―――――余 談――――
●2024年賀状 辰年生まれの年男
辰年生まれなので、今年は7回目の年男! 高校生の頃だったか、祭りの露店の人だかりに干支の運勢を占うおじさんがいた。耳を澄ましていると「辰年生まれの人は蔵が建つ前に腹が立つ」と言った、その言葉をいまも記憶している。
そんなの当るもんかと思っていたが、老境に到ってわが身をみれば、たしかに蔵なんか持てないマンション暮らし、そして、このところニュースを見るたび、理不尽な現実に嘆き憤るばかりだ。新年を祝ってる場合かと思うけれど、やはり願わずにはいられない。今年がよい年でありますように。2024/1/1
●水面の塗り
10年前に彫った水を飲む猫、「蘇生の刻」なんてタイトルを付けたにしては、まるで汚水を飲んでいる感じがして気になっていた。
水面に映る猫が揺らいでいるような塗りはできないものか……画像ソフトでいろいろシミュレーションしてみたが、どうにもうまくいかない。それは塗りではなく絵の領域、絵の下手な私には無理と悟った。で、全体を薄めにカスレ塗りし、頭の下だけ少し濃いめに塗り直した。大差ないように見えるが、どうやら“飲める水”になったと思いたい。2023/9/9
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●孫娘が描いた愛猫イラスト
次女の長女(つまり私の孫・大学1年生)が飼い猫“ゆず”を描いた。
この猫は私もこれまで木彫作品にしようと、次女から送ってくる数多くの写真を参考に、また実際に面会 (?) して下絵を描いてきたが、やはり日常、猫と生活している者の観察眼は違う。“ゆず”の目鼻の特徴やふっくらした体型を、シンプルな線描きでよくとらえているし、淡い彩色でほのぼのとした愛らしさも表現していて、感心した。これは「才能あり!」でしょ。2023/7/8
●2023寒中お見舞い
今年は、寒中お見舞いとなりました。
新しい年を笑顔でスタートしたいものと、人の手と子猫のじゃらけるシーンを入れましたが、こんな平穏が続けられるでしょうか?
添え書きは、一言では収まらなくなりました。2023/1/8
寒さに負けず
コロナに負けず
物価高には負けそうだけれど…
今年もお元気で!
●“くり抜き木枕”を作ってみた
仰向けに寝て本を読むのが、私の読書スタイルである。これは著者にかなり失礼な恰好だし、この体勢になるとつい寝てしまうこともあって、必ずしも読書向きとはいえないが、腰痛を和らげるには最も楽な姿勢なのだ。
YouTubeで木枕を制作する動画を見つけた。中学校の授業を撮ったもので、黒板に図面が描かれ、教師が教える工程の一部始終を知ることができた。完成すると、1枚の板がクロスさせればたちまちX型の枕になる。熟睡する枕には向かないかもしれないが、昼寝や本を読むにはちょうどいいかもしれない。
動画では、クロスする引っかかりが2カ所あって、そのため板を横5列にわたって細工している。この引っかかりを1カ所に簡略化した3列の設計図を引いてみた。1枚の板がなぜこうなるか、私の頭のなかはまだ立体的にこの構造を理解しきれていないのだけれど、手順どおりやればできるだろう。2022/1/22
ドリルで穴をあけ、電動糸鋸で直線部分を切り、鑿を叩いて溝を彫り、鋸で縦2枚に切り分ける。この一連の糸鋸・鑿・鋸をあつかう精度が試される作業だった。溝彫り以外はすべて一発勝負なのだ。木彫はともかく、“木工”に慣れていない私は、糸鋸で切るさい2ミリほど誤差を生じ、クロスすると擦れて渋くなったが、ヤスリをかけ少し隙間をとって緩くすると収まりがよくなった。なんだか、あっけないほど簡単にできてしまった。
完成して初めて、この形を立体的に理解することができた。江戸時代からあるというこの木枕、不思議な構造を最初に発想した名も知れぬ先達に敬意を表し、再現できたことを喜びたい。2022/1/25
●2022年賀状 先が見えない世の中だから
マスクの時代はいつまで続くのか、かなり収まってきたように思えるが、次々に変異株が現れて予断を許さない。嫌な出来事も多すぎる。先が見えない世の中を生き延びるには、いま、この時を楽しむしかないようだ。年賀状デザイン、いつもは画像を白抜きするのだが、白いハガキの中に白猫を置いたのではまるで映えないので、背景を暗色にして引き立った。じゃれつく猫のように、面白がれることを探していこう!2022/1/1
●私の間違い作品
ここに並べた2作品はいずれも間違いがある。お分かりになるだろうか?
まず左の黒猫。獲物を狙ってそーっと忍び寄る姿勢だが、この猫すでに爪を出している。犬と違って、猫は忍び寄るときには音を立てないように指~肉球の間に爪を隠している、爪を出すのは獲物を捕らえる瞬間だ。その習性を知らずに彫った失敗作である。修正すれば直せるが、安易だった自分の戒めのため、そのままにしてある。
右は鏡枠の裏側に彫ったものだが、風鈴と簾の下で丸くなって寝る猫。この間違いは猫を飼っている人なら分かるに違いない。板面の陰刻の図柄から季節は真夏、ほんの少しの涼風でもほしい酷暑のさなか、猫はだらけて四肢を伸ばし、体熱を放散するポーズになるはず。丸くなって寝るのは気温の低い秋か冬だ。これもまたそこまで考えが及ばずに彫った私の失策である。
猫の習性や行動を知らずに、ただ漫然と彫っているとこんなことになる。反省……。(2021/8/8)
●チェンソー彫刻家 ヨルゲンさんの凄技
チェンソーで動物を彫る凄技のアーチストを見つけた。ドイツの彫刻家 ヨルゲン・リングル・レベテズ(Jürgen Lingl Rebetez)さんだ。
これまで、YouTubeでチェンソーによる彫刻の動画をいくつか見たことはあるが、この人の作品は格段にクオリテイが高い。大雑把な作業にしか向いていないと思われるチェンソーを巧みに使って全体像を形造り、目や鼻など表情の要所は叩き鑿や彫刻刀で彫り出していく。着色も一見無造作に見えるほど早い作業ぶりだが、出来上がった作品は緻密にして、かつ荒々しい迫力に満ちている。
Webサイトにはライオンや豹、チーターなどの野生動物から身近な犬・猫・兎や鶏まで、数々の木彫作品が紹介されている。また作業工程の動画やヨルゲンさんが語る場面も多くある。ドイツ語がわからないので私には何を言っているのか不明だが、木材を作品に変えていく手順が興味深く面白い。柔和な顔立ちにレスラーのような体格で、いかにも腕っぷしが強そう……造形力の源をみる気がする。動物だけでなく人物像も手掛けていて、モデルを前に木材に下描きなしでいきなり彫り始めていくのに驚かされた。(2021/3/5)
●ほのぼの~ほっこり猫川柳
猫川柳をときどきネットで集める。ほのぼの~ほっこり……猫のいる小景を見事にとらえた句に出会うと、つい笑ってしまい、みんなと共有したくなる。短いが深いのだ。達人級の作句者に拍手、柳名を記して敬意を表します。末尾句は拙作、とても肩を並べられないのですが、ニャンとかお許しを。2021/1/18
雨降りを窓から見てる猫と爺 もみじ橋
アッそうだみたいに猫が走り出し ピロリ金太
いま猫がテレビ会議を横切った ホヤ栄一
はしゃぐ犬アホかと猫は冷めた目で よねづ徹夜
社で言えぬ本音を猫に聞かせる夜 柏原のミミ
ルンバ乗り移動が楽と知った猫 まりぽん
何もない壁を見るのはやめて猫 木村美智子
別れたら猫を飼うぞと決めている 稲葉樹逸
猫逝ってもうおはようを言えぬ朝 砂田真綸香
年賀状わが家の干支はいつも猫 Ryo爺
●2021年賀状、コロナ克服の年に!
コロナ蔓延でSF映画の中にいるようだ。みんなマスクをしているので目だけで他人を認識しなければならない。人に接するな、街を出るな……心の触れ合いはますます失われていく。猫と人のほのぼの場面を彫り、干支でもないのに年賀状のデザインにすることで、せめて、ささやかな笑いの共感を得たい。耐える日々は続く、「コロナ克服の年になりますように」と添え書きした。2021/1/1
●家族に子猫が加わって
次女宅で猫を飼った。スコテッシュフォールドとラグドールの混血で、“立ち耳スコ”と呼ぶらしい。名前は「ゆず」。まだ目の色はキトンブルーに濁っているが、立派な玉がついているオスで元気がいい。動くものはなんでもジャレつく仕草にみんな「可愛い!」を連発。ことし80歳の私はコロナ感染を用心して娘たち家族と会うことを自粛しており、子猫とも対面していないけれど、連日写真が送られてくる。自称“猫彫り師”の私にとっては、願ってもないモデルがファミリーに加わったので、どんなポーズを彫ってやろうかと、大いに楽しみな課題となった。2020/7/22
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先日、子猫に会ってきた。指の匂いを嗅がせて挨拶(?)し、それからいろいろかまってみた。新聞紙を伏せて下に手を入れガサゴソ音を立てたら、跳んできて前足で押さえこむ、または音源を探して下に頭を潜り込ませる。好奇心旺盛で機敏だ。遠くから眼付けをして目が合ったら隠れる“ダルマさんが転んだ”をやってみると、本能的にルールを知っているようで、隠れた隙に歩を進める。それがやたら早くて、まだ大丈夫と思って顔を出すと、もう鼻先まで目を見開いた顔が迫っていたり……。とにかく果敢で素早い。この果敢さをどう造形するか。2020/9/5
●真を写して形を写さず
TVの“開運!なんでも鑑定団”を見ていると、圧倒的に陶芸品が多いが、ときたま木彫作品が出品されることがある。現代ではほとんど名前の知られていない作家の作で、まさに掘出物のような名品が発見されたりする。
先日は市川銕琅の「皿廻人物」という作品が出て、驚くほどの高値がついた。
作品の皿回し芸人は何時代か、着物とワラジといういでたち。鼻と唇の間(人中)に長い竹の棒を乗せ、その先端に皿を乗せている。唇をとがらすようにしてバランスをとっていて、目は高い竹の先の皿を見守っている。右手に日の丸の扇子、左手は大きく曲げ挙げた左足の端をつまんでいる。つまり立っているのは右足一本の片足立ちである。その緊張感のなかで、着物の襟が大きくずれて肩が見えそうだし、帯は斜め、着物の裾は尻端折りしている様子から、おかしみも漂ってくる。竹の棒のしなり具合も絶妙だ。
文章で書くと、このようにいささか長ったらしくなるが、作品は一見して、それらが伝わってくる出来栄えである。
この名工の生きた時代は1901年(明治34)~1987年(昭和62)、私が22歳まで同時代を生きた人だったのだ。彼は加納鉄哉に師事したが、生涯、師の言葉「真を写して形を写さず」を制作の信条にしたという。
老後の時間潰しに彫っている私にでも、その目指すところはわかる気がする。次元が違うよ、と言われそうだが、猫を彫って、そのポーズを形取るだけでは単なる模型になってしまう、そこを抜け出たいと常々考えながら彫っている身には、この言葉は深い。
木彫家というよりは木彫師、芸術家というよりは職人と呼ばれた市井の名工が数多くいた時代は、いつごろが全盛だったのか。こういう日本の伝統的な木彫を生業としていた人たちの仕事ぶりに惹かれるし、後世に名を残せなかった名工もいたはずであり、それら先達の作品にもっともっと出会いたいと思う。2022/4/12
●つい笑っちゃう猫川柳
久しぶりに笑える猫川柳をネットで集めてみた。なんでもないような小景が目に浮かび、つい笑ってしまう……このほのぼの感を分かち合いたく、引用させていただいた(作者に敬意と謝意を表し柳名を付す)。これら秀句に並べるのはおこがましいけれど、末尾に管理者枠で自作を1句、笑えなくてもご寛恕を。2020/3/15
「あ、おばさん」隣の猫が会釈する 紙風船
捨て猫を囲んで子らが話し合い ノウセイ
座布団と一緒に猫も干されてる 小雪
ぐち聞いてくれてた猫が眠ってた オカリナ
耳こっち向けてる猫の知らん顔 ホヤ栄一
「家賃です」みたいに猫は獲物置き ちょちょ
アノ猫が居る角をねと道教え 春野小川
野良猫はオラオラ系の目をしてる ひとちゃん
犬猫はもらうか拾うだったよね 荻笑
餌要らず糞処理もなし木彫の猫 良二
●2020年賀状、今年もヨイショッ!
「四股ふんじゃった。」という腹が痛くなるほど笑った映画があった。娘たちが小学生のころ、「猫ふんじゃった」の曲を速弾きする競争をしていたことがあった。そんな連想からいえば、タイトルは「猫も踏んじゃった」にすべきか。世の中、面白くないことばかり、怒りに手を上げても下ろしどころがない状態だ。しゃあないから足を上げてインナーマッスルを鍛え、不時の事態に備えよう。転ばぬ先の四股! 2020/1/1
●仲間たちが彫ったミニ動物
“麻の実会”は週1回集まる木彫サークル(北老人福祉センター)、会員のほとんどが実用的な板物・箱物(トレイや温度計、ティッシュボックス、時計など)を彫っている。レリーフが主体で、絵柄も草花をあしらったものが多い。ところが、私がもっぱら立体の小動物を持ち込むものだから、興味を持った会員がやってみたいと言い出した。それで、なんとなく“教える立場”になってしまった。
この2~3か月間に3人の会員が初めて手掛けた立体作品を紹介しよう。三角輝明作「ライオン」、小柳さつ作「ウサギ」、吉川裕子作「ネコ」。手の平に乗るほどの小さな彫刻だが、みんな気持ちを込めて彫った。動物には仕草や表情というものがあるので、完成すると木片に生命が宿った気がして、格別の愛着がわいてくるようだ。2019/6/22
●2019年賀状、初夢は…
日本人の初夢は、①富士、②鷹、③茄子、と昔から言われてきた。しかし、いまや、①不時(フジ)の災害、②高(タカ)値の物価、③為す(ナス)すべなし……が夢ならぬ現実。ハカナイ夢なんか見るより、ぐっすり熟睡したほうが明日の活力になるかもしれない。改元の歴史的新年、果たしてどんな年になるのか。権力者の都合で猪突するのでなく、他人を思いやる心の余裕が持てる世の中、庶民の希望が漸進であれ実現される世の中になってほしい。2019/1/1
●作品の完成が遅れる理由
このごろ、作品の完成が大幅に遅れている。作品の作り方が変わってきたことによる。
いま、木彫の取り組みは、麻の実会が毎月4回(毎週金曜日)、カービング教室が月2回(隔週火曜日)に出掛け、それぞれ2時間ほど作業をする。
麻の実会は会場が北区老人福祉センターの職能訓練室なので、大きな木を切ったり割ったりすることはできないにせよ、叩き鑿での粗彫りや彫刻刀で彫る作業は自在にできる。ただし電動工具の持ち込みは禁じられているので、グラインダーで細部を削ったり、カービング機器を使って焼き目を入れるような作業はできない。もっぱら彫る作業、あるは彩色の作業に限定されることになる。
一方、カービングのほうは、道新文化センターの教室がカーペット敷きのきれいな部屋なので、鋸を使っての木取りや叩き鑿を使っての粗彫りはできかねる。やはり彫刻刀を使う作業が中心になるが、電動工具は持ち込み自由なので、グラインダーはもとよりカービング機器も、塗りの段階に入ってのドライアーの使用も可能だ。
木彫を始めたころは、家で朝から晩まで夢中になってやっていたので、例会日の出席は二の次で、創作意欲の赴くまま、家でどんどん進めていた。そして例会でできる作業がちょうど日程と合うときだけ出席していたので完成も早かった。それが、このごろは例会の日程を大事にし、できるだけ例会に出掛けて行ってやる作業を残しておくようにしている。
年をとって、先輩や友人が入院したり、冥界に去っていく人もいて、私の周囲の話し相手が次第にいなくなってきた。いまや木彫を共通話題にできる仲間のいるところが貴重な居場所であり、情報交換の場になった。おしゃべりをしながら作業をするのが、唯一他人と交流できる楽しみになってきたわけだ。
四六時中、家にいて創作に専念する“孤高の姿勢”なんてのも恰好いいけれど、息抜きも必要だ。どうせ“猫もどき”のような作品をつくる趣味の領域なのだから、楽しむことも大事に思える。
たとえば途中まで彫って、あと仕上げにこことここをやれば終わるので、すぐにも完成させたいときでも、それを次の例会日の作業としてとっておく。別に例会にも教室にも皆勤賞なんてないのだが、仲間の顔を見、おしゃべりをするために先延ばししているわけだ。
このような彫り方にメリットがないわけではない。待ち時間が長いだけに、このごろは手を下す前にじゅうぶんに制作過程を吟味するようになって、つくりが丁寧になってきたと思う。
もっとも創作物には勢いのようなものも必要だ。そういう意欲が高揚したときは、それを押さえ込んでまで先延ばしすることはしない。とくに造形として出来を左右する重要な個所を彫るとき、生き物の表情のポイントとなる目・鼻・口を彫る~彩色するときは、かなり気合を入れてかからなければならないので、周囲に人が居るガヤガヤした雰囲気の中ではできない。こういう場合は、やはり家の誰もいない静かな場所で、木と対峙する気持ちで向かうことになる。2018/10/3
●題名考
木彫の作品には彫るだけでなく題名も付けなければならない。題名は、完成する前から決まっている場合もあるが、彫っているうちに意図した方向とはニュアンスが変わってくることもあり、やはり最終的に決まるのは出来上がってからのほうが多い。
小説を書いていたころ、題名にはかなり苦慮した。なんの苦もなくできる場合もあるが、どうもしっくりこなくて本文以上に悩んだこともある。身を削るように考えに考え抜いて疲れ果て、放り出して忘れたころ、突然天の声が聞こえてきた場合もあった。小説は文章で表現するものだから題名も作品のうちだ。実際に題名によって作品が活きもし死ぬもする。
その点、木彫の場合は仕上げた創作物の出来不出来が勝負で、題名はどうでもいいわけではないが、二の次のような感じがする。それでも「作品A」なんていうのではまるで味気ないし、「座る猫」なんていうのもあまりにもそのまますぎて面白味がない。公募展や展示会に出品するときは、やはり真剣になって、情緒的かつ思わせぶりな題名に頭をひねる。アイデアが複数浮かんで、展示するたびに、そのときの気分で変えてしまうこともある。ある意味、いい加減だ。
パクリもけっこうやる。“歩く猫”を彫ったとき、マル・ウォルドロンのジャズ・ピアノ曲「キャット・ウォーク」を使わせてもらったし、“首を後ろ足で掻いている猫”は相米慎二監督の映画「あ、春」をいただいて、ぽかぽか陽気の雰囲気を出した。また私にしては大作だった“水を飲む猫”を仕上げたときは、若いころ面識を得たことのある小林敬生画伯の木口木版「蘇生の刻」を拝借した。これらの行為は“盗作”ということになるのだろうか。まあ、遊び心~パロディということで笑って許してくれるのではないか、よもや、渾身の作品の題名をたかが“猫もどき”に使いやがって、と怒られることはあるまい、と思うが……。
でも、できるだけ私らしいオリジナリテイを作品にも題名にも表現したいものだ、とは考えている。いままで“自力”で付けた題名では、鏡に写る自分の姿を威嚇している子猫の「怪しい奴」、足を思いっきり挙げて舐めている三毛猫の「きれい好き」、全力疾走で逃げる猫の「逃げ足」、居眠りしながらシッポで子猫にジャラケさせている「母子交歓」なんかは、気に入っているほうだ。2018/9/1
●木彫年賀状、今年はワンコが
年賀状には、いつもニャンコを登場させるのだけれど、今年は戌年なのでワンコがご挨拶。「豆助」の風呂敷に包んだ“福運”をお届けします。
世情はどうも願いとは逆の方向にばかり進んでいく。為政者に侮られ続けているのに国民は何とも思わないのかね。年寄りは「ニュース見るたびに体調わるくなり」なのだ。犬のようにシッポを振ってんでなく、吠えつき、噛みつくべし。2018/1/1
●孫娘が描いた猫の絵
中学1年生の、次女の娘(つまり私の孫娘)が猫の絵を描いた。祖父(つまり私)が猫を彫ることを得意とするので、その影響と喜びたいところだが、もともと母子ともに猫が好きなのだ。長女の家ではすでに犬を飼っているし、母親は高校受験が終わったら飼おうね、と約束しているらしい。待ちきれない気持ちから、画題に選んだのかもしれない。
母親が学校参観に行ったとき、壁に貼り出されているのをスマホで写して送ってきた。女の子らしい感覚で淡い色合いの猫が愛らしい。もふもふ感もよく表現されていて、口を開けているほうからは鳴き声が聞こえそう……テレビ番組“プレバト”みたいに「才能あり」と言ってみたが、これは身内の贔屓目だろうか。2017/12/10
●毛並みの表現
小動物はたいてい体毛で覆われているので、木彫でそれをどう表現するかは、いつも大きな課題である。いままでは、まるでペンキ塗りのようにサッサッサーッと3度ほど塗り重ねて完成させていた。
カービング教室の教えは薄塗り、それも何度も何度も塗り重ねて目的の色を出していくという方法だ。「焦らず気長に」「彫るのと同じ時間をかけて」という。あるバードカービングのサイトには「私は最低でも6回は塗る、初心者は10回かけよ」と書いてあった。せっかちな性分の私には耐えられないような忍耐力が必要になる。
カービング教室の習作は、講師の目があるので、何度も塗ることを余儀なくされているが、自宅で取り組む作品は自制がきかなくなって、ついサッサー塗りをやってしまう。今回の「アビシニアンⅡ」も得意の簡便な手法で仕上げるつもりだった。
アビシニアンは同じ形の2度目の彫りなので、いつになくいい形になってきた。これは傑作になりそうだと気合も入っていたのだが、木質が柔らかすぎるせいか、木が生長する縦の方向はいいが、横に彫ると蛇腹状のグザグザ割れが生じた。とくに木口はその状態がひどい。彫刻刀を丹念に研いでもやはりうまく切れず、同様になる。前に彫ったアビシニアンもシナ材で横彫りがスムーズにいったのに、まるで別な木種みたいだ。前作は横に彫ったランダムなエッジに濃い茶色を硬い筆で擦りつけるようにして仕上げた【左図】のだが、その手法がとれない。
ならば、全身を研磨してしまおうと、ヤスリ掛けをしサンドペーパーで磨いて滑らかにした。これで学習中の薄塗り重ね手法を応用してみよう、と。ところが、全てきれいな平面というものは、いかに薄塗りをしても色むらが生じてしまう。つまり塗った端が天井の雨漏り跡のような汚れが出てくる。下手なせいかもしれないが、塗っていてまだ乾いていない個所には次に塗ればうまくいくが、塗った面積が拡大するにつれ、乾いていく個所は増える一方、とても追いつかない。
で、考えたのは、バードカービングの場合、羽根や羽毛の細やかな彫り跡やバーニングの跡があるので、そこに絵の具がとどまって薄塗りの効果が出るのでないか。つまり猫に羽根の代りになるものを付けたらいい、と。その最初の方法は、電動ルーターで毛並みの凹凸を付けてみることだった。さっそくやってみたが、なんということか、またもやシナ材の木質に邪魔をされた。切れの悪いシナの繊維が出てきて、櫛を入れない髪のようなモサモサした形状になって、これでは野良猫だ。この方法は断念せざるを得なかった。
けっきょく最終的にはバーニングで毛並みの焼き目を入れた【右図】。これは猫の全身に1本1本描かなければならない作業なので、ひどく肩が凝った。しかし、この小さな浅い溝が絵の具の溜まりになって、色むらを押さえる効果があったと思う。いま、薄塗りは4~5回目というところ、まだ満足できる仕上がりとは言い難いけれど、私なりのカービング技法応用の第一歩となりそうだ。2017/9/24
●“カービング教室”を受講
4月から道新文化センターの“バード&アニマルカービング教室”を受講している。講師は房川比呂志先生。初級・中級・上級とあるのだが、ホームページの作品を見てもらったところ上級クラスに入ることになった。いままで我流で彫ってきたので、このさい、カービングの正統な基礎基本を学びたい。
教室は、先生の彫った模範作品を傍らに置き、正確にそのまま真似るという学び方をする。本場アメリカで研修した講師の作品は、まさに生きて飛び立つようなリアルカービング──極めて精緻な出来栄えだ。それを忠実になぞるという作業は、自由気ままに彫りたい私としては苦手この上ないのだが、その気持ちを自制し、初心に返って、教えを素直に吸収したいと思っている。
いま取り組んでいるのは「イヌワシ」。事前見学に行ったさい、講師が最初に見せてくれた作品で、初回にそれをやることにした。教室の方針は、3S (①Small スモール(小さい)、②Slow スロー(ゆっくり)、③Safety セーフティー(安全) ということなので、のんびりライフにぴったりかもしれない。2017/5/10
●喜寿を迎えて
とうとう77歳、“喜寿”を迎えた。年を重ねると誕生日なんて嬉しくもなんともないけれど、子や孫たちに「おめでとう」を言われると、ハッピーな顔をしなくてはならい。
父は77歳で亡くなった。私は年相応~人並みに病や体調不良を経ながらも、現代医学のお陰で余命を保ち、趣味を楽しみ、子孫の成長を見守ることができるのだから、やはり素直にハッピー・バースディを祝っていいのかもしれない……と、幼い孫たちのウケをねらって、記念のマンガを描いた。
私自身はこんな浮かれた気分ではない。“喜寿”を期して、新たに「カービング教室」(道新文化センター)を受講することにし、さらに高度な木彫技術を学ぶ決意である。
猫を彫る力瘤あり喜寿迎う 良二 2017/4/8
●ニャン賀状でご挨拶
新年おめでとうございます-両手をついて挨拶しているように見えれば幸い、日向ぼっこの猫の形です。
ニュースを見るたび、嘆き、腹立ちを抑えられないこのごろ。下界のことと達観していたいのですが、どうも神ってる(使い方間違いかな)心境になりきれない。正月くらい日溜まりをみつけ、温みを逃がさぬよう体を丸めて、ほっくりしていたい。健康で心豊かな一年でありますように。2017/1/1
●スローな仕事
このごろ、木彫作品が完成するまで、時間がかかるようになった。
いままで一つ仕上げてから次作に進むというやり方で進めてきた。大体、1~2か月に1作というペースだった。それがこのごろ、どうもその期間内に完成させられなくなっている。制作途中でこのあとどうするか、決断するのに時間がかかるようになった。数年前までは頭にイメージがまとまっていなくても、彫っていればできちゃうという感じだったのに……。
これが老いという現象か。年賀状の添え書きに、そろそろスローライフに切り換えます、なんぞと書いていたのだが、言葉だけで自覚はなかった。それがフェードインするようにゆっくり現われてきた。私は、来年喜寿を迎える。
先日、横尾忠則さんのテレビ番組を見た。80歳になったというポップアートな画家のアトリエには、描きかけの絵が何点も並んでいた。カメラが入っているのに、ぐずぐず画集をめくったり、ぼんやりしていたり、そのうちに散歩に出かけた。なかなか仕事をしない、まるで急ぐ風がない。
翌日、やっと描き始めたが、いくらもしないうちに止めてしまった。で、最初からこのように描こうと思ったのか、との問いに、黒いバックにしようと思っていたが、絵の具を選んでいるうちに忘れて焦茶色になったと言ったのには、笑ってしまった。でも、これもいいのでないかと思う、という。もちろん、まだ途中経過、未完成の状態だ。未完成の作品を放っておき、時間をおいて、その絵ともう一度出会うと、新鮮に見えることもあるらしい。どうも、放っておくことも大事なことらしい。
画家は今後どこに向うのか、インタビューに答えていた。
「肉体は退化するかもしれないが、創作意欲は退化しない」
「いい絵が描けないから引退しますとはいわない、いい絵が描けない状態を体験したい」
「体力も衰えてくるし作品も劣ってくる、そういう作品をみたい。頑張って描いた作品は重苦しい。作品に力がなくなってくるのは精神が軽くなっているのでは……」
そのうち、猫の話になった。
(愛猫が2年前に亡くなったそうで、会いたいときに猫の絵を描くという。アトリエに猫の絵が何枚もあった)
「猫はアーチストの鏡だ。わがまま、気まま、妥協しない。どんな場合でも虎視眈々と遊ぶことを考えている」
「猫の性質はアーチストが持っていなければならない性格だ。ぼくの先生でもある」
「創作の原点は遊びにつながる。大義名分のためでなく、描くことが目的なんだ」
そうだ、猫を彫っているのに気づかなかった。私が猫のようになればいいのだ。ジャレること、遊ぶこと。いつまでにやらなければならないなんてことはないのだから、3か月かかろうが半年かかろうがなんら支障があるわけではない、要するに面白がっていればいいのだ。面白くないなら放っておいて、面白くなるまで待っていよう。スローライフのあり方を見つけた。
横尾さんの言葉に力づけられた、いや違う、力を抜いてもらった、と言ったほうが正しい。なんか体も気持ちも軽くなった。2016/12/20
●来訪者たち
毎週水曜日、道民活動センター“かでる2・7”の6F創作室で温故の会の例会が開かれる。先日、しのぎやすい気温になりドアを開け放して作業をしていると、廊下を幼児が歓声を上げながらバタバタ走る。何度も行ったり来たりしている。同じ階の別室でお母さんたちのバザーのような行事があり、連れてきた子供たちが飽きて、走り回っているようだ。
ドアの近くにいた会員が「おいで」と手招きしたら、3人の子(男2人、女1人)が物怖じせず入ってきた、そして「あ、猫だ」と言った。
ちょうど私は“アビシニアン”を制作中で、そろそろ仕上げ彫りに入る段階だった。みんな私の猫のところに集まってきた。木彫を見るのは初めてのことらしく、興味津々の目付きだ。
机の上の、取り散らかした彫刻刀を寄せてずらし、
「これは手を切ると血が出るからね、触っちゃだめだ」
「そばで見てるのはかまわないよ」呼び入れた会員が言った。
「みんな何歳?」と聞くと、「5歳」とか「4歳」とか言って、指を出す者もいた。
おずおず一人が質問を始めた。
「猫つくってるの」
「そうだよ」
「どうしてつくってるの」
「面白いからさ」
「服、汚れるしょ」木屑を見て女の子が言った。いつもお母さんに注意されているようだ。
「だから、エプロンを着てるんだ」
「ふうん」
仏像を彫っている会員が後ろから言った。
「欲しかったら持ってっていいよ」
男の子がためらいがちに、
「ぼく、お母さんに聞いてくるかな」
「持って行かれたら、オジイさんすることなくなっちゃうよ」
「…………」
男の子は私の前を通り過ぎて、後ろの机で仏像を彫っている会員のほうへ行った。
「それ、人間なの?」
「うん、まあそうだな」
「頭、禿げているんだね」
「うん、まあ、そんなわけでもないが」
「彫っている人に似るんだ。そのオジイさんの頭とおんなじ」私は仏像を彫っている会員に仕返しを言った。
男の子は、ふうん、とは言わなかった。
3人の幼児は、会員たちの所をひと回りして彫っているものを眺めてきたが、また私の所に集まった。猫にいちばん興味があるらしい。彫刻刀を置き、一休みする気で猫を前に押しやる。
「触ってもいい?」
「いいよ」
男の子が木彫猫の頭を撫ぜると他の子も順番に撫ぜた。
足元に彫った木屑がいっぱい散らかっている。一人がしゃがんで手でつまんだ。
「それ、猫のウンコなんだよ」と言うと、
「えーっ、嘘」と驚いて手の臭いをかいだ。
「木の猫だから、ウンコも木なんだ」
みんなしゃがんで、削り屑を拾って臭いをかいでいる。
「ウンコだ、ウンコだ」歓声をあげて喜んでいる。
そのうち、廊下が静かになったのでお母さんが心配したらしく探しにきて、開けたドアの横から顔を出した。
「だめよ、おいで」と叱り、「申し訳ありません」と私たちに謝った。
「かまわないんですよ」
「バイバイ」と幼児たちは手を振って出て行く。
「バイバイ」会員たちも彫刻刀を持たないほうの手を振る。
ある例会日の幼老交歓の一コマ。2016/4/29
●迎春 しなやかに臨機応変に
健康で幸せに! 年頭に誰しも願うこと。しかし、何が起こるかわからない時代だ。臨機応変に身のこなしができるよう、インナーマッスルも鍛えておこう。ということで、獅子舞ならぬ“猫の舞”。
……どうも世の中、キナ臭い。危ないところに近づきたくないのに、だんだん近づいている気がする。身を翻す猫のように、流れを逆転できないものか。2016/1/1
●猫を彫る-『工芸通信』に紹介
木彫に関する拙文が『工芸通信』10月号(北海道美術作家協会)に掲載された。木彫猫を抱いた写真まで載っているのだが、老いた顔をあまりさらしたくないので、ここには本文のみ転載する。2015/10/27
*
老後の楽しみに木彫を始めた。立体彫刻としては仏像を彫る人はいるが、私がやりたい小動物や野鳥の彫り方を教えてくれる人が近くにいなかったので、やむなく独学我流でやってきた。道美展には友人に誘われて応募し、3年連続受賞して会員になった。最初の猫作品がウケたので、以後一貫して猫ばかり出展している。
猫を彫る面白さは、形のバリエーションの多様なことだ。下絵の参考にインターネットの猫サイトから写真をパクリまくる。猫好きの人は凝り性が多いらしく、愛猫のさまざまな写真を公開している。しかし写真はこっち側しか写っていないので、向こう側がどうなっているか想像つかないポーズもある。わが家で猫を飼っていたのは、娘たちが小・中学生の頃(もう30年も前のこと)で、今は飼っていないから細部を観察できない。
困ったときは近くの“猫カフェ”に出かけていく。立体としての姿形だけでなく、筋肉や骨格など毛皮に隠れた部分も触って確かめる。彫りかけの作品を持ち込んで、観察しながら彫ったこともある。猫たちは私を取り囲み、何やってんの変な爺さん、と逆に彼らに観察されていたようでもあった……。
最近は笑わせたいとの意図で制作している。ユーモラスな作品は彫るのが楽しいし、見ていただく人の頬に微笑が浮かんだら、“共感”を得たと思うことにしている。道美展が、こんな遊び半分の、小さな癒しを受容していただけるのはありがたい。
●ウッドバーニングの勉強
ウッドバーニングに関して、日本国内にはいい参考書が全然ない。アメリカのサイトによさそうな本があったので、Amazonを通じて買い求めた。当然ながらすべて英文。英語は苦手だから、大事なテクニックと思われる個所を翻訳サイトで拾い読みしたが、珍訳・迷訳で頭がこんがらがることもしばしば。
たとえば、バーニングペンで焼いたあと、色鉛筆で着色する方法を解説した個所。
「Do not force the pencil point into the woodburned strokes;
instead, let the color lie on the high ridges between those strokes.」
複数の翻訳サイトを開いて翻訳してもらうと、どこもこんなことになる。
「鉛筆点をwoodburnedされた脳卒中に押し込まないでください;
その代わりに、色にそれらの脳卒中の間に高い峰にあらせてください。」
「脳卒中」が出てきたのには困惑した。まるで意味がわからない。どうも「stroke」というのがそれらしい。辞書を引くと、
【stroke】「打つこと、打撃、一突き、一撃、発作、脳卒中」とあった。さらに「鳥の翼のひと打ち、クリケット・テニスの打球、水泳のひとかき」などとも。
この「水泳のひとかき」という言葉から、その動作をしてみて意味がわかった。よくワン・ストロークなんていう、要するにバーニングペンで焼き焦がした、えぐった状態の溝~窪みのことだな、と。
で、私の意訳は、
「(色)鉛筆の先をバーニンクした焦げ目に入れないでください。
焦げ目と焦げ目の間(板の表面)に色を塗ってください。」
幸い写真が多く載っているので、よくわからないところは類推して進んだ。お手本のパイログラフィー(Pyrography=焼き絵)を真似て、初めて焼いてみた鹿の絵(桐の板)が下図。色鉛筆も買ってきたのだけれど、翻訳に疲れてしまって塗っていない。2015/1/21
●孫が木彫猫に挑戦
小学6年生の孫が、冬休みの自由研究に猫を彫りたい、と言い出した。小6で猫の彫刻は難しすぎる気がしたが、日ごろの爺ちゃんの手作業をみて影響を受けたとあれば嬉しく、これも体験と意欲に応えることにした。下絵描き-鋸で木取り-叩き鑿で粗彫り-彫刻刀で仕上げ、と何度も軌道修正しながら、手順をやり通した。可愛い孫が彫った可愛い猫に、ハナマルをあげよう!2015/1/15
初挑戦に“ハナマル”
●木彫猫の年賀状 “若水”で邪気払い
毎年、干支を無視して、猫の木彫を年賀状のデザインにしている。今年は「水を飲む猫」で、“若水”のイメージのつもり。“若水”とは、元日の朝の初めて汲む水のこと、それは一年の邪気を払うという。
実際、おいしい水を飲むと心身ともに爽快、生き返った気持ちになる。なにやら行先知れぬ濁世の新年、みなさまに「蘇生の刻」となりますように。2015/1/1
●青いマニキュア
いつぞや、プロの木彫家の作品展で、アシスタントらしい人から木彫動物の目にマニキュアを塗るという秘訣を聞き出した。乾いては塗り乾いては塗りすると生きている目のように光るのだ、と。しかし、そういう女性の化粧品専門店みたいところに、年寄り爺が出入りできるものか、シャイな私としては実際に探す行動をとれないでいた。
先日、地下鉄に乗ったとき(いつもは青いシートに座るのだが、あいにくふさがっていたので)一般席に座を占めた。すると隣に若い女性が座った。私には派手すぎる服装に思えたが、今どきの娘さんなら普通かもしれない、と思って何気なく手元に目がいったら、爪(ネイルというのか)が青く光っていた。
その色は、私がめざす猫の青目にぴったりの、淡いが深い透明感のある青だったので、吸いよせられるように見つめてしまった。で、すぐ聞いてみようと、口を開きかけたのだけれど、いや待てよ、変態爺のように思われたら困るなと感じて、気持ちが臆した。とうとう娘さんが降りていくのに声をかけられなかった。
あの時、もし声をかけたら、娘さんは私の説明を聞いてくれただろうか……。
「とても素敵なネイルですね。実は、私は木彫を趣味にしていて、主に猫を彫っているのですが、その猫の目の色を表現するのに苦慮しています。あなたのマニキュアはちょうど私の理想とする猫の目にぴったりの色なのですが、それはどこの店で売っていた製品ですか?」
果して、こんな話をしまいまで聞いてくれただろうか。聞きたいことはもう少しある。
「猫の目は光彩が一色ではなく、グラデーションがかかっています。あなたのその色をベースにしたとして、さらに同系の濃い色~薄い色も売っているでしょうか? そして、その値段はいかほどのものでしょうか?」
だめだな。若いイケメンならともかく、薄汚い爺が話しかけたのでは、痴漢が寄ってきたとしか思われないだろう、声をかけないでよかった。それにしても、あの透明感のある青を手に入れることができたら……ああ、惜しかった、残念無念。2014/8/24
●またまた笑った猫川柳
ときどき検索する猫川柳がけっこう溜まってきた。で、第2弾(?)ということで最新選抜10句を列挙し、一掬の笑いに供したい。前回同様、作者に敬意を表し柳名も掲載。またおしまいの句は自作なので、全然笑えない場合はお許しを。2014/2/22
体脂肪計 試しに猫をのせてみる 寿々姫
リモコンを猫に向けたらシッポ振り ひろちゃん
いい柄の毛皮ステキと猫に言い ありの実
ほらなでろみたいに猫がヒザに乗る 猫オヤジ
猫にまでシールを貼って帰った子 山上秋恵
孫の声聞こえて猫は姿消し 中林照明
ケンカだが妙にハモっている猫ら 八寿代
服に毛が うちの猫(こ)のではないと妻 忠公
野良猫が長さ読んでるポチの紐 麦そよぐ
畦道で蝶を逃がした猫に会い 良二
●アントニオ・ロペス、執念のリアリズム
『現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス』を図書館から借りて読んだ(画集だから「観た」とういうべきか)。
この画家は30歳頃から写実の極致に挑み、「洗面台と鏡」「トイレと窓」など身辺の光景を迫真の超絶技巧で描き出す。ページを繰るたび、その精緻さに驚愕、感嘆した。
さらに説明を読んで驚いたのは、その1枚の絵に気が遠くなるような厖大な歳月をかけていること。マドリードのメインストリートを描いた有名な「グラン・ビア」は同じ場所~同じ時間に7年間も通って描きあげたというし、「バリューカスの消防署の塔から見たマドリード」は16年もの年数を費やした。また彫刻も手掛けており、木彫「男と女」は展覧会に出品した後も手を加え、最初の制作から26年間にわたって修正を施している。
世界的巨匠の芸術作品と、私のつまらない小動物のまがい物とでは、全然比較にならないのだけれど、作品の出来にいつまでも満足できず、現在も手を加え続けている姿勢に、同じ性分を感じた。この執念、見習うべし。
ロペス氏の木彫刻は、X線で調べると大小数多くの木片が組み合わされ、ネジやクギで固定、接合部分は接着剤やおが屑で隠されているそうだ。私の所属する木彫グループは、みんな一木彫りにこだわる伝統木彫を志す、いわば「木彫とは引き算である」と考える人ばかり。だから彫ってうまくいかなかったら削り落とし木を継いでまた彫る“足し算”方式は邪道といわれるかもしれないが、巨匠の創作姿勢~手法に、仕来りから解放される気持ちにもなった。2014/1/28
●今年も ハッピー・にゃあ・イヤー
年賀状はその年の干支を図案化するのが常識のようだが、常識のない私は毎年、木彫猫を入れる。木彫をやるようになってから頑なに押し通し、いまや年賀状は作品発表の場でもある。今年は趣向を変えて「怪しい奴」にした。
招き猫ならともかく睨む猫なんて正月にふさわしくない、という人がいるかもしれない。年の始めの挨拶だから、希望や元気を表す図柄にすべきだとは思う。しかし、これは私の気に入った作品。アイデアも彫りや塗りも自分のベスト、こんなのが表現したい世界なんです。どうか、己の姿とも知らず威嚇する子猫に初笑いを、そして今年も福が訪れますように。2014/1/1
●野良猫ニャジラ 庭先通るも他生の縁
奴はわが家の周辺をテリトリーにする野良猫のボスだった。のっそり悠々と歩く姿は薄汚れているけれど、いかにも風格があった。当時人気の漫画に登場するデブ猫のニャジラに似ていたから、うちの家族は誰いうとなく、そう呼んだ。ときどき餌をやったら立ち寄るようになり、ベランダからぬっと家の中を覗いて、物欲しげな顔をしていることもある――写真はそのときの1枚。チックはおそれて部屋の隅で唸っているだけ。
毎日のように来るようになって馴れたと思い、口移しで餌をやろうと私は煮干しをくわえ、ベランダから首を伸ばして誘ってみた。奴は一旦逃げたものの、臭いに負けて近づいてきた。うまくいきそうと思った瞬間、奴の右フックが顎にとんできて煮干しを落とし、あっという間に持っていかれた。唇の端に痛みを感じて、触ってみると血が出ている。恩を仇で返すとは……離れた場所でうまそうに食っているニャジラに腹が立った。しかし奴はこうやって餌を掠め取って生きてきた、それしか方法を知らないのだ、と抑えて、爪痕を消毒しサビオを貼って我慢した。2013/12/5
エサくれ顔の “ニャジラ”
●チック残影-猫からの年賀状
娘たちが小学生の頃、白いオス猫を飼った。知人のつてで近郊の農家からもらってきた。子猫なのに母猫の教育が行きとどいていて、まったく手間のかからない奴だった。狩りも上手で、スズメやらカエルやらを獲ってきては娘や妻に悲鳴をあげさせた。
うちへきて初めての正月、この写真を貼った年賀状を猫の実家のMさん宅に送った。「みなさんお元気ですか。ぼくは今、チックと呼ばれ、家族みんなに可愛がられて、楽しく暮らしています」というような文面で……。猫からの年賀状にMさんの家族は大笑い、わが家の近くにある親戚の雑貨店に電話を入れた。三が日がすぎたころ、店の奥さんがやってきて「みんな感激してたわよ」と、知らん顔をしているチックに言った。
写真は、スピーカーの上に乗ったチックを、ネコジャラシを振って見上げさせて撮った。背景の薄紫の花のせいで品よく写った。まだ成猫にいたっておらず、頼りなげなのが可愛い、と思うのは飼い主の感慨か。2013/11/24
かつての飼い猫 “チック”
●電動ルーター修理、小ネジ探しに汗
作品を彫り上げたあと、ヤスリをかけて研磨する手法をとるとき、電動ルーターを使う。先端ビットが各種あって、活用次第でかなり微妙な表現も可能になるが、私は補助的に使うことにしている。
そのルーターが購入3年目にして動かなくなった。通販で買ったので、どうしたものか困った。説明書をみると、カーボンブラシという部品が磨耗したらしい。幸い予備のカーボンブラシがついていたので、精密ドライバーで交換を試みた。ところが、取り付けてある数ミリの小ネジが固くてなかなかとれない。いじくり回しているうちにネジ山を欠かしてしまった。むりやり押し回してやっと外したものの、小ネジは使いものにならない。
ホームセンターで探すと、小ネジも多種多様、どっさり並んでいるが同じモノが見当たらない。店員に持参したネジを見せ、ノギスで測ってもらって、ビニール袋に入った小ネジセットを買ってきた。だが、なんと径が合わずゆるくて締まらない。再訪してクレームをつけ、今度はナットをはめて径を確認し、別なセットと取り換えてもらった。袋に同じネジはなかったが、数種類入っている中から同径の少し短かめを選び、再度カーボンブラシを取り付けると、今度はしっかり締めつけられ、正常に回転するようになった。
老眼で細かい作業が雑になったこともあるが、ネジの知識を持ち合わせていなかったので、あれこれ時間を費やした。ネジは頭の形によって、皿ネジ、鍋ネジ、トラスネジなど数種あり、しかも頭と心棒のそれぞれに大小長短があって複雑きわまりない。たかが小ネジなれど、これがなければ何もできないことを思い知った。2013/5/23
微妙な表現に役立つ電動ルーター |
カーボンブラシと小ネジ |
●73歳の誕生日に
先週月曜日、孫たちから「誕生日おめでとう」のお祝い寄せ書きメッセージがFAXで届いた。70を過ぎると誕生日なんてちっとも嬉しくないのだが、可愛い孫たちには笑顔で対応するしかない。みんな、けっこうきれいな字を書いている。これは家系の器用な手筋が伝わっている証拠だ、などと老妻と語りながら、木彫りする爺の漫画を描いて返信した。
折り返し、一番年長の孫(新学期に小学5年生になった)から電話がきて、「じいちゃん、面白かったよ」と感想を述べた。孫たちに笑ってもらえたようなので、爺の存在価値もいくらかあるというものか。2013/4/18
●年賀状-今年も猫、川柳を添えて
例年のことながら、年賀状は1年間彫ったなかから年始挨拶に向いた作品を入れている。猫ばかりでなく梟や人形を見てもらいたい気もするが、けっきょくは猫になってしまう。で、2013年は「母子交歓」にした。いつも一言添え書きをする。ことしは下手な川柳を2句詠んで加えた。もちろん、年頭からふざけても怒らない人だけ対象に。2012/12/21
雪の朝 猫の足あと梅の花
エサ要らず糞処理もなし木彫の猫
●玄関か床の間か
展覧会場で、私の作品の前に立ち止まった中年女性が話すのを、うしろで聞いていた。「こんなのほしいな、玄関に置きたいわ」と言った。ほんの一時間くらいしか居なかったので、他の来観者の感想は聞いていない。実は、わが家を訪れた妻の友人も、「こういうの玄関に飾りたい」と言っていた。奇しくも両者とも置きたい場所は“玄関”で、“床の間”ではなかった。
床の間に置く物は、立派な家宝のようなものだろう。誰にでも見せるものではなく、座敷に通した特別な客にしか見せないのだから、家格を表す名品でなくてはならない。ところが玄関に置く物となると、訪れるすべての人の目に触れるわけだから、つまり「うちに来る人たちの誰にでも見せたいもの」ということになる。少し品位は下がるが、家人の共感を求める積極性を感じる。
私は、床の間に置けるような作品をめざしたい、という気はさらさらない。玄関先でも窓辺でもいい、見た人にいっとき微笑を誘えたら……そんな作品をつくりたい。2012/9/20
●私の好きな佐藤朝山
私が最も好きな木彫家は佐藤朝山。といっても私は朝山の信奉者ではない。仏像や神話の神々の像なんか無信心な私には興味が湧かないし、むしろ伝統的な様式美を引きずっている気がして面白味を感じない。好きな作品は小動物を題材にした「牝猫」「鷹」「巣鶏」「山兎」「鼠」「蜥蜴」、それから「白菜」もいいな。何でもないような題材にすごい力量を感じる。
作品はなにか異様な迫真に満ちている。見たとたん、目を惹きつけられ心を奪われる。小動物の形や表情から発する穏やかならざる真っ直ぐなもの、それは植物の葉っぱからすら発せられ、圧力を感じさせられる。天才のオーラというべきか。
朝山は酒癖がわるく議論好きという、どうも付き合いにくい人だったらしい。フランス留学してブールデルに師事したが、酒ばかり飲んでいたという逸話もある。もし、タイムマシンでお会いできる機会があったとしても、ちょっと尻込みしてしまいそう……。弟子の橋本平八は従順に耐えたのだろうか。でも、まあ一晩くらいなら、一升瓶を下げて行ってやり込められるのを我慢できるかな。泥酔の底から本音を聴き出してみたい気もする。2012/8/11
●彫刻と模型
高村光太郎は『美について』のなかで、こう記している。
「模型は如何ほど巧みに出来ていても結局写しである。模型は受動的である。作者に何の根拠もなくて眼と手とによって自然形象を引写し、そこに多少の視覚的快美を求めたに過ぎないものを彫刻と目することは、なんだかおかしい」
「彫刻に対する人間の根本要求は、物の再現そのものにあるのでなくて、物の力学的抽象性の美に在るのだという見解をとりたいのである。(中略)ドルメン的性格をあくまで持つ彫刻性が発揮する特色としては、悠久感、物量感、均衡感、安定感、触知感、身をすりよせたいような頼もしさ、手中に入れてしまいたいような親しさ、仮現としての人生から実有としての根源美を抽出してくる清潔さ等々を考えることが出来る。現象はすべて抹殺される。およそ俗情は介入する余地がない」
つまり私の彫っているものは彫刻にほど遠く、模型というべきもののようだ。自分を弁えたうえで、その“視覚的快美”をどこまで表現できるか、また“力学的抽象性の美”とやらに近づくことはできないか……遊び半分でやっていたのに、姿勢を正さなければならない気持ちになった。2012/5/3
●思わず笑った猫川柳
猫を彫ることが多いので、その参考に猫のいろいろなポーズの写真を集めている。猫サイトは実に多いし、なかにはプロ並みの撮影者もいて、彫りたい意欲を刺激するショットとの出会いが嬉しい。話は逸れるが、ついでに猫川柳を集めてみたら、これもけっこう多い。猫はやっぱりユーモラスな表現に向いているらしい。思わず笑ってしまった10句を下に(ただし最後の句は私の作で、面白くないかも)。これ、著作権はどうなるか。短いから許されるというものではなかろうから、作句者に敬意を表し柳名も掲載させていただいた。2012/2/22
猫の名を聞けばオレオレ電話切り やーちゃん
あくびする猫を見ていてあくびする 航さん
新聞紙広げりゃいつも猫すわる たけのこ
疲れたら猫もやってる横座り 頓馬天狗
「猫かな?」と言ったら孫は猫の声 鉄爺
ままごとでのら猫の役する息子 みなちゃん
あんなにも俺を捜すかネコ不明 永石真丸
つまみ食い見ていた猫に少しやり 柏原のミミ
退屈し猫かぶりつく俺の足 北川修二
炎天下 木蔭さがして猫に会い 良二
●「年賀状と猫」 ハッピー・にゃあ・イヤー
年賀状に自刻の木彫作品を入れている。ここ数年、猫のいろいろなポーズを彫っているので、毎年猫を登場させることになる。しかし、干支に猫は入っていないから、年始挨拶にそぐわないという人がいるかもしれない。
なぜ猫が干支に入っていないか。子供のころ聞いたうろ覚えの記憶……お釈迦さまに動物たちが拝謁することになった。猫はその日がいつだったか忘れ、鼠に聞いた。鼠は意地悪して実際の訪問日の次の日を教えた。それを真に受けた猫は翌日顔を出したので間に合わず、十二支リストから外されてしまった。以来、猫は鼠をみると怒って追いかけるようになったそうな……。
かなりいい加減だが、まあこんなことらしい。で、干支に関係ないなら、毎年、猫を登場させてもかまわないと考えた次第。ちなみに私の誕生日は4月8日で釈迦降誕の日と同じなのだ。だからどうだ、というわけではないけれど。2012/1/1
●木彫猫の年賀状、シリーズに
木彫3年目、形の面白さから猫を彫ることが多い。
昨年、年賀状のデザインとして採り入れてみたら、意外に好評だったので、毎年彫る猫作品のなかから出来のいいのを登場させることにした。干支にネコは入らないから、逆に毎年使っても問題ないのがいい。2011/1