとき、ぼくはただ家で寝ていたのだ。汗が全身から吹き出るようだった。
「いつもここ通って帰るんだよな」と鳥打ち帽の人が聞いた。「吹雪いた夜は道が見えんくなるかい」
「ええ」ぼくはまたうなずいた。「だから、電柱を目当てに歩くんです」
「橋のところはどうだね」
「欄干の間を行けばいいから」
「吹きっさらしになるから雪に塞がれることはあるまいしな。どこへ行ったもんだか」
山の頂に太陽が出て、一気に雪原に光が広がった。それは上空から射してくるというより、雪面がいっせいに輝き出す感じだった。橋から森へかけてカーブする道路がくっきり見え、森は青黒く静かだった。――事故なんかではない。木崎は今に、どこからか頭を掻きながら現われるに決まっている、と思った。陽の光は眩しいだけで少しも暖かくなかった。ぼくはまた冷たくなった耳を両手で押さえた。
「夜、高校へ通って、将来何になる気だね」とサングラスの消防団員が聞いた。
どう答えたものか戸惑いながら黒い二つのレンズを見た。寒そうな顔をしたぼくが映っていた。その時、遠くで叫ぶ声がした。確か「いたぞーっ!」と聞こえた。声が聞こえたのは橋の下流で、流れが蛇行しているところだった。そこで手を上げている人影が小さく見えた。
二人が欄干の端から雪原へ駆け出し、ぼくも後を追った。
消防団員が水の中から黒っぽい物を雪の上へ引き上げているのが見えた。ぼくはそこへ近づきながら、早く行こうとする気持ちと反対に、怯えが募るのを感じた。途中、楊柳の生えている横を通るとき、枝がぼくの首を叩くように擦った。
木崎は雪の上にいた。全身ずぶ濡れで、身を屈めるように横たわっていた。回り込むと眼をつぶった顔が見えた。マフラーも眼鏡もなく髪の毛が額に張りついていた。血の気の消えた顔が、別な物体に変わってしまったことを表わしていた。体が震え、口から「木崎、木崎」と声が洩れる。ふいに熱いものが眼からあふれ出た。それは拭っても拭っても流れ続けた。
木崎は担架に乗せられて運ばれていく。ぼくもついていきながら、怖くてまともに見ることができなかった。道路へ馬橇がやってきて、もんぺ姿の女の人が転がるように雪のなかへ落ちた。木崎の母親だった。木崎の体にすがりつき、雪の上を這った。「あーっ、あーっ」と
木崎がなぜ橋の三百メートルも下流に行ったのか、それは本人にしかわからない、いや、本人もわからないことかもしれなかった。みんなは彼の近視のせいにしたが、吹雪道はほんの一歩の錯覚が人間をとんでもない場所へ連れていく。それは実感としてぼくも知っていた。
高校では、それから吹雪のたびに集団下校をし、全校生徒がいっしょに帰るようにした。しかし農村から通っている生徒は各方面ごとに集団になれる人数がいるわけではなかった。できるだけ上級生と帰ったが、いつもそううまくはいかない。何日も吹雪が続き、一人で帰らなければならない夜もあった。雪明かりで視界はほんのり青みかかった闇になり、夏の真っ暗闇より見通しがきく。それでも、恐怖は以前にも増して強く感じられた。
峠下のカーブから天塩川の橋までの間は、いつも吹きさらしだった。北風が正面からぶつかってくるので、顔が痛くて眼を開けていられない。吹き溜まりも多く、行き先の見当がつかなくなる個所だった。木崎が道に迷ったのもこの辺りだろうと思うと体が強張った。ぼくは鞄を楯のように前へ立てて顔を守り、ときどき眼の端に電柱を確かめながら歩いた。それでも、もしかしたら勘違いをして川へ向かっているのではないかと疑ったりした。
電線に当たる風が悲鳴のように鳴る。その音が葬式のとき木崎の母親が半狂乱になって泣き叫んだ声とだぶった。木崎の顔が浮かぶ。父親のことを話したときの眼鏡の中の歪んだ小さな眼、帽子に塗った馬車油が垂れて黒く汚れた首筋、羽生に殴られたときの地べたにうずくまった姿……。どれも悲しい記憶だった。一生懸命に耐えてきて、何のいい目も見ないで死んでいった木崎が哀れでならなかった。
闇のなかから切れ間なく地吹雪が吹きつけた。鞄の後ろに顔を当てていても息が詰まった。体を前へ倒しているのに風圧で起こされ、揺さぶられ、飛ばされそうになった。頭の上を獣の吠える声が
「畜生! ……畜生!」
ぼくはわめき立てていた。声は口から出たとたんに吹き飛ばされ、吹雪の音にかき消された。負けまいと何度も何度も叫ぶ。叫んでみたところでどうにもなるものでないのに、叫ばずにはいられなかった。
二、梟たち
ぼくたちは二年生に進級した。新入生が入ってきたので、クラスメートのなかには急に偉そうな態度をとる者がいた。しかし、偉ぶることができるのは一年生の前だけで、ぼくたちの上には三年生と四年生がいるから大きな顔はできないのだった。雪が融けて自転車に乗れるようになり、通学が楽になった。ペダルを踏んでさえいれば口笛を吹いていても学校へ着いてしまう。下校時も、行き先が見えない吹雪の夜や、体の芯まで凍りつきそうな酷寒の夜に比べたら、ただ暗いだけの夜はどうってことはなかった。天塩川の手前の森から、ときどき聞こえる押し殺したような
田植えは、うちも吉井さんも順調に進んだ。小指の傷跡は不恰好なふくらみを帯びたが、とうに治り、爪も伸びて元どおりになっていた。先のほうに触ると気持ちわるい感覚があって、神経が切れておかしくなったのかもしれなかった。それでも、もう農作業に差しつかえはなかった。――農繁期には徹底して仕事をやる。勉強はみんなについていくだけでいい。帰宅後も予習や復習はしないで、時間があったらゆっくり寝て労働に備える。そして農閑期になったら、勉強に専念して遅れを一気に取り戻す――田んぼを這いまわりながら、そんな見通しを立てていた。一年間の経験から少し余裕が生まれたのだ。
校内マラソン大会の日、全校生徒がグラウンドに集まった。太陽はまだ西の空にあり、ぼくたちの列を長い影にした。ほとんどの生徒が体育用の半袖シャツとトレパン姿だった。なかには上半身裸でステテコをはいた者や、シャツは着ているが下は猿股のようなものをはいた者もいて、誰かが「身体検査じゃねえぞ」と冷やかした。
スタートと同時に、全力疾走と変わらない速さで跳び出して行ったのは陸上部の連中だった。彼らは張り切っていた。ぼくも上原も最初から入賞に縁がないものとあきらめ、いっしょに完走できればそれでいいと思っていた。
グラウンドを出るとき
天塩川にかかる
スッスッハッハー、スッスッハッハー……ぼくは体育の時間に習った二回吸って二回吐く呼吸法を守っていた。そのリズムがだんだん乱れてくる。始まったばかりでこんなに苦しくて果たしてゴールまで行き着けるだろうか、と案じられる。人の見ている前で落伍したくない、とも思う。
三叉路のところからコースは中士別のほうへ大きくカーブした。道路の両側に水を張った田んぼが広がり、田植えをしている人が腰を伸ばしてこっちを見ている。農家の玄関先で子供たちが並んで手を振った。ぼくも手を上げてそれに応えた。
やがて四線市街の十字路が見え、人影がたくさん並んでいた。顔見知りの商店のおばさんや郵便局の職員が「頑張れ!」と声をかけてくれた。急に元気が出て早足になる。右に折れると、そこからぼくが毎日通う通学路だった。
一本道を行くと中央橋に至る。橋から天塩川の蛇行部分が見えた。ここを通るときはいつも川のほうへ眼がいき、雪の上に横たわっていた木崎の姿を思い出す。しかし、今日はそんな余裕もない。自分の足を一歩ずつ踏み出すことだけで精一杯、しだいに他人の眼なんかかまっていられなくなってきた。
峠下の山裾から左へカーブする。ここから登り坂で、いよいよ息苦しくなった。足が重くて上がらない。平坦地のリズムに慣れた心拍が乱れ出し、同じ場所で足踏みをしているみたいだった。めまいが起き、気持ちのわるい汗が全身に吹き出す。道端に身を捨てたらどんなに楽かと思う。何度も力が抜けそうになった。このまま心臓麻痺で死んだら、体育教師や生徒会の奴らを窮地に追い込むことができるだろう。面白い、死んでやろうじゃないか、と捨て鉢な思いに取りつきながら、ほとんど半病人のようになって峠を登った。
頂上に達すると、足下に広がる町並みの屋根の辺りから涼しい風が吹きつけた。よし、生き返った、と感じた。下り坂の惰性で急に足が軽くなり速度が増す。
校舎前の道路の両側に、すでにゴールに入った者が並んで迎える。拍手が沸いた。最後の順位争いだった。数人しかいない女子も何か叫んでいた。ふいに全身に力がみなぎる。ぼくの眼の前に上原の後頭部が上下している。ぼくは彼を抜こうと横に出た。気づいた上原が言葉にならない声をあげる。競り合ってゴールへ入った。
ぼくは七十一位の札をもらい、上原は七十二位の札をもらった。「どうだ」と勝ち誇るぼくに、上原は「やられた」と顔をしかめて残念がった。百五十人走ってこんな成績だから一番違いなど大したことではなかった。上原が笑い、ぼくも笑おうとしたが、胸が痛くて大息をつくばかりだった。二人で草むらにあおむけに寝て、濃い青みを帯びはじめた空を見上げていた。全身からいつまでも汗が滲み出た。
配られた牛乳を飲んでいると、最後に四年生の運転するオート三輪が落伍者を乗せて来た。誰もが情けない顔をしていた。彼らを笑うことはできなかった。ろくな物も食わずにこき使われている者たちは、体力がなくて当たり前だった。ぼくも峠の途中で何度もうだめだと思ったことだろう。それは紙一重の差だった。しかし、ぼくは走り切った。彼らと違う人間だった。おれはどんなことだってやってのけられる――そんな自信が胸に満ち溢れてきた。
すぐ表彰式が行なわれた。一位と二位は四年生で、三位に立花が入った。立花が賞品のノートをもらってくると「おまえに必要のないもんだべ」と冷やかす者がいた。「いやおれは頭がわるいから人一倍勉強せんならん」と応じると、「頭がわるいのは本当だけんど、人一倍やるわけないべ」とまた誰かがからかった。「うるせえんだ、この」立花は怒鳴りながらも嬉しそうだった。弾けるクラスメートの笑い声が空に舞い上がっていく。ぼくも爽快な気分だった。体の中にくすぶっていたものがすっかり燃え尽き、気持ちが透き通っている。……
高校の生活に慣れてきたせいか、テストのときカンニングをやる者が多くいた。最も普及しているのは、名刺ほどのカンニング・ペーパーを
久保は名人芸といってもいいほど巧みだった。彼のカンニング・ペーパーはテスト用紙の半分くらいはある大きさで、四辺に細かい文字がびっしり書き連ねてある。それを大胆にもテスト用紙の下に敷き、一辺を少し引き出しては見るのだ。教師が回ってきたら、テスト用紙の下に隠して知らん顔を決め込む。ぼくはそのシーンを想像しただけでどきどきしてしまう。彼は平気で、頭を傾げたりしてさも考えている表情をつくろった。
「おれは几帳面だし、ちゃんとこやって勉強してんだわ。みんなと違うのは覚えられないことだけなんよ」久保は真顔でそんな話をした。すると、案外、彼はそうやって世の中を渡っていく気がした。
上原は二年生になってもぼくの左側の席だったので、よく合図を送ってきた。ぼくもわからない答えがけっこうあるのだが、それに応えて合図してやった。彼が机の横板に指を出して何問目かを示すと、その答えの数字を同じように指の数で教える。教師に見つからないよう、顔を動かさず横目を使って行なわなければならないので、素早い気配りが必要だ。彼の最も不得意な科目は英語で「どうしても単語が覚えられん」とこぼしていた。単語のスペルは指の数では伝えようがない。
上原はカンニング・ペーパーまで作りはしなかった。紙片を隠し持っていてはどうしても動作が不自然になる、というのだ。そこでペーパーなしの方法を考え出した。それは掌に直接単語を書くやり方だった。「あんまし小さい字は書けんから語数が限られる。ヤマ勘を働かさんならん」としかつめらしい顔をして言った。
英語のテストのとき、教師は用紙を配ったあと、ふいに全員の下敷きを集めた。それから「始めろ」と号令をかけ、教卓の上で下敷きを一枚ずつ点検しはじめた。何だか不穏な空気を感じて、ぼくにやましいところはないのに落ち着かなかった。
テストが終わると下敷きは返されたが、数枚が教師の手元に残り、持ち主が呼ばれた。それら下敷きに単語を書いていた者は、その場で全員零点を宣告された。久保も上原も下敷きはきれいだったので
「どうだった」とぼくは小声で聞いた。
「あかん、また赤点だじゃ」と上原は気のない返事をした。
「ヤマ勘がはずれたのか」
「いや、いい線いってたんだけんどな……」
上原は周囲を見まわしてから、机の下に隠していた掌を開いて見せた。掌の皮膚に青いインクで書いたアルファベットがぎっしり並んでいるのだが、どの文字も滲んで読めなかった。緊張のあまり、びっしょり汗を掻いたらしかった。
六月末に、
七月に入っても太陽が照ったのはほんの数日だけで、寒い日が続いた。なかなか稲の穂が出ず、まだ株が
父ちゃんが灰色の雲が垂れこめた空を眺めて「なあに、八月にカッと照りつける天気がくりゃあ挽回できるさ」と言った。稲は花が咲いてから四十五日あれば収穫できる。確かに日数はまだあるが、それまでに連続して太陽が顔を出すかどうか、心配だった。
夏休みに上原のところへ遊びに行った。木崎がいない今、話し相手は上原しかいなかった。彼には意識の奥に
上原の勤めるクリーニング店は月に二回の休みがあって、その日は昼から遊ぶことができた。遊ぶといっても二人ともお金がなかったから、たいていは本屋やデパートをうろついたり、腹が空いたらラーメン屋で食事をとり、あとは彼の部屋でおしゃべりをするくらいなものだった。彼はクリーニング店の二階に汚い四畳半を与えられていた。家具らしいものは何もなく、教科書類を並べた何かの空箱と、その上に古いラジオが置いてあるだけだった。雨漏りの染みた壁にオートバイのポスターが貼ってあって、それがたった一つの彼らしい装飾だった。
押し入れの
「そのあとで弟が生まれて居づらくなった。よくいじめてはおふくろに叱られたもんさ」
「ヤキモチ焼いたんだな」
「うん。……まあ二番目の親父はおとなしい人だけんど、ケチなんだ。おふくろが気をつかうのが辛くて、中学終わったら飛び出したさ」
中学校の同級生といっしょに撮った写真もあった。木造の校舎をバックに、強い陽射しを受けて誰もがしかめっ面をしていた。上原の顔はすぐわかった。おかしいほど幼い感じだった。世の中を斜めに見ているような、居直ったような今の態度はどこにも見出せなかった。
話は尽きなかった。猪股さんが盆踊りの夜に名寄農業高校の番長と睨み合ったとか、柔道部の連中が学校帰りに学生服を脱いでバーへ入ったとか、三年生が下級生を使って本屋からエロ本を万引きしたとか、上原はぼくの知らない話をたくさん知っていた。四年生の一人が下宿の女の人を妊娠させ、クラスメートに子を堕ろす資金をカンパしてもらったと聞くにおよんで、ぼくは自分がまるで子供だと思った。そんな出来事が、同じ校舎の同じ学生服を着た者たちの生活にあるとは信じられなかった。
上原がカツ丼を
上原の悪ずれした行為をさらに見た。吉井さんから草取りの出面賃をもらって、いっしょに映画を観た夜だった。映画館から出て通りを帰る途中、上原が立ち止まって「これ、細かくしてもらってくれんか」と、百円札を出した。雑貨屋の前だった。ガラス戸越しにおばあさんが店番をしているのが見えた。
自分でやればいいのに、と思いながら、お札を受け取って店の中へ入った。ぼくはおばあさんに両替えを頼んだ。おばあさんは「買うんでないのかい」と厭味な言い方をしてから、十円硬貨を掌に載せてくれた。入口の近くに上原がジャンパーのポケットに両手を入れて立っていて、ぼくが戻っていくと同時に外へ出た。
店を出て少し歩いてから「成功!」と上原が言った。彼はジャンパーのポケットから両手を出した。手のなかに大きなリンゴが一個ずつ握られていた。ぼくは自分が何の役目をしたのかわかった。声が出ず、上原の顔を見つめていると「びびることないべ、もうやっちまったんだから」と軽く言って、片方のリンゴをぼくによこした。いままで食べたこともない大きなデリシャスだった。
「おまえがこんなことするとは思わなかった」そう言いながら受け取っていた。
「どうってことない、ちょっと拝借しただけだ」と上原は言った。「大人になったら、まとめて世の中へ恩返しするさ」
彼はリンゴをズボンの腿のところで擦ってから、カリッと音を立てて
クラスの女子を騒がせる事件が起きた。隣の席の小森が、学校帰りに変な男に追いかけられたというのだ。小森の家は高校に近いが、郊外のほうなので人通りが少ない。昨年までいっしょに通っていた兄が卒業してしまい、女一人で通うしかなくなった。これまで二度も男に追いかけられたとのことで、学校を通じて警察へ連絡し、パトロールを増やしてもらった。教師が同行したりもしたが、そういうときには出てこないという。
「いったい、どんな人なの」と級長の松本が聞いた。女同士で他人事とは思えなかったのだろう。
同級生の視線が小森へ集まった。小森はソバカスだらけの顔を上げ、怒ったような口調で言った。
「……よくわからないわ」
「爺か若いもんかもわからんのか」今度は立花が聞いた。
「何だか、若い人みたい」
「何かされたか」
「…………」
みんな聞き耳を立てたので教室はシーンとなった。
「……触ろうとするの」小森は屈辱に耐えられないというような声を出した。片側の髪から出ている耳が赤かった。
「股ぐら、蹴っとばしてやりゃあいいのに」
「私、おっかなくて逃げるだけだもん」
「家族で迎えに来てくれる人はおらんのか」
「兄さん、いま木工場に行ってるから夜勤のときは来れないの」
「いつ出ると決まってるんなら、とっちめてやるんだが」
「いつ出るかわからないから心配してるんじゃない」松本は両手で自分の体を抱くようにして身震いした。
「下山はどうした、同じ方角でないか」
「……おれ、先月から会社の寮に入ったから」窓ぎわの席から下山のとぼけたような声が聞こえた。
「おまえなら送り狼だべや」立花の冷やかす声に笑いが沸いた。
「冗談言ってる場合でないっしょ」松本が怒って立花を咎めた。立花は首をすくめて謝った。
「よし、今夜はおれと水谷がついていっちゃるわ。な、いいべ」と、彼は同じ陸上部のクラスメートを誘った。「帰り、軽く走ってくるべ。夜はランニングにもってこいだぞ」
立花の頭の中は走ることしかないみたいだった。今夜はいい、しかし明日はどうなるのだろう、明後日は……。小森は気が気でないだろう、と思った。
上原がぼくの耳元に口を寄せて「あいつの顔、昼間見たんなら絶対その気にならないけんどな」と
ある夜、上原がぼくに小声で言った。
「イモ高とやることになった。授業おわったら付き合ってくれや」
イモ高というのは名寄農業高校のことで、帽章にジャガイモの葉をあしらっているのをからかった呼び方だった。そのころ、隣町の名寄高校や名寄農業高校との反目がエスカレートしていた。道路で擦れ違っただけで因縁をつけたり、運動会や学校祭に徒党を組んで乗り込み、騒ぎを起こしてきたりする者までいた。上級生たちはそれを愛校心の
とくに名農は同じ定時制――彼らは農閑期に通学する季節定時制だった――で張り合っていたし、また進学校の名高に比べ、乱暴者が大勢いて相手にとって不足ない存在だった。
猪股さんから指令が出て上原にも声がかかり、彼はそれを、自分が選ばれた、というふうに受けとめているらしかった。
「いつ猪股さんの子分になった?」とぼくは聞いた。
「そんなんと違う」
「何が違う。猪股さんの言うこときいてたら本当の不良になっちゃうぞ」
「……しようがないんだ。行きがかり上もう後へ引けん」
「そんなもん、行かないば済むことでないか。関係ないのに巻き込まれることないべ」
「だって、やる気のある奴はたいがい行くぞ」
「おれは行かん」
上原は口を
下校するとき、上原は羽生や立花などと待ち合わせていた。連れ立って九十九山の神社境内へ向かうはずだった。ぼくはいつもの道を一人で帰った。しかし上原の誘いを断ったことが頭から離れなかった。もし彼が怪我でもした場合、ぼく一人が安全な場所にいることは許されない気がしてきた。その考えが頭の中を駆けめぐり、とうとう東山峠の頂上付近で自転車をUターンした。上原たちに追いつこうと急いでペダルを踏んだが、営林署の前にも公営住宅の付近にも姿は見えず、いつか九十九山の麓まで来てしまっていた。
ぼくは鳥居の横の草むらに自転車を伏せ、境内に入った。喧嘩をするとなれば、人目に触れない奥のほうに違いなかった。山頂の
突然、闇のなかから「猪股か!」という声が聞こえた。身がすくんで黙っていると、樹々の間に人影が動いた。暗さに慣れた眼に何人かの学生帽が見え、自分のうかつさに気づいた。
「違います」と答えながら、来た道を振り返るとそこにも人影が現われた。ぼくは取り巻かれてしまったようだった。
「どこの生徒だ」
「……士高です」
「そうか、おまえ偵察に来たんか」
「いいえ」
「じゃ、何しに来た」
「…………」
返答のしようがなくて困っていると、横から現われた生徒が「この野郎!」と言って、腰をかがめるようにした。蹴りを入れる仕草だとわかったので、とっさに体をよじり急所を守った。同時に腿を蹴られた。その直後、鼻の奥にきな臭いものが弾けて、地面に倒れてしまった。顔を殴られたのだ。
やられる、と観念したとき、後ろからわめき声が沸き、大勢の足音が入り乱れた。「皆殺しにしちゃれ!」という声も聞こえた。片桐さんの声のようだった。周囲でいっせいに人が揉み合い、殴り合う音が聞こえた。
ぼくは腹を蹴られ、息が詰まる痛みに侮辱を感じた。怒りが込みあげ、手探りで足を引っ張る。相手はうまい具合に転んだが、すぐ飛びかかってきた。寝たまま拳を振りまわすと、中指の付け根に痛みを感じるほど手応えがあった。それから相手の体に馬乗りになったり、逆転されたりして、無我夢中になって殴り合った。怯えが吹っきれ、地獄の果てまでいってやるという荒くれた気持ちがみなぎった。意識が一気に空白になったようだった。……
上原が「大丈夫か」と言った。体中汗まみれで、不思議に爽快な気分だった。この感覚は前に経験があると思った。体のあちこちが痛いのを除けば、校内マラソンが終わったときと同じだった。名農の生徒はみんな逃げ出したらしかった。上原が夜目にも白いハンカチを出してよこした。ぼくは鼻の下が濡れていることに気づいて、それで拭うと黒く染まった。鼻は痺れたようにまだ痛かった。
「みんな、よくやった。祝杯でもあげるか」と猪股さんが煙草を一服うまそうに
「いいすね」と誰かの声がした。ほかの者たちも煙草を喫い出したので、闇のあちこちに蛍が現われたようだった。
片桐さんがぼくのほうを向いて「おまえ、いい度胸してるな。見直したぞ」と言った。そんなんでない、と言いたかったが声が出なかった。
今度は猪股さんが「みんなといっしょに行動せんとだめだ。タイミングがずれたら怪我するとこだったべ」と優しい声で言った。はい、と言いそうになって唾を飲み込んだ。
「だけど、よく来てくれたな」横でかすれた声を出したのは羽生だった。あのすねたような視線でぼくを見つめているのを闇のなかに感じた。
「親友だもんな」と上原が陽気な声を出し、それからぼくの手を握ってきた。木崎の忠告は当たっているかもしれない。木崎は喧嘩をしてもぼくを巻き込むことをしなかったが、上原はいつもぼくを共犯にする。それもしだいに深みへ引き込むように。そのとき、上原の生あたたかい掌の感触を薄気味わるく感じた。
一週間後、汽車通の士高生二名が駅の便所で名農生に殴られた。喧嘩に加わった生徒ではなかった。「仕返しするのか」と上原に聞くと「やるしかないべな」と答えた。殴ったら殴り返す――両方で同じことを考え、同じことをやっている。シーソーゲームのようなものだと思いながら、今は彼らが暴力に魅せられる気持ちがよくわかった。息詰まるような緊張、頭の中が空っぽになる狂気、……死に近づいていく興奮といえるかもしれない。
ときどき太陽が顔を見せるようになり、天候はどうやら持ち直した。稲の開花は遅れはしたが八月末までにまばらに咲いた。晴れる日が続いて九月に入った。昼間晴れると夜は逆に温度が下がり、霜が降りるおそれがあった。霜は稲の生長を止めてしまうため、どこの農家も霜予防をして一日でも成熟を長引かせようと必死だった。そんな夜は、ぼくも学校から帰ってくると父ちゃんと明け方まで待機した。
空を仰ぐと砂金をばらまいたように星が輝いていた。父ちゃんがときどき懐中電灯で稲の状態を見た。気温が氷点下になると穂先や葉の表面がキラキラと光り出すのだ。眠りのくる夜更けになって「火を点けれ!」と父ちゃんが怒鳴る。擦ったマッチの光に浮かぶ父ちゃんの姿をねぼけ
そんな努力も一週間後にやってきた強霜に打ち砕かれた。朝、地面にバリバリの霜柱が立ち、葉や茎は一晩で黄色くなった。稲の生長が止まり、ついに冷害凶作が現実になった。
十一月に救農土木事業が行なわれた。ぼくの家は兄が亡くなってから農協をやめたので、その割当はこないと思っていた。それを吉井のおじさんが農事組合に手をまわしてくれ、仕事にありつくことができた。
朝早く、水田靴を履き、
それから三線と四線の間を流れるワッカウエンナイ川へ向かった。武徳の沢から流れてくる川で、この辺の水田農家はどこもこの川から水を引いている。仕事はその川べりに生えた
土手に着くと、川は濁った水を泡立たせながら流れていた。
「こったら増水してる時にやりづらいな」と前を行く剛さんが言った。
「しゃあない、銭もらわんならんのだから」若い男の人が
続いて大人たちは適当に間をあけて川へ入り、作業を始めた。ぼくも剛さんの隣に位置を占める。水中に踏み入れた脚は水田靴を履いているのに、冷たい川の水にじかに触れているようだった。鋸を当てる場所を探しているとゴム引きの軍手に水が入ってきた。
剛さんが鉈で払った枝を土手に放り上げた。ぼくも手早くしたかったが、鋸がよく切れないのと、切っている個所が水の中なのでだんだん渋くなり、うまくいかなかった。
誰かが後ろで「木が切れねえで息が切れるわ」と言った。振り向くと、手拭いで頬被りしたおじさんだった。眼が合ったので笑いかけた。ほどなくドサッと音がして、おじさんが土手に大きな木を投げ上げた。根元の太いところから切ってあって、やはり手慣れた仕事ぶりだった。それをおばさんたちが運び始める。
ぼくは負けまいと頑張った。吉井のおじさんに口をきいてもらった仕事だから、それに応えるために一人前の働きをしなければならない。ところが慣れない作業なので、さっぱり捗らなかった。ときどき泥水が跳ねて口に入った。塵も混じっていて唾といっしょに吐き出す。
「邦夫、そんなに頑張らんでもいいんだ。顔出しとればカネくれる仕事だから」
剛さんがそんなことを言った。救農土木事業は農家へ一時金を支給するため、仕事をつくって行なうものだという。目的は仕事にあるのでなく救済にある、と。ぼくにはその意味がよくわからなかった。後ろのおじさんも「ジンタジンタやっとりゃあいいんだよ」と言った。
灰色の空のところどころに黒い雲が垂れこめ、気温は上がりそうになかった。作業はしだいに下流へ向かい、基線道路の橋のところまで来た。橋の下から、ワッカウエンナイ川が砂利採取場の横を通って天塩川へ注いでいるのが見えた。あそこまでやれば仕事は終わりらしい。だが、まだ先は遠かった。
橋を通る人たちは決まってこっちを見下ろした。こっち側からも通行人を見返す。ゆらゆらバスが通り、車窓にセーラー服の生徒たちが見えた。上士別から士高へ通っている連中らしかった。何となく、彼女たちの眼に映る自分の姿を想像してみた。
長い時間がすぎ、やっと橋に達して午前中の仕事を終えた。みんなぞろぞろ土手へ上がっていく。足が冷えきっていて、歩くと爪先が痺れるように痛かった。
「水に浸かってたら、大事なもんが縮みあがったわ」農機具メーカーの帽子を被った人が股の間を押さえて言った。
「冷やしたら丈夫になるっちゅうべさ」誰かが半畳をいれたので、横を歩いていくおばさんたちが笑った。
「そったら元気ないっちゃ、冷害だ凶作だっていい目みせてくれんもの」
「ほんと、百姓なんてつまらねえなあ」
空気が変に寒いと思ったら、ふいに雪が散らつきはじめた。「おお、雪かあ」誰ともなく声になる。灰色の空から無数の白い小片がとめどなく舞い降りてきた。川面に落ちるとそのままスッと消え失せる。土手の枯れ草の上は見るみるうちに真っ白になり、風景が変わっていった。急に鼻水が出てきてどうしようもなくなり、ぼくは軍手をぬいで
昼食は消防番屋でとった。大部屋の
剛さんがアルミのおかず入れを開き「食ってもいいぞ」と言った。煮染めと漬物が入っていた。遠慮しないで指でつまんで食べた。ミガキニシンもフキも味が染みてとてもおいしかった。どこかのおばさんが配ってくれたお茶は味がなく、黄色いお湯という感じだった。それでも熱かったので体は暖まった。
担任の教師に冬場の仕事を探してもらうよう頼んだ。だが、凶作の影響でどこも景気がよくないという話だった。四線の雑貨店へ買物に行ったとき、店のおばさんから市街の整骨院で助手をさがしていると聞いた。おばさんは腰を痛めて通院していたのだ。仕事を選んでいる暇はなかったし、ひと冬ならどんな仕事でもいいと思ったので、夜学に通ってもかまわないか聞いてもらった。おばさんの薦めもあって住み込みに入ることに決まった。
整骨院は市街の中心部にあって、上原と行った映画館のすぐ近くだった。入口の横に〈ほねつぎ〉と大きな字で書いた角柱の看板が立っていた。家族は、おじいさんと院長夫妻、それに小学六年の男の子、その下に三人の女の子がいた。子供たちは、すぐにぼくを「兄ちゃん」と呼んでなついた。いままでの静かな暮らしとはまるっきり違う、にぎやかで忙しい毎日になった。
ぼくは朝六時に起きると、治療室のストーブに火を入れ、それから玄関前の雪掻きをする。雪掻きはおじいさんも手伝ってくれる。ぼくが寝坊していても起こさずに一人で作業を始めるので困った。あとから起きて謝ると「若いうちは誰だって眠いもんだ」と言ってくれる。親切で起こさないのかもしれないが、仕事である以上、甘えるわけにはいかなかった。
農家の患者さんはやたら朝が早く、六時半ころにはもう待合室に入る人がいた。雪掻きのあと、今度は暖まってきた治療室で、温湿布の湯沸かし器の水を取りかえ、低周波治療機のスイッチを入れ、やって来た患者さんのカルテを順に引き出しておく。
子供たちが学校へ行ってしまうと、ぼくは院長夫妻といっしょに朝食をとる。食卓にはいつもおいしいものが出た。父ちゃんや母ちゃんが家で粗末な食事をしているのに、自分だけ贅沢なものを食べていることが申しわけなく思われた。奥さんが「遠慮しないで、たくさん食べなさいよ」と言ってくれた。いつもお代わりをし、おかずはみんな平らげた。それなのにすぐ腹が空いた。うちで大したものを食べていないときはそんなに空腹を感じなかったのに、おいしいものを食べると消化がいいのかもしれなかった。
院長をぼくは「先生」と呼んだ。治療はすべて先生がやり、ぼくは指示されたとおり患者さんの包帯を解いたり、低周波を通電したり、湿布薬を塗ったりする。仕事中は白衣を着せられ、それも
先生は話上手な人だった。いつも冗談を言って患者さんを笑わせていた。笑いすぎて息がとまりそうになった女の人もいた。仕事場をこういうふうにできるのはいいな、と思った。先生は痩せて小柄な人なのに柔道四段だった。どこにそんな力があるのかわからなかった。
夜の雪道の通学が同じ町とは思われないほど楽になった。家が建て込んでいる街中は吹雪になっても行き先が見えなくなることはなかった。またゆっくり歩いても十五分もあれば着いた。上原といっしょに途中まで帰れるのも楽しかった。
高校から帰ってくると、茶の間で奥さんがお菓子を出してくれた。患者さんから貰い物があって、毎晩のようにご馳走になった。ぼくの寝室は治療室の隣の六畳があてられていた。布団に入って眼をつぶると、父ちゃんや母ちゃんのことが思い浮かんだ。雪に埋もれた小さな家で、二人ぽつんとストーブに当たっている姿が見え、わけもなく涙が目尻から耳のほうへ伝ったりした。だが、そんな思いも眠りが襲ってきて、すぐ消え失せてしまうのだった。
毎日、患者さんがやって来る。当たり前のことだが、みな怪我を治しに来るわけだ。怪我は過ちや失敗によって起こる。そういう人間の間違いを当て込んで成り立つ職業を不思議に思った。農家なら、人間は食べなければ生きていけないのだから、食糧を作ることは当然職業として成り立つ。しかし整骨院の場合、もし、みんなが用心して怪我をしなければあがったりになる商売なのだ。ところが、毎日どこかでだれかが怪我をしていた。
たった今、自動車に跳ねられたとか屋根から落ちたとかで担ぎ込まれる人は、生々しい興奮まで持ち込んでくるので、こっちまで慌てさせられた。そんななかで先生だけは冷静に処置した。ぼくも少しずつその空気に慣れていった。
学校の階段を踏みはずして落ち、手首の骨を折った中学生の腕は、はっきり段になって折れていた。整骨は医療と違って麻酔を使わない。中学生をみんなで押さえつけ、先生が手を引っ張って折れている個所を正しい位置に戻す。その間、とてつもない痛みが中学生を襲ったことは間違いなかった。しかし彼は、顔を歪め油汗を流しながらも声をあげなかった。頬にまだあどけなさが残っているその中学生の強さに、ぼくは感心した。
喧嘩をして脇腹を角材で殴られたという男の人は、角刈りの恐ろし気な顔つきだった。上半身裸になり椅子に坐って診てもらっていたが、先生が角材の跡がついた脇腹に触って「ここんとこ折れているね」と言ったとたん、先生の上に覆いかぶさった。気を失ったのだ。すっかり力が抜けてしまったその男の人を起こすのに、ぼくは全身の力を出さなければならなかった。人はまったく見かけによらない。
足を折ったという五十代の患者さんは、骨の部分は治って、筋伸ばしのため正座させられた。坐っている間は先生と冗談を言い合っていた。タイマーのブザーが鳴って正座訓練を終え、今度は先生の治療が始まった。足首を折り曲げられるたびにその人は治療台の端につかまって「うわーっ、うわーっ」とわめき立てた。しかし、治療が終わるとまたふだんの顔つきに戻って冗談を言い合うのだった。
治療室の壁に〈鬼手仏心〉と鮮やかな筆字の額が飾ってある。患者さんが痛みに耐えかねて悲鳴をあげても、治してやるためにあえて厳しく治療を行なう、先生の気持ちを表わしている言葉に思えた。
ぼくが驚いたのは、出産のあと母乳が出ないという三十歳くらいの女の人が来たときだった。先生はその人を治療台の上に寝かせると、カーテンを引いて
休みの日はギプスにするガーゼに石膏の粉をまぶしたり、奥さんが洗った包帯を一本ずつ巻き取ったりする仕事があった。どれも農家の仕事に比べたら何ほどのこともなかった。ときどき子供たちと学校ごっこをした。ぼくが教師になって治療室の黒板で漢字や掛け算を教えてやった。整骨院の裏の空地に、屋根の落雪を利用して滑り台もつくってやった。子供たちは、ぼくがすることを大喜びで受け入れた。いままで小さな子供と接する機会がなかったので、弟や妹ができたようで可愛かった。
体育の授業が終わって教室へ戻ったとき、宇佐見が騒ぎ出した。机の中にしまっておいた学生服のポケットからお金を盗まれたという。宇佐見は酒屋の息子だった。その日、得意先の飲み屋を掛け取りにまわり酒代を集金したのだが、授業時間が迫ってきて、お金を学生服のポケットに入れたまま登校したというのだ。
「落としたのでないか」と誰かが言った。
「いや、おれ体育館に行く前に確かめて教室を出たも」と宇佐見は半泣きのような顔になった。金額は八千円もあったという。
「おいおい、このクラスに泥棒がいるっちゅうんか」
「まさか、いままでこんなこと一度もなかったべ」
「他の学年の者でないか」
みんないろいろなことを言って騒いだ。体育の時間、教室に残っていた者はなかったか、ということになった。体の具合が悪くて授業に出なかった者はいなかった。それでは遅刻をした者は、ということになった。
「おお、おれが遅刻してきたよ」と浅田が言った。「だからって、おれが
浅田は以前、神社のお
「何なら、この教室のもん、みんな裸にして調べたらいい。おれはかまわんぞ」と彼はいきり立って言った。
「裸か、女子はどうする」と誰かが言った。「おれが検査しちゃる」と久保が言った。「おれも」という声があちこちから聞こえた。みんな体育の授業で汗を掻いたあとなので、はしゃぎ気味になっていた。担任は「ふざけるな」と怒鳴った。だが、どうしたものか困り果て、「盗った者が、もしこのなかにいるなら、帰りまでに職員室に持ってこい。顔を出さんでもいい、小窓のとこに置いておけば許すことにしよう」と言った。
けっきょくお金は戻らなかった。宇佐見酒店は店構えの大きな
数学の時間、教師が教室へ入ってきて教壇に上ろうとしたとき、黒板に何かがぶつかり、大きな音を立てて砕け散った。前の生徒の間から首を伸ばして見ると、石炭が粉々になって飛び散っている。教師は教壇の上からぼくたちを睨んだ。
「誰だ、投げた奴は。前へ出てこい!」
誰も返事をしなかった。教師は「こんな状態で授業ができるか」と怒鳴り、級長を呼びつけて教室を出ていった。松本はすぐあとを追った。
「誰やったんよ」と前のほうで声がした。しかし、後ろの席の者はにやにやしていて誰も応じない。石炭箱に近い席の者らしいがわからなかった。すると浅田が「コントロール悪いな。でも〈五円玉〉の奴、顔色なかったぜ」と言ったので、少し笑い声が沸いた。
〈五円玉〉というのは数学教師の渾名だった。単に鼻の穴が大きいことから名づけられたのではなく、酔ったとき実際に五円硬貨を入れてみせたことがあるという話だ。彼は全日制と掛け持ちで教えており、ときどき昼間の生徒と比べて夜間生の学力の低さを指摘したりする。若いせいか、ぼくたちの神経を逆撫ですることを平気でいうので、その過ぎる口に反感を持つ生徒もいた。
松本が戻ってきて「浅田さん、先生が呼んでるわ」と言った。
「何でよ」
「あんたがいま怒鳴った声、聞こえてたのよ。先生、廊下にいたんだから」
「ヤバイな」と彼は口を押さえた。「おれ、怒鳴ったけんど、やったんでないぞ」
「だって、浅田さんを呼べって」
「……畜生、行ってやろうじゃねえか、節穴め」と浅田は毒づいて出ていった。
「何でもあいつに疑いがかかるな」とどこかで声がした。松本は「みんなは自習しなさいって」と言ったが、教室は騒がしくなる一方だった。
間もなく浅田が帰ってきた。怒った顔をしていた。「どうだった」と誰かが聞いたが返事をしなかった。
教師も戻ってきて授業が始まった。教師は黒板に二次関数の数式を書いた。そして「さあ、これを誰かに解いてもらう。……そうだな、浅田やってみろ」と言った。ぼくは振り返って見た。浅田は教師を睨みつけた。それでもしぶしぶ教壇のほうへ歩いていき、黒板の前に立った。
「早くやれ」教師は突っ立ったままの浅田をせかした。
「…………」
「そんな簡単なものも解けないのか、この前、やったばかりでないか。全日制では一年生でやる問題だぞ」
「…………」
「なんか書けよ、まず X だろうが」
浅田はチョークをとると、腕を振りまわすようにして、どでかく「 X 」と書いた。教室に爆笑が沸いた。
「おまえ、先生をバカにしてるんか」教師はなおも鼻の穴をふくらまして言った。「なんだ、職員室ではめそめそしたくせに、みんなの前だと虚勢を張る……」
何かがパチッと鳴った。浅田がチョークを教壇に叩きつけた音だった。彼はゆっくり教師のほうへ近づいたかと思うと、いきなり背広の肩口をつかんで教卓の上に引き倒した。
「ゆ、許せん!」浅田の声は上ずっていた。「こうなったら、先生も生徒もない。男と男で話つけるべや!」
「そうだ、やってやれ」意外なことに横で上原が叫んだ。「思い知らしちゃれ」「遠慮するな」後ろのほうからも加勢する声がいくつもとんだ。
教師は浅田の手を振り払うと、言葉にならないことを言って起き上がった。顔が引きつっていた。大急ぎで教室の戸を開け放したまま出ていった。「逃げるんか、おまえ」と浅田が怒鳴った。彼の眼は三角になっていて普通の状態ではなかった。
この一件で浅田は十日間の停学を食らった。石炭の塊を投げた者は羽生だということだった。数学の教師が全日制の生徒たちに、夜間の羽生は手に負えない不良だ、と陰口を叩いたのを伝え聞き、恨みを抱いたものらしかった。しかし、羽生を教師に告げ口する者はいなかった。復讐を怖れたというより、一種の仲間意識というものだったろう。
浅田の反抗的な行為はクラスメートたちに
冬休みが終わった直後、羽生が名農の生徒をチェーンで殴り、頭を五針も縫う大怪我をさせた。一人でいるところを大勢に囲まれ、恐怖のあまり見境なく暴れてしまったらしかった。この事件が警察沙汰になり、羽生はとりあえず自宅謹慎になった。
それから間もなく、猪股さんは名農の番長に会いに行き、袋叩きにされた。エスカレートする士高と名農の対立を収めるため、自分の体で決着をつけたのだ。「気のすむまで殴ってくれ、その代わり、これで終わりにするべ、って言ったっちゅう。大した人だぞな」と上原が感に堪えないという声を出した。何だかヤクザ映画のようだと思いながら、ぼくもやはり胸を熱くして聞いていた。
その後、羽生に会ったことがある。上原と喫茶店に入ったときだった。高校では禁じている場所なので、ぼくたちは店内の客に教師が混じっていないか、慎重に見渡しながら進んだ。すると熱帯魚の水槽の蔭に、羽生がセーターにジャンパーという恰好でコーヒーを飲んでいた。前に髪の長い女がいて、年上に見えた。謹慎中なのに大胆な行動だった。彼はぼくたちを見て唇に薄笑いを浮かべたが、相変わらず眼は笑っていなかった。上原が「元気か」と声をかけると、意外にも鼻先であしらうような態度をとった。女の手前、偉ぶっているとも見えた。
しばらくして羽生は旭川の私立高校へ転校した。校長が手をまわしたらしかった。彼はこれまでに何度も揉め事を起こしていたので、学校ではやっと厄介払いをした感じだった。生徒たちもほっとした者が多かった。「これで教室の雰囲気がよくなる」と言うクラスメートもいた。上原は「あいつ、両親が離婚して、それから荒れたんだ。寂しかったんかなあ。おれならカネさえありゃあ、親なんていらねえけんどな」と言った。
ぼくはこれまで、羽生には近づかないようにして過ごしてきた。だから、彼がクラスから姿を消してもさほどの感懐はなかった。ただ何かの拍子に思い出すのは、名農生との喧嘩のあと「よく来てくれたな」と言った彼のかすれた声だった。夜道を歩いているとき、ふと耳に聞こえるようなことがあった。
ふいに上原が何日も休んだ。風邪でも引いたのかと思ってクリーニング店に電話をしてみたら「あの人、やめましたよ」と素っ気ない返事だった。理由を聞いても「さあ、いまの人は根性がないのよね」と言う。あいつに限ってそんなことはない、何かが起きたに違いない、と思った。そのうち整骨院に来ている患者さんの口から、上原の父親が国有林の盗伐で警察に捕まった、という話を聞いた。ぼくは胸騒ぎを覚えた。
数日後、新聞にその記事が大きく出た。ぼくが中学生のとき、道北一帯が風速二五メートルの台風に襲われた。国有林が広い面積にわたってなぎ倒され、その風倒木の払い下げ処分が何年もかけて行なわれていた。被害の多かった山は
土曜の整骨院は午後三時で治療を終える。先生は往診に行き、ぼくは誰もいない治療室でギプス用の石膏をガーゼにまぶす作業をしていた。そこへ電話が鳴った。
「しばらくだな」という声は、上原だった。
「どうしたんだ、全然学校に出てこんで」ぼくは思わず大きな声をあげた。
「おまえ、知らんのか」
「…………」
「新聞みたべ、親父のこと」
「……うん、少しは知っとる」
「おれ、恥ずかしくて学校へ行けんわ」
「おまえがやったわけでないべ。それにおまえの本当の父ちゃんでないんだし」
「家の中がわやなんだ。母ちゃんに泣かれて、弟も困ってる。おれ一人、好きにしておれんくなった」
上原の声には切羽づまった響きがあって、ぼくは落ち着かなくなった。
「おれ、高校やめて、どっかの町で働くわ」
「どこで働くってよ、これからは高校くらい出ておかんと……」ぼくは彼を思いとどまらせようと考えを巡らせたが、説得できる言葉が浮かんでこなかった。
「もうどうしようもねえんだ」上原は捨て鉢な口調で言った。
「やめるなや。おれ、友だちはおまえしかいないんだぞ」
「……ありがとう。おまえはいい奴だった」
「過去形で言うな、考え直してみれって」
「あのな」と上原は息を吸った。「前に、教室でカネがなくなったことがあったべ」
「何?」
「宇佐見のカネよ。あれ、盗ったのおれなんだ」
「…………」
「おまえには言いたくなかったけんど、これがおれの実態だ」と上原は言った。「泥棒の親子なんだよ、親父もおれも」
あっけらかんとした明るい声だった。笑っているような鼻息も聞こえた。ぼくは言葉に詰まった。
「ごめんよ。おまえの声が聞きたくなってよ」上原は急に改まった声になった。
「そうだ、これから会うべ」ぼくは思いついたように言った。
「もういい、おまえの気持ちはわかった」
「いや、やめるならしゃあない、とめんよ。最後に一度会おう」
「だめだ、もう行かんならん」
「行くって、どこへよ?」
「…………」
「上原!」
「さいなら。元気でな……」
それで電話は切れた。ぼくは受話器を握りしめたまま、なす術もなかった。
上原とはそれっきりだった。患者さんの話では、一家そろって夜逃げをし、札幌のほうへ行ったという人がいたり、道東らしいという人もいたりして、どれもはっきりしなかった。上原と電話で話したことは誰にも言わずにいた。ぼくは何もかも信じられない気持ちだった。虚しさにとらわれ、ぼんやりしてしまって、ときどき整骨院の先生に注意されたりした。
三月に入ったある夜、登校すると教室があまりに明るいので驚いた。煤けた天井に、細長い蛍光灯が何本も輝いていた。いままでの白熱電球とは違って教室の隅々までよく見える。これまで生徒会から学校側へ、蛍光灯に取り替えてほしいとの要望を出していたが、予算がつかないことを理由に延ばしに延ばされていたのだ。
教室へ入ってくる者は決まって驚いたように天井を見上げ、何か言った。席に坐っても自分の手を開いて見たり、隣の生徒の顔を見たりしている。
「何だか恥ずかしいくらい明るいな」
「机のちっちゃい傷までよく見えるわ」
「変なもんに感心するな、黒板や教科書がよく見えたらいいんだわ」
てんでに歓声をあげているなかに、不満を言う者がいた。
「おれは明るすぎるとこは好かんぞ」
久保だった。口を尖らして怒ったように言うので、みんなどっと笑った。
「おまえには条件が悪くなったってわけか」と立花が言った。冷やかしのように聞こえたが、「そうよ。まいったなあ、これは」とカンニングの名人は顔をしかめた。
蛍光灯は教室を明るくしただけでなく、生徒たちの気持ちにも変化をもたらした。授業が新鮮になり、クラスメート同士の関係も明るくなった。照明器具ひとつで気分まで変わってしまうのが不思議だった。
しかし、教室を眺め渡すと妙に閑散としていた。空いている席が多過ぎるのだ。すでに木崎の姿はなかった。そして笑うと眼がなくなってしまった上原も、すねた眼つきの羽生もいなかった。ソバカスだらけの小森もいなかった。そのほかにやめていった者が何人もいた。
いつか曾根さんが「定時制を挫折する奴はたいてい二年生のときに消えていく」と言ったことがある。誰もやめたくてやめるのでなかった。みんなどうしようもない事情があるのだ。ぼくだって……と、不安がよぎった。めっきり老いた父ちゃんは、去年の凶作以来しょっちゅう母ちゃんといがみ合っていた。原因はみんなお金のことだった。明るい蛍光灯の下で、ぼくに重くのしかかってくるものの本質が見える気がした。
三年生になって新しい教室に移った。担任も変わって物理の教師になった。「私も定時制高校の出身だ。よろしく頼むぞ」と新しい担任は言った。色の浅黒い、頬骨の出た顔はとっつきやすい人相ではなかったが、以前から親身になってくれる教師として生徒の間に評判がよく、誰もがこの交替を喜んだ。席順も変わって、ぼくは窓ぎわの前から三番目になり、横の席には中島がきた。彼とはあまり話したことがなかった。よく本を読む男なので、話題は合いそうだった。
教師が出欠をとっているとき下山が入ってきて、間違ってまた二年生の教室に行ってしまった、と言った。笑い声のなかで彼は「二年のクラスに女子がごっそりいたぞ」と眼を輝かして伝えた。担任がそれを受けて「市立病院の准看護婦養成所の生徒が編入したんだ。みんな仲よくしてやってくれ」と付け加えた。歓声が沸き、「よし仲よくするぞ」という声があちこちから聞こえた。
体育館で行なわれた対面式には、列の後ろの生徒たちは伸び上がったり横から顔を出したりして、女生徒を見ようとした。ぼくも爪先立ちになったが、前の者もそうしているので見づらかった。正面に固くなった姿勢で新入生と編入生が整列している。新入生は男子ばかりなのに、編入生は十五人全員が女子だった。セーラー服姿がずらり並んでいて胸がときめいた。後ろのほうで指笛を鳴らす者がいて、はしたない行為ながらぼくたちの気持ちを表わしていた。
紹介した教師の話では、彼女たちは准看護婦の資格をとったあと、さらに正看護婦へ進もうと定時制高校へ入ってきたということだった。高卒の資格をとれば高等看護学校への道が一年短縮できるらしい。しかし病院勤務と養成所、その上に高校をかけもちでやっていくのは並大抵のことではないだろう。授業が終わったあとに深夜勤務の者もいて、その夜は寝ずに仕事をするという。入学した頃の気力を失いかけているぼくは、彼女たちのファイトに
翌日、廊下を歩いていくと、曲がり角のところで二人のセーラー服に擦れ違った。二人はうつむくように会釈をしたので、ぼくも軽く返礼した。そのとき、向こう側の女生徒の顔をどこかで見た気がした。通りすぎたあと、彼女たちの体から発する病院の消毒液の匂いが微かな風のように鼻をくすぐった。記憶はすぐ
ぼくは振り返って見た。彼女は横の生徒と話しながら歩いて行く。後ろに束ねた髪が歩くたびに弾んだ。――また会えるなんて、……それが後輩になってくるなんて――心臓の鼓動が高鳴っていた。頬に微笑みが湧いてくるのを抑えることができなかった。
ぼくの指に包帯を巻いてくれた准看生は、真野弘子という名前だった。頬のふくらみがとれ、整った目鼻立ちがきわだって、二年前に見たときより大人びた印象を与えた。何気なく話す表情の端々に知的な感じがあって近寄りがたかった。真野は同じ准看生の相川と仲がよかった。相川は真野とは対照的に丸顔で眼が大きく、物怖じしないタイプに見えた。見かけるときはいつも二人いっしょだった。二人が歩いていると、ボロ校舎までが映画のシーンのように美しく見えた。
週に二時間、部活があって、ぼくは一番手間のかからない図書部に籍をおいていた。幸運なことに真野は相川とともに図書部へ入ってきた。図書部は全員で何かを行なうような活動はなく、ただ本を読んで過ごすだけだから話しかけるチャンスはなかった。それでも彼女が閲覧室で本を読んでいる姿を見かけたり、書架の間で本を探しながら擦れ違ったりするとき、胸の奥が痛むような、それでいて幸福な気分になるのだった。
猪股さんが卒業していったことから、校内の力による秩序は崩れはじめていた。新しい番長の片桐さんは猪股さんほど取り仕切る力を持っていないようだったし、何よりも准看生が入ってきたことで、荒っぽいだけだった校風に変化が起きていた。これまで中休みの時間、体育館で遊ぶのは、バスケットか相撲が主流だったのに、急にバレーボールがはやり出した。バレーボールといっても、ただ生徒が輪になって球を突き合う円陣パスのことだ。これは准看生たちが始めた輪へ、男生徒が加わるようになり、しだいに参加者が増えたのだ。
真野と相川はよくバレーボールの円陣のなかにいた。ぼくは輪に加わるたびに、真野にボールを渡すチャンスを待った。彼女とぼくの位置や飛んでくるボールの角度などがあって、わざとらしいこともできず、なかなか思うようにいかなかった。見ていると真野や相川のところには割りとボールがいくように思える。きっとみんなも彼女たちに渡したがっているのだろう。真野はボールがくると、髪の毛を揺らし伸び上がるような姿勢でパスした。力が全部ボールに集まらないロスの多いフォームだったが、それが女らしく思えた。
ある夜、うまい具合に真野がぼくの正面に位置を占めた。しばらくして、ボールがぼくのところへきたので、かねて心に決めていたとおり彼女にパスした。ボールはうまく狙った位置へ飛び、彼女はそのボールを少し右へ突いた。そのとき彼女がぼくを見た。固い表情のなかにチラと動くものを見た気がした。その夜、ぼくは真野がボールを突くフォームを何度も思い浮かべた。布団に入ってからもその姿が眼を離れず、体の芯がほてってくるようでなかなか寝つかれなかった。
春から天候がよくなかった。田植えのとき、寒くて素足になれず長靴を履いて植えたが、手がかじかんで捗らなかった。その後、苗の活着もよくなかった。士風山にまた雲の綿帽子が現われ、不吉な予告を繰り返していた。夏になっても気温は上がらず、去年と同じようにいつまでも稲の花が咲かなかった。
八月に入り、田んぼで
ところが、それはぼくの無知な喜びにすぎなかった。父ちゃんは「いまごろ咲いたってタペート肥大症で受精できん。
四年生と准看生との噂が出はじめた。たいがい学校帰りに二人で歩いていたとか、准看養成所前の並木の蔭で話し込んでいたとかいうものだった。高校生たちの間では、その程度で付き合っている、といわれた。そのうちにダンス喫茶で踊っていたとか、顔を寄せてコーヒーを飲んでいたとかいう話も広まった。そんな情報にやたら詳しい者がいてよく噂を振りまいた。
誰と誰が付き合っていようとぼくには関係のないことだった。それが、真野にラブレターが舞い込んだという話を聞いたときは心が乱れた。差出人は四年生の富樫さんで、准看養成所の寄宿舎に届いた封書を同室の仲間が見たらしかった。富樫さんはトラック輸送の仕事をしている、背の低い体のごつい人だった。だから、すらりとした真野とは不釣り合いに思えた。その後、彼女がどう応えたのかわからない。しかし、噂がそれでとまったところをみると、富樫さんは不首尾に終わったらしかった。
少しずつ耳に入る話から、真野が川西の農家の娘だということがわかった。中学生のとき父親が病死し、それから准看養成所に入って働く道を選んだらしかった。彼女のかすかに険を含んだような視線や、どこか寂しげな微笑み方をぼくは切ないものに感じた。彼女が父親を失った悲しみに堪えているように、ぼくも兄を失い、姉を失い、級友を二人も失って、似た状態だと思った。すると彼女が急に親近感のある存在になった。だが、実際に校内で真野に出会うと、高ぶる胸の内とは逆にそ知らぬ振りをしてしまうのだった。
三年生の修学旅行が東京、京都、大阪方面に決まり、クラスの三分の二が行くことを希望した。旅費と小遣いを合わせると何万円もかかる。みんな一年くらい前から毎月やりくりして貯金をし、それに親や兄弟から足し増ししてもらっていた。ぼくはそんな大金が要ることを父ちゃんに話すことすらできなかった。
十月半ば、クラスメートは修学旅行に出かけた。そのあと教室は平常どおりに授業が行なわれ、ほんの十数人が閑散とした教室で学んだ。三年生の教室に入る者は貧乏人の居残り組と見られているようで気がひけた。二週間たって、みんなは帰ってきた。賑やかな思い出話を聞くのが、また辛いことだった。なかにはお土産にブローチを買ってきて准看生にプレゼントする者もいて、誰と誰ができているなどと、今度は三年生と准看生とが噂になったりした。ぼくも旅行にいくお金があれば、と悔しかった。
硬派の生徒たちにも変化が起きた。いままで学生帽は
空は雲一つない快晴で、太陽は出てから沈むまで照っていた。あんなに日照時間がほしかった夏中は厚い雲が垂れこめ、冷害が決まってしまった秋になってから毎日のように晴れている。「一銭の得にもならん、このバカ天気めが」と父ちゃんは呻くように言った。
田んぼの稲は見渡すかぎり棒立ちだった。分蘖しすぎた茎がいつまでも青々して太く、
母ちゃんは珍しく父ちゃんの言いつけを守り、米に押麦を七割も混ぜた。ときどきは押麦だけを炊いて、それでカレーライスにすることもあった。肉の代用にサツマ揚げをキャラメル大に切り、
学校のほうも授業料の半年分を滞納していた。教室へ行く途中にある事務室の前を通るのが嫌だった。中年の事務官に顔を合わせないように急いで通った。何度も督促され、事務室にもう少し待ってもらうよう頼みに行った。事務官は老眼鏡を下げてぼくの顔を見、「待ってやるから頑張ってみれ。学校をやめるなよ、やめられたら滞納分までもらえんくなるからな」と言った。ぼくは何度も頭を下げながら、惨めさにやりきれない思いだった。
勤労感謝の日にレクリエーション大会が開かれた。こんな行事を催すのも女子が増えたせいに違いなかった。
第一部は音楽室での演芸発表だった。ほとんどが歌だったが、なかには寸劇や落語をやる者もいた。どれもたわいのない内容なのにみんなよく笑った。合唱はちっとも面白くなかった。ただ二年生の女子、つまり准看生全員で歌ったときはざわめきもなくみんな静かに聞いていた。というより、彼女たちに見とれていたと言ったほうが正しいだろう。准看生も見られていることを意識して頬が紅潮しているようだった。ぼくは真野の顔ばかり見続けた。彼女は大声を出すところでも口を思いきり開けるのをためらっていて、そんな動作が奥ゆかしく見えた。終わると他のどの出し物よりも拍手が多かった。ぼくも掌が痛くなるほど叩いた。
第二部は体育館でフォークダンスが行なわれた。男子は、女子に近づく絶好のチャンスとばかり張りきった。全校の女子を合わせて二十数人しかいないところへ、約百二十人の男子がいるのだから、女子の手に触れることができれば
最初、体育館いっぱいに並んで手をつなぎ、大きな輪を作った。中島が「おい、踊るべ」と誘い、渋るぼくに「こんなものダンスのうちに入らん。行くぞ」と肩を押した。最初の曲は単純な動作を繰り返すだけのもので、ぼくにもできそうだった。乗り気はしなかったが加わった。ぼくはダンスが苦手だった。というより、男女が意思の通じ合いもないのに手を握ったりすることに抵抗を感じていた。体育の時間に習いはしたが、覚える気がまるでなかったのだ。横で踊る中島はリズムに乗って体を揺すりながら「踊らにゃ損々」と言った。彼も上手ではなく、盆踊りと勘違いしているのでないかと思わせる動作だった。
踊りの輪が二重になり、内側の輪に女子が入るよう指示があった。曲が変わり、今度は一パート踊るごとに外の輪と内の輪が逆方向に移動し、パートナーが交替していく。ぼくは内側の輪のごく近い位置に真野の姿を見つけた。真野は相川と並んで踊っていた。このまま行くと、彼女と踊ることになる。それに気づくと体の動きがぎこちなくなってきた。
曲は進み、真野は次第に近づいてくる。手前の相川がぼくのほうへ手を出し、その手を握って踊った。この次だ、とぼくは緊張した。だが、それで曲は終わりになった。相川に礼をして手を解くと、後ろにいた中島が「ついてねえなあ、もう一息だったのに」と呟いた。彼は相川に気があるようだった。
それから、曲は〈第三の男〉になった。フォーク・ダンスのうち、この曲だけは最初から最後までパートナーが変わらない、二人で踊るものだった。男子は目当ての女子に申し込みに行くチャンスだった。
踊る者は急に少なくなった。大半の生徒が体育館の壁に張りついて、女子と組んで踊る度胸のいい者たちを見ていた。気がつくと真野が富樫さんと踊っていた。その後、富樫さんは真野に交際を断られたと聞いたが、まだあきらめないのだろうか。背の低い富樫さんは、やはり真野とは不釣り合いに見えた。真野は真っすぐ背筋を伸ばして姿勢がいいのに、富樫さんの上半身は前へ傾きすぎている気がした。
ぼくは体育館の隅の鉄棒にぶら下がって懸垂をした。そして、ときどき真野のほうを見た。富樫さんが背伸びをして上げたごつい手の下で、真野が体を回した。スカートが傘のように開き、白い脚が覗く。ぼくは眼をそらしながら曲がいやに長いと思った。
授業中に小使さんが来て、ぼくに電話がきている、と伝えた。職員室へ行き受話器をとると、「邦夫かい?」と女の声がした。すぐ姉の声だとわかった。
「今、士別の駅に下りたの。みんなどうしてるかと思って」と言った。一気に喉に出かかるものがあったが、近くの机で教師が書き物をしていたので思いとどまった。ストーブの上のヤカンが、唸るような音を立てているのが聞こえるほど静かだった。ぼくは何もしゃべれず、時計を見た。授業はまだ一時間ほど残っていた。「今、そっちへ行く」と答えて受話器をおいた。教室に戻らず、そのまま駅前のソバ屋へ向かった。
店には数人の客がいた。端のテーブルで女が一人煙草をふかしていた。その女が姉だと気づくまで少し時間がかかった。別人と思うほど派手な化粧をしていたのだ。口紅が唇よりも大きく描かれ、金の輪のイヤリングを付けていた。黒い毛皮のようなコートを手を通さずに羽織り、その下はスーツも靴も真っ白だった。
「元気だったの?」と姉は聞いた。香水の匂いがした。
「うん」とぼくが答える。
姉は、稚内に用があって来た帰りだ、と言った。素通りするつもりが下りてしまった、とも言った。
「邦夫、すっかり男らしくなったね。眉毛のとこなんか兄さんそっくりになってさ」
「姉さんだって別人のようだよ」とぼくはさえぎるように言った。
「父ちゃんや母ちゃんは元気なの」かまわず姉は聞いてきた。
「父ちゃんはすっかり体力がなくなった。母ちゃんは相変わらずさ」
「そう……」
数年会わないうちに、姉は人を見下すような態度を身につけたらしかった。指に挟んだ煙草の喫い方も堂に入ったものだった。ぼくは姉といっしょに失踪した男のことを聞いてみたかった。ためらったのち、やはり聞いていた。
「あの人は見かけによらない愚図でさ」姉は表情も変えずに、しかし声だけ低くして答えた。「それで、あれからすぐ別れたの」
「…………」
何だかとりつくしまがない感じだった。本当に姉なのかどうか、もう一度顔を見直したほどだった。微笑むとき目尻に皺が現われた。少し頬がこけた感じもした。
「で、いまどこに住んでる?」と聞いてみたが、姉は答えなかった。「何やって暮らしてるんだ」と聞いても返事をしなかった。
しばらく沈黙したあと「まあ、人並みの暮らしはしてるわよ」と言った。化粧や態度から見て、まともな商売ではないような気がした。ぼくは話題を変えた。
「せっかく来たんだから、父ちゃんと母ちゃんに会っていけば」
「だめよ。私、家族を見捨てたんだから、そっちからも見捨てられてるっしょ」
「それで、おれには会えるのか」
「ごめんね、邦夫にも会えた義理じゃないのにさ」
「……母ちゃんはいつも姉ちゃんのことを心配してるぞ。父ちゃんだって口では強いこと言ってるけど、本心でないさ。体が弱ると気も弱るみたいだ」
「…………」
姉はぼくをじっと見つめるようにした。眼に天井の蛍光灯が映ってキラキラした。
「……邦夫もさ、都会へ飛び出しちまえばいいのに」姉の言葉は予測しない方向から打ちかかってくるようだった。「やりたいことをやったほうがいいよ、若いときは二度ないんだから。父ちゃんや母ちゃんも昔そうしたのよ」
ぼくは、二年続きの凶作で食糧がなくなったこと、冬場はぼくが整骨院に住み込み、父ちゃんが四線市街の商店の下請けで正月料理用の油揚げやコンニャクの注文取りをしていることを話した。
「そんな状態を放って出れるわけないべ」
姉が言っていることと次元が違うかもしれなかったが、姉のように現実から逃げることはしないと言いたかった。
「……ふん、偉いわね。高校へ行くと、考え方もご立派になるのね」姉は赤い唇を少し曲げて言った。中士別にいたときの、父ちゃんの小言に怯えていた、あの従順だった姉の姿はどこにもなかった。
大した話もしないうちに十時を過ぎた。姉は、上りの急行が入って来る時間だと言った。ぼくはもう一度、家へ寄って両親に会うよう勧めた。だが姉は首を縦に振らなかった。そして、ハンドバッグから二つ折りにしたお
駅まで送っていった。途中、姉は「私だって、感情まで失ったわけじゃないのよ」と言った。何を言いたいのか、ぼくにはわからなかった。駅の中は閑散としていて、乗客は姉と若い男の二人だけだった。若い男はさっきソバ屋にいた人らしかった。改札口まで行くと「ここでいいわ」と言うので、別れることにした。プラットホームまで出て、姉はわずかに手を上げて振った。ぼくもそうした。
歩きはじめた姉はもうこっちを見なかった。後ろから行く若い男が何か話しかけたらしく、姉はうなずくと指先で眼の下を押さえた。それはどうってことない仕草だったのかもしれないが、涙を拭ったのではないかと思わせた。振り向かないことがかえって気になった。
姉と若い男は二人並んで、入って来た汽車に乗り込んだ。ぼくはその時になって、あの男は姉と関係があるのでないか、と考えた。そして男の顔を思い出そうとした。しかし、黒っぽい服装だったこと以外は何ひとつ覚えていなかった。
やがて汽車は鋭い汽笛を発して動き出した。どの窓にも姉の顔は見えず、客車の列はしだいに加速して、瞬く間に闇のなかへ消えて行った。手を開いてみると、初めて見る一万円札が十枚もあった。
二月になってひどく寒い日が続いた。教室の達磨ストーブに石炭が何杯も投げ込まれ、煙筒まで真っ赤になるほど燃やされた。だが、熱がるのはストーブに面している席の者だけで、あとの生徒は寒さに震えていた。鉛筆を持つ手に息を吐きかけたり、両脇に手を挟んで体を縮めたりして授業を受けた。休み時間がくると全員ストーブの周囲に群がって当たった。夜が更けるにつれ底冷えは厳しさを増し、教室の窓ガラスに白い氷の華模様がびっしり張りついた。
授業が終わるとすぐ帰った。生徒玄関を出るなり、寒気が無数の針が刺さるように顔を襲う。一息吸っただけで鼻の穴から喉の奥まで冷たくなった。足音は軽金属をぶつけるような響きだった。いくらも行かないうちに鞄を持つ手の感覚がなくなり、反対の手に持ち替える。空いたほうの手を手袋の中で拳にする。ときどき口や頬を動かさないと痺れるようだった。
高校前の通りを整骨院のほうへ曲がったとき、北の空が異様に赤いのに気づいた。はじめ、山の向こうの街の火事が夜の雲間に映えているのかと思った。だが、それにしてはあんな高いところまで広がるわけがなかった。赤いぼんやりした光は、雲が垂れこめるようにゆっくり伸びてくる。
「オ、オーロラだ」と思わず声が出た。寒さに唇が強張って発音がおかしくなった。ぼくの知識ではオーロラは北極にしか出ないはずだった。しかし、赤いフリルのような形がゆらゆら揺れている。そのまわりに羽毛を撒き散らしたような光も現われ、ともに動いている。この世のものとも思えない不気味な色と形だった。見つめていると頭がくらくらした。得体の知れない恐怖がのしかかってきて、身がすくんだ。
地球に変動が起きたのだろうか。とんでもない気象になって、また凶作が続くのでないか。赤い揺れは頭の中をめまいのように揺さぶった。
三、小さな花
姉に貰ったお金をどうするか、ぼくはお整骨院が休みで中士別の家へ帰った日、ストーブに当たっている父ちゃんの前にそのお札を置いた。
「おお、すまんな」と父ちゃんは言った。ぼくが毎月、給料のうちから家へ入れている分だと思ったのだろう。お札を手にとってから驚いた声になった。
「な、なした、こんな大金……」
父ちゃんは一万円札なんて触ったこともなかっただろうし、それが十枚もあるのだから驚いて当然だった。ぼくが姉に会ったいきさつを話すと、数えたお札をまた床の上に置いた。ムッとした顔をして、言葉をなくしたみたいに押し黙った。
「うちへ来て、父ちゃんらに会っていけって言ったんだけど、来なかった。別れしなにくれたんだ」
「…………」
今度は母ちゃんがお札を数えた。
「いやいや、こんなに。よっぽどいい暮らししてるんかな。……姉ちゃん、どんな様子だったや」と息を弾ませる。
「元気そうだった」
「で、今どこに住んでるんだ」
「知らないよ」
「なんで聞かないんだ」
「聞いたけど言わんもの」
「何とか聞き出せばいいんにか。まったく、男の子は言葉数が少なくて何もわかりゃあしない」母ちゃんはやきもきしたふうに文句を言った。
「どうせ、ろくでもない商売で儲けたもんだべ」と父ちゃんが言った。
「なに言ってんの、あの子、やっぱりわしらのこと心配してたんだわ」と母ちゃんはお札を両手で捧げて拝むようにした。「ありがたいこった」
「その金、使う気か」
「使うもなにも明日の米もないっちゅうときに、地獄で仏でないかい」
そのうち、とうとう二人は口論を始めた。ぼくはおかしくなって笑ってしまった。だが、しだいに悲しい気分に陥った。
「おまえが持ってたんじゃ、ろくな使い方をせん」と父ちゃんは母ちゃんの手からお札をひったくると、シャツのボタンを外して腹巻の中にしまい込んだ。
「……まあ、とにかく、よかったよかった」と言って母ちゃんは立ち上がった。鶏が啼き立てていたので鶏舎へ行ったらしかった。母ちゃんが行ってしまうと父ちゃんが話しかけてきた。
「あの男といっしょだったか」
「いや別れたって言ってた」
「……いったい何をやってるもんだか」
「ずいぶん明るい感じだったよ。化粧してすごくきれいになってたし」
「…………」
「ほんとは姉ちゃん、父ちゃんや母ちゃんに会いたかったみたいだった。でも、意地張ってんだべ、駅で別れるとき泣いてたも」とぼくは少し嘘を交えて話した。
「あのバカ……」
父ちゃんはぽつりと言った。そこへ母ちゃんが卵を持って戻ってきたので、話はそれっきりになった。父ちゃんがストーブの焚き口を開けて
ぼくたちは最上級の四年生になった。准看護婦養成所の生徒がまた十数人編入してきたので、女子の姿が目立って増え、校内はますます華やいだ。
新入生には、同じ中士別から須藤が入ってきた。三線の農家の息子で、さっぱり人馴れしておらず、いつもおどおどしている奴だった。須藤は授業が終わると、四年生の教室の前に来てぼくが帰るのを待っていた。夜道を帰るのがこわいのだ。ぼくも経験のあることだから、可哀そうな気がして、できるだけいっしょに帰ってやるように心がけた。
四年生の役割の一つに週番があった。ひと月に二回、放課後、三人一班で各学年の掃除の点検をするのだ。ぼくたちが一年生のとき言われたように、雑巾は固く絞って拭けとか、窓の桟の埃もきれいにしろとか、指導した。下級生はみんな緊張した顔をして聞いていた。週番のなかには、机にわざと腰をぶつけて列を乱したり、黒板消しを叩きつけチョークの粉を飛び散らかして文句をつけたりする者もいるようだった。みんな、かつてぼくたちが先輩から受けた仕打ちの敷き写しなのだ。ぼくは目上と目下のけじめは必要だろうが、過剰な先輩風を吹かせることは避けようと思った。
恒例の応援歌のしごきの夜、ぼくは音楽室へ行かなかった。これも伝統に名を借りたいじめに違いなかった。しかし、それを改革させるほどの意思までは持っていなかった。玄関で三年生が、帰ろうとする生徒を見張っていたが、四年生のぼくには文句が言えないのだった。
農作業は春から天候に恵まれ、田植えは順調だった。その後の苗の活着もよかった。それでも農家はみな期待と不安の入りまじった気持ちで、成りゆきをみていた。
六月中旬を過ぎても北風がなく、
七月に入ると、蒸し暑い日が続いた。風はなく空気がよどみ、肌着が汗でくっついて気持ちわるかった。高温多湿だとイモチ病が発生するおそれがある。今度はその防除作業が始まった。手回しの撒粉器で有機水銀剤を撒いて歩く、それも一週間おきにまた同じことをやらなければならない。
薄いピンク色の農薬はいやな臭いがした。体に害があるというので、
稲の生育は順調で、どこにもイモチ病など発生しそうに思えなかった。それなのに重たい撒粉器を肩から吊るし、ハンドルを回して歩かなければならない。それも下手をすると命にかかわる毒を撒いているのだ。ウォーンウォーンと間が抜けたように響く撒粉器の回転音がぼくを緊張させ、いっそう汗まみれにした。
夏休み中に全学年合同のキャンプが行なわれることになった。場所は
土曜の午後、学校前から貸切バスに乗り込んだ。予期したとおり真野もやってきて、相川と並んで真ん中辺の座席を占めた。ぼくは後ろのほうに乗った。参加者は四十人くらいで、そのうち女子は十四、五人いた。誰かが「女子、もっと来ていいのにな」と不満そうに言った。しかし、ぼくは真野がいるだけで参加した意味があったと思った。
士別の町を出るのは初めてのことだったので、バスの窓から眺める景色さえ興味深かった。ごみごみした市街が水田地帯へ変わり、そして畑作地帯へ移り、しだいに樹の繁る山道へ入って行った。バスは坂道を上がったり下がったりし、また左右に大きくカーブしながら走った。ときどき准看生の笑い声が響き、そのたびにみんな声のほうを見た。やはり女子が気になるのだ。ぼくはといえば、前のシートから少し覗いている真野の頭髪にばかり眼がいって仕方がなかった。窓から射す陽のなかでそこだけが輝いて見えた。うだるような暑さにシャツが汗ばみ、エンジンの振動が座席の下から体を
樹々の間を進むうちに突然眼の前が開け、広い湖が見えた。車内にいっせいに歓声があがった。電力会社に勤めているクラスメートが立ち上がり、人造湖で東洋一大きいとか、貯水量は二億トン、雨竜発電所の水源になっているとか説明した。湖は深い鉄色に光り、その上を無数の
湖畔の広場にキャンプを張った。やや高台になった草原で、前に湖が広がり、後ろに森が横たわっていた。テントは学年ごとに分かれ、ぼくたち四年生のテントは湖を見下ろす丘の端だった。
夕食は豚汁とおにぎりだった。夜には広場の中央でキャンプ・ファイアに点火され、ゲームや歌合戦が行なわれた。そしてフィナーレはやはりフォークダンスだった。参加者は燃え盛る火を囲んで輪になった。丘の草原は暗く、ぼくの気持ちを大きくしていた。今夜こそ真野の手に触れたいと思った。だが、あいにく彼女は炎の向こう側にいた。バレーボールならちょうどいい位置なのだが、ダンスには遠すぎた。ぼくは眼で真野の姿を追うばかりで、とうとう近づくことができなかった。
翌朝、沢水を汲みに行った。夕べ遅くまでおしゃべりをして、ほとんど寝ていなかったので頭が痛かった。湖畔には見知らぬグループも何組かキャンプを張っていた。森の近くの傾斜した岩場に、バケツを持つ姿が何人もあった。岩が天然の容器のような形になっているところで、ぼくはズック靴が濡れないように大股に流れを跨いで水を汲んだ。沢水はとても透明で、奥のほうから次々に湧きあがり、何でもないことなのに見ていて飽きさせなかった。
水を汲んで戻ろうとすると、真野と相川がすぐ後ろに来ていた。彼女たちは岩場を跨ぐのをためらっているようだった。
「汲んであげようか」ぼくの声が自然に出た。
二人は顔を見合わせ、それから相川が「いいんですか」と言った。ぼくはバケツを受けとってまた岩場を跨ぎ、たっぷり汲んでやった。真野はじっとしていた。彼女が持っているのは鍋だった。
手を差し出すと「すみません」と言って渡した。ぼくは鍋を傾け水面に押しつけた。澄んだ水がいったん鍋の縁に盛り上がり、それから勢いよく流れ込んだ。ぼくの気持ちの奥底にあるものが彼女の心に滑り込むと思った。渡すとき両手の指が少し触れた。彼女のうつむいた顔がすぐ眼の前にあった。こんなに近づいたことが前にもあったような気がした。
真野は「ありがとうございます」と言って頭を下げた。向こうむきになってから「鍋、恥ずかしいわ」と相川に言った。それは、ぼくを意識して言っている言葉に聞こえた。今ごろになって心臓の鼓動を痛いように聞いた。
朝食をとってしまうと、自由時間になった。発電所が見たいという者もいたが、ここから二キロも離れたところなので昼までの日程では無理だった。売店やボート乗り場へ行こうという者が多かった。
中島と浅田とぼくの三人でダム
「このダムつくるとき、タコを生きたまま埋めたっちゅうぞな」と中島が言った。
「タコを……?」と浅田が聞いた。
「知らんのか、タコ部屋の労働者よ。弱った奴やいうことを聞かん奴は生コンといっしょに埋めたって」
「生きてる人をか」
「そうよ」
「そんなことしたら犯罪だべや」
「治外法権っちゅうやつだべ。……この下に何人も人柱が入っとるっちゅう話だ」中島は堰堤を靴底で踏むようにして言った。
空は晴れあがっていたし、森から聞こえる野鳥の声も何事もなかったように平和だった。ぼくは自分に関係のないことだと思おうとした。しかし、体を圧迫して動けなくする重たい生コンの量を感じた。視界を塞ぐ暗闇がぼくをとらえ、貧血を起こしたみたいになった。
水面には風に吹き寄せられた枝切れがたくさん浮いていた。それらは汚れた藻のような膜に覆われ、水底が見えなかった。だが、深い奥のほうに死者の怨念がひそんでいる気がした。海のように打ち寄せる波がないのもおかしなものだった。ただ広いだけの音のない水面が異様だった。
「あすこにあるのが慰霊塔だ」と中島は指差した。振り返ると、位牌を大きくしたようなコンクリートの碑が空に突き立っていた。
「殺してから、あんなもん建てたって意味ないべ」とぼくは言った。
「そのとおりだ、おれたちは闘わなければならん」と中島が言った。
「誰と闘うんだ」と浅田が聞いた。
「もちろん、おれたちを搾取する奴らとさ」中島は手を拳にした。「世界は一握りの権力者のものでない、おれたち働く民衆のものなんだからな」
「政治のことはわからん」と浅田が気のない声を出した。
「そういう無関心が世の中を腐敗させるんだ」
「おまえ、そんな演説こいてたら、いいとこへ就職できんぞ」
「…………」
力説していた中島は浅田の一言で黙ってしまった。視線を宙に浮かせ、それからぼくのほうを見た。
「……怒りを忘れんことだな」とぼくは中島の気持ちを受けとめようとして言った。言いたいことが頭の中にたぎっているのに、それ以上の言葉にならなかった。彼はぼくの眼を見つめ、もっと何かを待っているようだった。
草原を横切って売店や遊覧船の桟橋があるほうへ向かった。そこまで来るとやっと風景が色着いたように思え、安心した。売店でラムネを飲んでから、遊覧船の桟橋へ行った。その辺はなだらかな丘陵で、風で起きた波が剥き出しになった粘土の
桟橋のところで准看生たちに会った。真野と相川もいた。ぼくたちと桟橋で擦れ違うとき、二人は「先ほどはありがとうございました」と頭を下げた。すぐ浅田が「何があった。何の挨拶だ」と声を低めて聞いた。ぼくは朝の水汲みの話をした。
「うまいことやりやがって」と中島は肘でぼくの脇腹を突いた。
「あいつら、いまボートにでも誘えばいちころかもしんねえぞ」と浅田が言った。
「お金ないもな」とぼくが言った。
「そんな人じゃないよ、レベルが違うべ」と中島。
「うん、ハクイな。だから、なおさら……一発かましてやりてえ」
浅田はそう言うと、足元の小石を拾い、湖に向かって力まかせに投げた。小石は水面を滑るように跳ね上がった。中島も体をひねって投げた。ぼくも平べったい石を選び、二人のフォームを真似て投げた。小石は二度ジャンプし、それから波に当たったのか横っとびに飛んで沈んだ。
八月、田んぼの水を切った。いよいよ稲の登熟期に入って、実りの秋を迎える準備だった。生育は順調で平年作はいけそうだった。ところが近所の田んぼでイモチ病が発生した。数日後、それはうちの田んぼにも現われた。稲の葉に茶色の斑点が出て、裏を返すと
イモチ菌の胞子は一晩で数キロにわたって飛ぶという。よほど肥えた田んぼか管理のいい稲ならかからないこともある。だが、うちでは馬を飼っていないのでいい堆肥ができない。化学肥料に頼っている分、地力が弱っているから、せっかくの実りなのに逃れようがないのかもしれなかった。
さらに数日たつと、病変した範囲が広がり、まるで雷が落ちて焼け焦げた跡のように稲がよじれてきた。イモチ病は発生してしまうと防ぐことができない。被害の個所を最小限に食い止めるため、変色した稲を刈り取って燃やすしかなかった。青い煙はうちばかりではなく、遠くの田んぼからも何本も立ち昇った。
焦茶の変色は追肥をしたところに限って多く発生した。いままでの減収を取り戻そうと欲張って追肥をしたことが裏目に出たのだ。その後も被害は方々に飛び火した。そのたびに刈り取って燃やすので、田んぼはあちこちに穴があいてしまい、父ちゃんは「まるで円形脱毛症だでや」としかみ面で冗談を言った。
十月に入ると、クラスメートはみんな就職情報に眼の色を変えた。いくらもない求人に希望者が殺到した。職安の指導は、定時制卒業者の就職はむずかしいから、いまの職場に居られるならそのまま勤めたほうがいい、というものだった。そんな指導にうなずく者はいなかった。誰もが零細企業の苦しさを身をもって知っている。雇用主の理解があって高校へ通わせてもらってきて、その恩義を強く感じながらも、自分の将来を考えると、やはり見通しのある職場を得たいのだ。
できれば大企業へ入りたいと思っている者が大半なのに、定時制卒業者を採用の対象にしていない企業が多かった。先輩などから又聞きの情報では、求人が全日制と共通で受験できるようになっていても、問い合わせると、定時制の生徒は受けても無理、との返事だという。なかには、うちの給与規定は十八歳が対象ですから、と四年制の卒業で全日制より一歳年上になる定時制の生徒をはっきり締め出すところもあるとのことだ。
「いままで辛抱せ、辛抱せば報われる、と励まされて頑張ってきたのに、今ごろになって突っかい棒を外すようなこといわれても納得できねえよ」と言う者がいた。みんなの不満を代弁している声だった。
担任は「たしかに厳しいことは厳しいが、この春から先生も精力的に各企業を歩きまわっている。説得の甲斐あって、ぜひ勤労学徒を採用したい、と定時制の受け入れを約束してくれた会社もあるんだ」と言った。しかし、それはほんの数社にすぎないだろうし、また中小企業なのかもしれなかった。
今の今まで、ぼくは将来のことをそれほど切実に考えていなかった。そのうち何とかなる、卒業したらいい仕事にありつけると思ってきた。にわかに自分の考えが甘かったことを気づかされ、落ち着きを失った。ぼくの成績は各科目にバラつきがあり、好きな科目なら他人に負けなかったが、嫌いな科目は極端にわるかった。とくに数学や計算実務が不得手なので、事務系は向いていない気がした。自分に向いた求人がなくていらいらした。
ぼくはやみくもに机に向かって勉強した。そんなことをしても自分がどの方面をめざすのか的を絞っていないから、就職試験の傾向がわかるはずもなかった。それでも時間を割いては教科書を開いて眼を凝らした。時には声を出して読んだりした。
疲れてくると、引き出しからキャンプのとき撮った写真を出して見た。真野はぼくとは離れた位置にほかの准看生と並んでいた。虫眼鏡で拡大して見ると粒子でぼやけ気味にはなるが、あの涼しげな眼や形のいい唇がまぎれもなくそこにあった。胸が切なくなり、同時に体の奥に何かがうごめいた。あわてて首を振ってまた教科書に眼を移しても、頭の中が熱くなって文字が読みとれなくなった。
みんな求人情報に
体育祭のマラソンでは、全日制の生徒をゴール直前で破って一位になり、喝采を浴びた。その日は立花にとっても高校生活最後の走り納めだったので、クラスのヒーローのお祝いをやろうと、数人が立花の下宿に集まった。ジュースやサイダーだけでなく、日本酒の四合壜を買ってきて茶碗で飲んだ。電気コンロでミガキニシンやスルメも焼いてしゃぶった。ぼくも酒を茶碗の底に少し入れてもらって飲んだ。胃が熱くなり、そのうち顔がほてってきた。立花も酔ってきたらしく「マラソンはおれの青春だ」と声高に何度も言った。
飲み物も
笹村さんはぼくたちを会社の行きつけのバーへ連れていった。それは寺の境内の横にある小さな店だった。みんな飲み屋へ入るのは初めてなので、内心びくびくしているようだった。笹村さんは「おれに任せておけって」と大人ぶって言い、奥のボックスに席を占めた。付け
ビールを飲むのは初めてのことだった。一口飲んだが、苦いだけでちっともうまくなかった。笹村さんが「口で飲むんでない喉で飲むんだ、キューッとよ」と一気に飲んでみせた。立花が真似て、顎を上げて飲んだ。「おお、いいぞ」と誰かがほめた。「カーッ、気持ちいい」と立花は首を振って言った。
ぼくも真似てコップに半分くらいを一気に飲んだ。ザラザラしたものが喉を通った感じで、味はわからなかった。「よし」と笹村さんが言った。頭の芯まで涼しくなったと思ったら、しばらくして眼元が熱くなり
下山は「工員なんて面白くないけんど、おれには分相応ってもんだべ」と言った。彼は雪印乳業の試験を受けて早ばやと合格していた。それから「あんな面白くもねえ店さらい辞めて、おれは一生懸命働くぞ。平凡でいいから結婚して子供つくってよ」と、いま勤めている雑貨店をけなし、早くも自分の人生を思い描いているふうだった。
コップの二杯目あたりからぼくの周囲が揺れはじめた。横にいる久保が泣いている。「おれ、どうしたらいいかわからん」と言ったようだ。鼻の下に髭をうっすら浮かべた顔で泣くのは変なものだった。「なあに、どこもなかったら自衛隊に入れ、あそこなら誰でも入れてくれるぞ」と水谷が言った。「冗談じゃねえ。おまえら、ファシストの手先になるっちゅうのか」と中島が反論した。
「うるせえぞ。おれに話させれ、おれの夜だべ」と立花が怒鳴った。「くそっ、先公の奴、なんて言ったと思う、おまえは競馬ウマか、だと。高校に走りに来てるのかってよ。畜生め! 卒業したらぶん殴っちゃる……」
笹村さんが女の耳元で何か
眼に見えるものすべてが回り出し、そのうちにわけがわからなくなった。怒鳴り散らす声が遠くで聞こえた。ぼくは眠ったようだった。体が浮き上がる気がして、眼を開けると笹村さんがぼくの腕を担ぎ「出るぞ、大丈夫か」と言って、立ち上がらせてくれた。
「大丈夫だって」とぼくは笹村さんの手を振りきって一人で歩いた。ふらふらしたが何とか歩けた。冷たい夜気が頬や腕まくりをした腕に快かった。
「おれはやるぞーっ」と下山の声が響いた。電柱の横にしゃがんで吐いているメリヤスシャツは西尾らしい。夜景が揺れ動いていた。横町のネオンの下から腕を組んだ男と女が現われた。男は中年で女はまだ若かった。二人とも相当酔っているようだ。男の腕にしがみついている女の横顔に見覚えがあった。濃い化粧をしているが、吉井さんの田植えにきていた、あの時枝さんに違いなかった。
担任に大手の印刷会社を勧められた。「おまえは語学がいいから向いているべ、頑張ってみろ」と言う。中島も希望を出し、二人で旭川へ試験を受けに行った。本社はとても大きいビルで、こんなところに就職できたらどんなに鼻が高いだろう、と思った。試験場にあてられた会議室はびっしりになるほど受験者がおり、みんな頭がよさそうに見えた。
試験問題はそれほどむずかしいものではなかった。国語、社会は八十点台はいけたとの確信があった。だが、苦手の数学がほとんどわからなかった。帰り道、中島が「だめだ。どれも半分以下しかわからんかった」と諦めた口調で言った。そして、ぼくにどうだったか尋ねた。手応えを正直に言うと、「そうか。数学なんか印刷会社に要らないもんだから、おまえは望みがあるな」と悔しそうに言った。彼の言葉で少し希望を抱いた。語学ができれば印刷業務はできる。国語と社会でとってくれるならいいが、と思った。しかし、営業のほうもあるわけだから、両方つぶしがきく者を採用するかもしれないという気もした。
けっきょく、ぼくも中島もこの会社を落ちてしまった。ぼくたちは駄目だったが、士高からは全日制の生徒が二人合格した。中島はクラスメートに「これは明らかな差別だ」と抗弁めいた言いわけをした。
定時制の者も下山の雪印乳業を手始めに、水谷が食糧検査事務所に合格した。水谷は合格通知を教室へ持ってきて見せ、みんなを羨ましがらせた。やはり公務員が将来安定していることを誰もが知っていた。そのほか、何人かがあちこちの企業に受かった。大方が中小企業だった。中島もそのあと地元の電気製品の会社に入った。彼の「高望みしとったら、何も手に入れんで終わっちまう」と言う言葉が胸に応えた。受かったとたんに彼らは勉強をしなくなった。学校を休んで映画を見に行く者もいた。ぼくは落ち着かなかった。
図書部で「私の一冊」という座談会を催すことになった。いままで部活動を何もしないできたのを、中島の発案で読書週間の行事にすることになったのだ。ぼくの気持ちはそれどころではなかったが、中島の誘いを断れず図書室へ行った。部員は三分の一くらいしか出席していなかった。端のほうに真野の顔が見えた。中島が司会をし、国語の教師が助言者になって進められた。
最近読んで感動した本について感想を述べてほしいと、中島が言ったが誰も応ずる者がなかったので、彼は横にいたぼくを指名した。やむなく立つしかなかった。
「ぼくが感銘を受けたのは『異邦人』です。この小説のよさは一口でうまく説明できません。とにかく主人公に強く惹かれました」
そう言って坐ると、中島が「それじゃあ簡単すぎるぞ。もうちょっと話せや」と言った。
「言うことないんだ、いいものはそんなもんだよ」
ぼくは『異邦人』を
「しようがないな。……まあ、いいか。まずはみんなにひと通り話してもらおう」
中島は不満そうに口を尖らせてから、次の生徒を促した。部員たちはたいていが漱石や龍之介、直哉など日本の作家の小説を挙げた。なかにはドストエフスキーやヘミングウェイを口にする者もいた。
少したって真野の番になった。真野は『野菊の墓』を挙げ、政夫と民子の純真な心が大人の眼で汚れたものにされるのがとても悲しかった、というようなことを述べた。彼女は素直に高校生らしい作品を読んでいる。それに比べ、ぼくはいい振りをしようとして、理解もできないカミュを挙げたのかもしれなかった。
みんなが順に作品名と簡単な感想を述べただけで、話し合うまでは到らなかった。最後に国語の教師が「青春の読書はとくに感銘深い。むずかしい作品にも思い切って挑戦するといい」と参考書に書いてあるようなことを述べて終わりになった。
イモチ病で減収にはなったが、去年の凶作のように皆無ということはなかった。追肥を忘れた田んぼや地力のある田んぼは平年並みに穫れたところもあった。米の品質は悪くてもうちで食べるのならかまわない。どうやら家族三人の食糧はかつかつで間に合う程度の収穫になった。相当な額になっていた借金は、姉に貰ったお金で返済することができた。
毎年、収穫作業が終わると整骨院の手伝いをしていたのだが、今年から柔専を出た人が助手に入り、ぼくに用はなくなった。そこで学校を通じてきた営林署のアルバイトに行った。造林地を図面に落とす仕事で、白地図に鉛筆で社会科の授業で習ったような記号を描き入れるものだった。仕事は簡単だったが、就職のことが頭を離れず、こんなことをしていてどうなるのだろう、と不安が募った。
営林署の仕事を終えると街の安食堂で夕食をとり、それから高校へ向かう。自転車で行くと准看養成所から真野が出てきた。お互いに会釈をし、彼女を追い越した。ぼくは迷った末、しばらく行って自転車を降りた。何でそんなことをしたのか、街に夕暮れが迫って青みを帯びていたせいかもしれなかった。頭の中が渦巻くようだった。真野が近づいてきて自然に並んで歩く恰好になった。
「……おれも『野菊の墓』読んだよ。高校へ入った年だったかな」唐突だと思いながら、ちらっと真野を見てそう話しかけた。
「え、ほんとですか」彼女は少し口を開けた。「私の読むような本なんか読まないと思ってたわ」
「おれ、あれ読んで泣いたさ」
「……信じられないわ」言葉とは逆に真野はとても嬉しそうな顔をした。ぼくも口の端に微笑みが湧くのを感じた。
「私、いま『異邦人』を読んでるんです」
「…………」
ぼくはにわかに心臓がどきどきした。それを押さえて聞いた。
「どう、感想は?」
「ピストルを撃つところまでしか読んでないんです。何だか怖い。でも、ムルソーにすごく惹かれるわ」
「…………」
「……私、不条理ってことがよくわからないんです」
二人足並みをそろえて校舎のほうへ曲がった。――君は父親を失って働かなければならなくなった。ぼくも兄を失い、姉が去って貧困にあえいでいる――これが不条理でなくて何か、世の中は不条理だらけでないか。人生に望みを持ちたいと思いながら、疑わしい思いに陥ることがしょっちゅうある。中島に言わせれば、政治腐敗が世界に不条理をもたらしたとのことだが、ぼくは他人のせいにするのでなく、自身の問題としてとらえたいと思う。しかし、それを言葉にすることはためらわれた。
「おれもわからない。ただムルソーの潔さが不思議なんだ。たとえ破滅に向かっても自分がある。おれは自分の運命をのろったりするけど、彼はしないからね」
「私も、毎日ただ時間に追われて、自分を失ってるから、身につまされるわ」
「そうかな、准看生の人たちはみんな目的を持っていていいなと思うけど」
「本当は流されてるだけなんです」
ぼくはまだ就職が決まっていないことを恥のように感じた。ぼくには何になりたいという主体的な意志がない、自分を失っているのはぼくだった。
それから話すことがなくなって、困ってしまった。
「指はもう大丈夫ですか?」と真野が言った。
「…………」
彼女はぼくの左手を見ている。一年生のとき稲刈りで指を切って治療を受けたのを覚えていたのか。胸の奥が熱くなるようだった。ぼくは左手をハンドルから離し、小指を立てて見せた。そのとき後ろからバタバタと足音が聞こえた。
「こらあ、二人きりで話すなんて、非行だぞ」相川が真野の横から顔を突き出し、おどけた声をあげた。
「本のこと話してたのよ」と真野があわてたように言った。
「何を話そうと危いわ」
「おれが危ないっちゅうのかい」とぼくが聞いた。
「そんなんじゃないけど、彼女がねえ……」
「いやねえ、相川さん」真野は相川の腕を打ち、相川は首をすくめて意味あり気な顔をした。真野があわてて止めた意味がわかった気がした。顔がほてってくるのを感じながらぼくは言った。
「ところでさっきの続き、相川さんはどんな本を読む?」
「あら、この前の座談会で私の話、聞いてくれなかったの」と彼女は口を尖らした。「あのとき漱石をあげたけど、ほんとは実用書。洋裁や料理の本とか、ときには男性心理の本とか」
「そうか、それで男子の操縦がうまいんだ」
「それがさっぱりなのよ」
「うちのクラス、けっこう相川さんのファン多いよ」
「あら、誰々。名前教えてよ」相川は弾んだ声で言った。
真野は微笑んでいた。彼女は微笑むと寂しさが漂う。ぼくもこんな的外れなことを言うのでなく、すぐ横にいる天使にずばり矢を射ることができたら、と思った。しかし、確信していた。彼女とぼくの距離はさっきの会話で一気に近づいた、と。
営林署のアルバイトは割りと長期間にわたった。倉庫みたいな広い部屋に大きなテーブルを置き、臨時雇いの者たちだけで作業をした。その日、ぼくは描き終えた地図のコピーをとっていた。感光紙を罐に入れて現像するとき、鼻を打つアンモニアの臭いに閉口させられる。蓋を開けたら息をとめて手早くするようにした。そこへ給仕の女の人が来て、ぼくに電話だと告げた。事務室へ行って受話器をとると、母ちゃんの声がした。
「父ちゃんが大怪我しちまった、すぐ市立病院に来い!」と叫んでいる。何が何だかわからないままに駆けつけた。
母ちゃんは手術室の前でぼんやりと床を見つめていた。ぼくを見るとふいに涙ぐんだ。
「何があったんだ」
「わしも、よくわからんのだが」と言いながら母ちゃんは話しはじめた。気がせいているので、母ちゃんの説明がまどろっこしかった。
――朝、父ちゃんは吉井さんから馬と馬車を借り、母ちゃんに手伝わせて稲藁を積んで出発した。今年の藁は、いいところなら何とか買ってくれると畳屋の約束を取りつけていたのだ。ところが市街に入って間もなく、馬が擦れ違ったトラックの列に驚いて駆け出し、父ちゃんは振り落とされた。そのとき手綱が腕に絡まり、車輪に巻き込まれて、数十メートルも引きずられたという。
「……それで怪我はどんなだ」ぼくは待ちきれなくなって声をあげた。
「右腕の骨が砕けてしまって、肘のところからぷらんぷらんなんだ」
「…………」
息が詰まりそうだった。整骨院の手伝いをしているとき複雑骨折というのを見たことがあるが、それだって時間はかかるが元通りになる。馬車から落ちたくらいなら、大したことはないに決まっている。ぷらんぷらんなんて大げさな……。
「そんなの、手術すればくっつくべ」
「……だといいが、わし、なんだか恐ろしくて」母ちゃんは額に汗を浮かべていた。「とても見ておれんくて、吉井さんに入ってもらっとるんだわ」
ため息をつきながら話す母ちゃんの気持ちがぼくにも移ってきた。「大丈夫だ、心配ないさ」と言ってみたが、声に力が入らなかった。
手術は一時間半ほどかかった。ドアが開いて、運搬車に乗せられて出てきた父ちゃんは頬にガーゼが当てられ、眠ったままだった。病室のベッドに移されるとき、体にかけてあった毛布がめくられて、ぼくは息を呑んだ。右腕の肘から下がなかった。母ちゃんは坐り込んでしまった。吉井のおじさんが「骨がわやわやに砕けっちまったんで、切るしかなかったっちゅうんだ」と小声で医者の話を伝えた。
看護婦が行ってしまうと、病室はしんとした。おじさんがときおり思い出したように話した。「牧場育ちの三歳馬だから、トラックの音にじゃめちまったんだなあ。おれがついていけばいかったんだが、なんせ
夜中になって、父ちゃんは眼を覚ました。だが、母ちゃんが話しかけても返事をしなかった。それがしばらくして、突然「き、切っちまったのか!」と呻くように言った。包帯でぐるぐる巻きになった短い右腕を、左手で探るようにしている。ぼくは何か言うべきだと思いながら、言葉が浮かばなかった。
父ちゃんの顔は掠り傷だらけで、あちこちに赤チンが塗ってあり、頬や顎にうっすら生えた髯はほとんどが白かった。苦労ばかりしている父ちゃんが、なんでこんな不幸に見舞われなければならないのか。胸が張り裂けそうに膨らんでいた。耐えているのが精一杯で、何かを言えば、それだけで破裂しそうだった。
その後、何度か入院している父ちゃんを見舞った。大分落ち着いてきて、腕を失ったことを観念したようだった。天井を見上げたまま「すまんな、邦夫に迷惑ばっかりかける」と言い、「いっそ頭から落ちればケリがついたのに」と捨て鉢な言葉まで吐いた。ぼくは「バカなこと言うんでない。おれ、もう少しで卒業だし、いい仕事みつけてジャンジャン稼ぐから」と言って励ました。しかし、自分に適した求人がなく、見通しは何もなかった。
廊下へ出るとめまいがした。空腹のせいか疲れのせいかわからなかった。長椅子に坐っていると、看護婦が何人も通った。なかには定時制高校にきている准看生もいて、頭を下げていった。みんな
それが、向こうからくる人にハッとさせられた。真野だった。久しぶりに見る白衣姿の真野だ。彼女もぼくを認め、ナースキャップを傾けて会釈した。ぼくの前で立ち止まり「お父さん、大変ですね」と言った。
彼女は別な病棟の勤務らしいが、父ちゃんの事故を知っている。そして何か言いたげだった。ぼくは避けたい気分だった。貧しい家庭の状況を知られるのが嫌だった。彼女には弱みを見せたくなかった。遠くで看護婦が真野を呼んだ。「はーい」と彼女は振り返って手をあげた。それからぼくのほうを向き、眼の中を覗き込むようにして言った。
「負けないでね……」
ぼくはうなずいた。ありがとう、と言おうとしたが声が出なかった。彼女は、またあの微笑みを浮かべ、それから白衣の裾を
勤労感謝の日、今年も生徒会主催のレクリエーション大会が開かれた。ぼくは気乗りがしなかった。毎年のように凶作に見舞われ、天候がいいと思えばイモチ病だ。挙句の果てに父ちゃんは不具者になってしまった。働くことを尊ぶ気持ちは起こりそうになかった。
プログラムは代わり映えのしないもので、学年対抗の歌合戦や演芸発表のあと、体育館でフォークダンスが行なわれた。いつものように最初はみんなで輪になって踊る曲から始まった。ぼくは壁に寄りかかって見ていた。真野に近づくことを避け、もう二度と踊るまいと思っていた。一年生の須藤がやってきて人懐っこい笑みを浮かべた。
「おまえ、踊らんのか」
「ぼく、ダンスをよく知らないす」
「そうか。これから機会が多いから覚えんといかんぞ」
「はい。でも先輩こそ、どうして踊らないんすか」
「おれは踊れないのでない、踊らないのだよ」
須藤は首を傾げたが、それ以上聞かなかった。
曲が変わるたびに生徒はフロアに出たり壁に戻ったりした。それらが自分に関係のない出来事のように思えた。曲が一転して弦の音がリズムを刻み始め、男生徒は色めきたった。〈第三の男〉だった。二人で踊る唯一の曲。人影が動いて、男子はこの時とばかり、好きな女子のところへ申し込みに行く。
浅ましいやつらだと思った。いや、本当はかれらが羨ましいのに、そう思おうとしていたのかもしれない。すると、ぼくのすぐ横に真野が現われた。彼女は真っすぐ近づいてきて、言った。
「……踊りません?」
確かに真野はそう言った。ぼくは自分の耳を疑った。ダンスは男子が女子を誘うものだった。この人がそんなことを言うなんて……。周囲を見まわしたが、そこにいるのはぼくと須藤だけだ。須藤はぼくの左側で、彼女は右側にいる。間違いなく彼女はぼくを誘っているのだ。
「ダンスは苦手なんだ」乾いた声が口から出た。言いながら自分を呪った。
「…………」
「ごめんよ。この曲、踊り方を知らないし……」
「…………」
真野は視線を床へ落とし、そのまま立ち尽くしている。途方に暮れているようにも、また軽率な行動を後悔しているようにも見えた。眼の前に黒い影が割り込んできた。宇佐見だった。彼は彼女を何か言って誘った。真野は宇佐見についてフロアへ出て行った。ぼくはそっちのほうを見なかった。
「先輩、もったいないすよ」と須藤が言った。
「……踊らない主義だと言ったべ」
「だって、あの人に誘われて断るなんて、絶対もったいないす」
ぼくは須藤のほうに向いている左側の頬に薄笑いを浮かべてみせたが、そのまま強張ってくるようだった。それから向きを変えた。足は自然に教室へ向かっていた。黒い油のようなものが身内に広がっていく。――もう決心したんだから、と思った。同時に真野の気持ちを傷つけてしまった、とも思った。体育館を出ると、薄暗い廊下に真野のうつむいた横顔が浮かんだ。彼女は今、宇佐見と手を組んで踊っている……。チターの弦が刻む軽快なリズムが重苦しく響いた。
須藤がマチ場の親戚の家に下宿するようになったので、下校はまた一人になった。雪が降ったり融けたりの天気が続き、まだ自転車に乗れた。夜の道を行くと、きっと真野の顔が浮かぶ。忘れようとしているのに闇に向かうと現われた。
妄想を突き破るように、ぼくはサドルから尻を持ち上げて激しくペダルを踏んだ。スピードが増し、夜気は風になって頬に痛かった。間近に冬の気配を感じた。峠を下ると行く手に森が現われる。一年生の頃は森が怖かったものだが、今は慣れてしまった。暗くて見えないから得体が知れないだけで、陽が出ればありふれた風景にすぎない。だが、何気なく森のほうを見てどきっとした。少し高い位置を、二つ並んだ猫の眼のような光が横切ったのだ。それはほんの瞬時のことで、すぐ樹々に隠れるように消えた。ぼくは自転車のブレーキを引いた。ライトが消え、真っ暗闇になった。
ホッホー、ゴゴッコ……、意外に近いところで啼き声が聞こえた。やはり
針葉樹の森は眠ったように静かだった。霜枯れの草むらにはすでに虫のすだく声もない。しかし、樹々の間からこっちを見つめている視線を感じた。
「おい、梟!」とぼくは森の主を呼んだ。森は闇のなかになお黒々と覆いかぶさるように
「おまえは、恋をしたことがあるかい……」
闇が気持ちを大胆にして、そんなことを
砂利道を走りながら、図書室の図鑑で見た梟の姿を思い描いた。エゾフクロウ、シマフクロウ、コミミズク――どれかわからなかった。それでも、この世を睨みつけているような真ん丸な眼、柔らかい羽根に包まれたふっくらした体つきを想像できた。暗闇に一羽、孤独を嘆かず、思いわずらわず、ただ獲物を捕ることしか考えていない。ぼくが梟だったらどんなによかったろうか、と苦しいくらいに思った。また真野の顔が見え隠れするようだった。
冬休みが終わってから市役所職員の試験があった。卒業が近づいており、焦りも手伝って、適性はともかくぼくは受けてみた。試験場にあてられた公会堂の大会議室はびっしりになるほど受験者が押しかけた。自信がなかったのに、ぼくは一次試験に受かり二次試験の面接まで進むことになった。
面接試験は市役所の小会議室で行なわれ、試験官が数人並ぶ前に、一人椅子に腰かけさせられて質問を受けた。なぜ市役所を受けたか、と聞かれて、「両親の面倒をみていかなければならないので、地元に就職したかったからです」と答えた。趣味は読書とあるが何を読むか、とも聞かれた。「ドストエフスキーやカミュなんかです」と答えると、ロシアの翻訳小説ですか、と言われ、「はい、それもあります」と答えた。それから、どんな政治を望むか、と聞かれた。「家が貧乏なので、貧乏人の暮らしがよくなる政治を望みます」と答えた。声がかすれて汚い声になり、眼のまわりがほてって、あがっているのがわかったが、それを直すことができなかった。
二週間ほどたった夜、授業が終わると担任に呼ばれた。職員室へ行くと、担任は市役所に電話で聞いたら、すでに合格通知は出した、との返事だったという。つまり、ぼくに通知がきていないのは落ちたというわけだった。
「役所ってとこはお偉いさんのコネが物をいうっちゅうからな」と担任は含みのある言い方をした。そんな話を誰かに聞いたことがあったようにも思った。担任は煙草の煙をくゆらしながら「まあ焦るな、人生は長い。もう少し待ってみれ」と言った。ぼくは辛くて声が出ず、黙って頭を下げた。
職員室を出ると、無性に腹が立った。それが自分に対してなのか、自分を受け入れないものに対してなのか、はっきりしなかった。適性としては公務員に向いていないと思っていた。でも、それを相手から言い渡されるのは
校舎はほとんどの生徒が帰ってしまって静まり返っていた。空気まで肌寒かった。鞄と長靴を持って廊下を行くと、三年生の教室から生徒が三人出てきた。彼らはみんな長靴を履いたままだった。
「おまえら、なんで土足なんだ」とぼくは
彼らは振り返った。真ん中の背の高い生徒は古賀という札付きだった。あとの二人はいわば金魚の糞だ。しかし、三人ともぼくが一人と知ると見くびった眼つきをした。
「注意してるのになんだ。さっさと脱げ」
二人の生徒があわてて脱ぎ、古賀も脱ぎにかかった。古賀の態度は横柄でのろのろしており、その上こんなことを言った。
「汚くないすよ、外は雪だから」
その言葉がぼくの神経に触った。怒りでめまいがするようだった。「ちょっと来い」と言う声がかすれた。
彼らは素直についてきた。廊下を生徒玄関から右に折れ、体育用具室の横へ行った。彼らには咎められるにしても四年生は一人きりだし、自分たちは三人もいるからとの油断があったかもしれない。ぼくは廊下の角を曲がると同時に鞄と長靴を捨て、振り向きざま古賀の頬にビンタを張った。派手な音が響く。ついで素早く二人も叩いた。不意打ちを食って彼らは何もできなかった。
「誰が外靴を履いていいと許可した!」
「…………」
「それで下級生に示しがつくか!」
「…………」
「四年生を甘くみるな、おれがシツケしちゃる!」怒鳴っているうちに、ぼくの気持ちは猛々しく荒れた。
「いいか、みんな十発ずつだ。いま一発叩いたからあと九発受けろ」
拳で殴って跡が残ってはまずい、ビンタでいこうという意識はあったが、自分の手が興奮で震えるのを押さえられなかった。古賀は両手に長靴をぶら下げたまま、気をつけの姿勢をした。叩くたびに「すみません」と言った。途中、背の低い生徒が泣き出し、口を開けた。勢いづいた
雪の夜道を帰りながら憂鬱だった。人差指の傷がずきずき痛んでいたし、掌もほてっていた。けっきょく自分も不良と何ら変わりがなかった。長靴を脱げばそれで許すべきものを過剰に咎めたのだ。古賀は殴ってもいい奴かもしれないが、ほかの二人は従順な者たちだった。鼻水を垂らして泣いた下級生の顔を思った。自分の卑しさに腹が立った。
足元に湿った土があった。遠くにうねって流れる天塩川の川面が見えた。それが広がって手前で浅瀬になっている。流れの音で耳が痛いくらいだった。木崎が浮かんだのはもっと下手のほうだったはずだ。ぼくの眼は何となく下手へ向いた。
ぼくは黙って先に歩き出した。土手を登ると茫々とススキが生えた草原が見えた。そのなかに古びた小屋が建っている。
「あすこだよ」ぼくの声はかすれていた。この人はきっと怒るだろう、怒られてもいいや、と思った。小屋は傾いていて、うちの納屋に似ていた。振り向くと草丈が高いので彼女は顔しか見えなかった。草の匂いが体を逸らせた。
「いいものって、何かしら」
「…………」
ぼくは草むらをこいで小屋へ向かった。草が足にまといつくのか歩きづらい。小屋は入口の戸が壊れていて、四角い闇が見えた。かまわず中へ入った。
「なんだか、おっかないわ」
真野が入口のところに顔を覗かせた。ぼくはもう二階に続く梯子を登っていた。
「こっちなんだ」と言うと、彼女はこわごわ入ってきた。
「上がっておいでよ」ぼくは二階の板の後ろへ下がって、顔を隠した。周囲は藁束がびっしり並んでいて、その匂いもぼくを興奮させた。
「私をだましちゃいやよ」と言う声が足の下から聞こえた。
だましてやる、とぼくは思った。承知でやってきたんでないか……。
梯子の先に真野の不安そうな顔が現われた。ぼくは手を伸ばして彼女の手をとった。強く引き上げると、クレゾール液の匂いが強く漂った。ぼくは素早く彼女を藁の上に押し倒した。彼女は抗いながら「こんなことだと思ったわ」とぼくを見上げて睨んだ。かまわずスカートを捲くり上げた。白い太腿がむき出しになった。気持ちが逸って体を接したと思った瞬間、耐えていたものが
耳元で「いいのよ、心配しなくたって」と声が聞こえた。真野の声ではなかった。胸の下に時枝さんの顔があった。ハッとして同時に眼が覚めた。ぼくは
部屋の中は暗いが、カーテン越しに夜明けが青白く感じられた。父ちゃんと母ちゃんの寝息が聞こえる。とんでもない夢を見たと思った。布団から抜け出し、茶の間を横切って便所へ入った。厳しい寒さが襲ってきてたちまち体温を奪いとる。塵紙で穢れをぬぐっていると、自分が不潔きわまりないものに思えた。何一つ取り柄のない、卑しくて薄汚い十九歳だった。いや、盛りのついた牡犬と同じだった。
便所の窓ガラスに白い氷模様がこびりついている。爪で引っ掻いても外は見えなかった。自分が惨めでやりきれなかった。ふいに涙があふれた。これからどうしていいのかわからなかった。生きているのが辛かった。
卒業式がやってきた。ぼくたちは全日制の生徒といっしょに体育館に入場し、着席させられた。横に並んでいるのは在校生だが、顔を知らない全日制の生徒たちだった。定時制の在校生はみな仕事を持っているから、卒業生だけしか参加しないのだ。名前が一人ずつ呼ばれ、返事をして立つ。定時制は全日制のあとだった。ぼくの名前を呼ばれたとき、緊張して変な声になった。全日制の総代が校長の前へ出て、卒業証書を貰った。ぼくたちは総代の動作に合わせて頭を下げた。
校長の訓辞も何人もの来賓の挨拶もほとんど同じ内容だった。〈明日を築く人材〉とか〈洋々たる前途〉とか、紙に書いた紋切り型の言葉を並べ立てていた。
定時制で新しく就職が決まった者はわずか八人しかいなかった。みんな不満ながら今勤めている零細企業を続けていくしかなかった。入学したときの燃えるような意志はとうに冷めてしまっていた。いったい、この四年間は何だったのか、希望の欠けらも得ぬままに押し出されていく。
担任は、「まだ機会はある、おまえに向いたのがあったらきっと連絡してやる。旭川の新聞社に知人がいるから口をきいてやろう」と言ってくれていたが、それっきりになっていた。卒業してしまえば、あとは自力で探すしかないだろう。
式が終わると、控え室にあてられた音楽室に入った。ぼくたちの教室は全日制の卒業生が使っているからだ。
担任から一人一人に卒業証書が渡された。「四年分の領収書、たしかにいただきました」という奴がいる。「額に入れて飾っておくかな」という奴がいる。「やっと煙草が喫える」という奴もいる。ぼくは妙に冷めた気分になって、クラスメートのはしゃぐ声を聞いていた。
卒業証書を渡してしまうと、担任は両手をこっちに向けてみんなを制した。「改まって言うのも変だが、私から別れの言葉を言いたい」と言った。ざわめきが収まった。担任はちょっと眼を閉じてから、ゆっくり言葉を探すように話し出した。
「……安楽に生きていくことができれば、それはそれで幸運なことだな。しかし、波風の立たない一生ちゅうものはまずあり得ん。いったん苦難がやってきたとき、それを乗り越えることができるかどうかっちゅうことでその人間が決まる」
担任の話しぶりに引き込まれそうになった。それを信じたいと思った。だが、現実はそんな
「君たちは四年間よく耐えた。今後、どんな困難に遭っても必ず乗り越えられる、と私は信じてるよ。トレーニングは終わった、誇りをもって堂々と生きていってくれ」
級長の松本がハンカチで眼を押さえている。
「先生、うまいこというなあ」と中島が胸を詰まらせたような声をあげた。
「そりゃあそうだ、何度も言ってきたことだからな」と担任は少し微笑んだ。担任の奥さんは年の離れた若い人で、夫が定時制に勤めていては家庭の
「よし、立派に生きていくから。先生も頑張ってや」と立花が怒鳴るように言った。それから誰ともなく拍手が沸いた。
校門を出るとき「さあ、これでおさらばだ」と誰かが言ったので、振り返って校舎を見た。板壁のペンキが剥げ落ちた汚い建物だった。屋根は青く塗ってあるが、ところどころ錆びついている。ぼくたちの教室の窓は雪で半分ほど埋まっていた。こんなふうにしげしげと校舎を見たのは初めてだった。いつも闇のなかで窓明かりだけを見てきた気がする。
十字路のところでクラスメートと別れた。「元気でな」「手紙くれよ」などと声をかけ合う。手を振っている者もいる。ぼくも丸めた卒業証書を振った。別れていく者たちのなかに、木崎も上原もいないのが寂しかった。
右手に准看護婦養成所の赤い屋根と白い壁が、枝ばかりの白樺の並木の間に見えた。この建物の中の、たった一人を思って過ごした日々はもう終わった。そう思っても視線はどうしてもそっちへ向いた。しだいに意識が強張ってくる。歩いて行くにつれ視角が変わって、二階で窓を拭いている少女の姿が眼に入った。ぼくは心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。少女は相川だった。相川は窓を開けて「おめでとうございまーす」と言った。
ぼくも軽く返礼しながら、よろけそうになった。顔をねじったままでいたので、氷の轍に足をとられたのだ。足元を確かめてから、また二階の窓を見た。相川が引っ込んで、真野が顔を覗かせた。今日は休みなのか、白衣ではなく薄青色のセーターを着ている。
彼女はこっちを見つめたまま動かない。切なさが募って、息苦しかった。――ぼくは何も力のない人間だ。でも、これから、きっと力をつけてみせる。そして、君を迎えに来たい――大声でそう言いたかった。しかし、喉が塞がったようになってしまった。
「さよなら……」
口から出たのはそれだけだった。右手を少し上げて振ると、真野も胸の辺りで掌を開いた。それが白い、小さな花のように見えた。ぼくは思いを断ち切るように顔を前へ向けて、眉根を引き締め、
底本 : 『闇の力』 構想社 一九九六年六月二五日初版発行
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